「結城朝光」頼朝側近小姓・鎌倉殿の“蘭丸”? 実直でイケメン、有力武将に成長

『前賢故実』に描かれた結城朝光(wikipediaより)
『前賢故実』に描かれた結城朝光(wikipediaより)
結城朝光(ゆうき・ともみつ、1168~1254年)は少年時代から源頼朝の側近として仕えた小姓のような存在です。織田信長の森蘭丸、足利尊氏の饗庭命鶴丸(あえば・みょうづるまる)を思い浮かべるとイメージしやすいかもしれません。成長して有力御家人として活躍し、『吾妻鏡』には武勇だけでなく、実直な性格や容姿もたびたび称賛されています。

鎌倉随一のラッキーボーイ

結城朝光は下野の有力武家・小山氏の出身で、結城氏の初代です。通称は七郎。晩年に出家し、法名は日阿といいます。

父は藤原秀郷の子孫・小山政光。母は頼朝の乳母(めのと)だった寒河尼。なお、頼朝ご落胤説もありますが、同時代史料にはみえず、後の時代の創作と思われます。兄に小山朝政、長沼宗政がおり、小山3兄弟の末っ子です。ほかに久下重光、吉見頼経(別名・朝信)らを兄弟(小山政光の庶子)として記す系図もあります。

朝光は『吾妻鏡』に建長6(1254)年、87歳で死去の記事があり、仁安3(1168)年生まれです。なお、治承4(1180)年で14歳とする記事もあり、これだと仁安2(1167)年生まれなのですが……。

14歳で登場する記事は、治承4(1180)年10月2日、母・寒河尼に連れられて隅田宿(東京都墨田区)の頼朝の陣を訪ねた場面です。頼朝は乳母だった寒河尼との再会を喜び、寒河尼は連れてきた朝光を頼朝に奉公させたいと申し出ます。その場で頼朝が烏帽子親となって元服します。「宗朝」と名も授かります。この時点では、小山七郎宗朝なのです。

いつから「結城朝光」?

頼朝に烏帽子親になってもらうのもラッキーならば、直接名を授かるのも鎌倉の武士としてラッキーなスタートです。ただ、小山宗朝の名で登場するのはこれっきり。『吾妻鏡』では早くから結城朝光の名で登場します。

例えば、治承5(1181)年4月、頼朝のご寝所を警備する若手武士を選抜したときは「結城七郎朝光」です。一方で、その後でも「小山七郎朝光」の名で登場することもあります。「結城」と「小山」の苗字が混在する時期があるのです。

これは早くに下総・結城(茨城県結城市)の所領を得て、本拠地、苗字の地を持ちながらも、周囲からは小山朝政の弟、小山軍団の一員と見られていたのではないかと想像できます。奥州合戦(1189年)でも小山朝政、長沼宗政とともに行動をしている場面があります。

また、「小山とは名乗らず結城七郎と名乗った」という『吾妻鏡』建久6(1195)年3月の記述もあります。本人は「結城」と名乗り、周囲からは「小山」の一員とみられていた期間がかなり長かったようです。

野木宮合戦で勝利を予言

治承5(1181)年閏2月、下野での野木宮合戦で、兄・小山朝政が現地の軍勢を指揮し、頼朝に敵対する志田義広を敗走させました。なお、野木宮合戦は寿永2(1183)年説も有力です。

このとき、結城朝光は鎌倉に残っています。頼朝は7日間、鶴岡八幡宮で戦勝祈願し、その最終日に「志田義広の蜂起はどうなっただろうか」とつぶやきます。そのとき後ろに控えていた朝光が「兄・朝政によって攻め落とされているでしょう」と答えます。頼朝は朝光の言葉を神託と感じ、「その通りだったら褒美を与えよう」と思うのです。そして、御所に戻ってみると、戦勝を報告する小山朝政らの使者が到着していました。

結城の所領はこのときの恩賞かもしれません。信心深い頼朝が神前での言葉を違えることはなく、恩賞を得ました。『吾妻鏡』も早速、治承5(1181)年4月の記事で「結城七郎朝光」としています。

ご寝所警備の11人に抜擢

「結城七郎朝光」の名で登場するのが、治承5(1181)年4月7日、頼朝のご寝所を警備する11人に抜擢されたときの『吾妻鏡』の記事です。

弓矢に優れ、信頼の厚い者が選ばれました。北条義時や梶原景時の長男・梶原景季らもおり、彼らは10~20代で、その中でも14歳の結城朝光が飛びぬけて若かったのです。佐原義連(三浦義村の叔父)、千葉胤正(千葉常胤の長男)ら40~50代の武士や年齢不詳の者も交じっていますが、有力御家人の子弟を中心とした若者を頼朝の親衛隊兼将来の側近として抜擢したのです。

野木宮合戦での戦勝祈願の場面、そしてご寝所警備の武士に選ばれた経緯をみると、若いときの朝光は常に頼朝の側にいて、小姓か秘書のような立場で働いていたはずです。

実直な性格、しかも容姿端麗

『吾妻鏡』には、結城朝光の人柄を示すエピソードがいくつかあります。自身の立場の有利不利に関係なく率直にものを言う場面があります。また、容貌に関してさわやかなイケメンだったと書かれています。

畠山重忠をストレートに弁護

畠山重忠は元久2(1205)年6月に謀反の疑いをかけられ、自己弁護せず、鎌倉の大軍に討たれるという悲劇的な結末を迎えます。それ以前にも大ピンチがありました。文治3(1187)年、代官の不始末で拘禁され、このときも言い訳をせず、ハンガーストライキをやって、身柄を預かっていた千葉胤正のとりなしで許されます。所領の武蔵・菅谷で謹慎しますが、1カ月後の同年11月、梶原景時が頼朝に告げ口をします。

「畠山重忠は、重罪でもないのに拘禁されたのはこれまでの功績を破棄されたようなものだと言って所領に引きこもり、反逆を起こそうとしているとの情報があります。一族がことごとく在国しており、これはつじつまが合っています」

頼朝は有力者を集めて相談しました。小山朝政やその従兄弟・下河辺行平、三浦義澄、和田義盛らがそのメンバー。「使者を送って事情を問うか、直ちに討手を差し向けるべきか」と差し迫った状況になりましたが、結城朝光がまず発言します。

「重忠殿は生まれつき実直な人で、道理をわきまえ、謀反を起こすような人ではありません。謀反の情報はきっと偽りでしょう」

根拠はあまり具体的ではありませんが、全面的に畠山重忠をかばいました。そして、重忠の友人である下河辺行平が武蔵に赴き、感情をこじらせている重忠を説得。鎌倉に連れ戻して事なきを得ました。朝光は「武士の鑑」とされた畠山重忠を尊敬していたのです。

弁舌さわやか、僧兵の騒ぎを静める

建久6(1195)年3月12日、頼朝は大勢の鎌倉武士を引き連れ、東大寺の大仏再建供養に参列しましたが、このとき、僧兵と警備兵がもめごとを起こしました。騒ぎを収めようとした梶原景時が威圧的な態度に出て、ますます僧兵を怒らせます。このとき、騒ぎを静めるよう頼朝に命令されたのが結城朝光です。礼儀正しく対応したうえで、けっこうきついことを言って僧兵を黙らせたのです。

「残酷な(人殺しをする)武士でさえ仏との結びつきを願って、この大事業に関われたことを喜んでいます。知恵も学問もある僧侶が、どうして東大寺再建を喜ばず、騒ぎを起こして自分たちの寺の再興を邪魔するのでしょうか。これはとても不穏当なことです。理由をうかがいましょうか」

僧兵たちは騒ぎを収め、使者は、勇気と姿の良さ、弁舌のさわやかさだけでなく社寺での礼儀をわきまえていると感じ入り、名を聞きたいと尋ねます。「小山ではなく、結城朝光」と答えたのはこのときです。

朝光の容貌についてはほかの記述でも触れられています。元久元(1204)年、3代将軍・源実朝の正室になる貴族の娘を迎えに行く一団に加わり、京に向かいますが、「容貌の優れた者を選んだ」とされています。

素直な発言がピンチを招いたことも

結城朝光は、正治2(1200)年の梶原景時の変にも大きく関わっています。

正治元(1199)年10月25日、朝光は同僚に呼び掛けて大勢で頼朝追悼の念仏を唱えます。頼朝は前年12月、落馬して意識を失い、年明けに死去しました。このときは頼朝嫡男の源頼家が2代目の「鎌倉殿」として鎌倉幕府の頂点に立っていたのですが、朝光はこの席でかなり思い切ったことを言っています。

梶原景時追放につながった朝光の人望

「忠臣は二君に仕えずと言うそうです。特に手前は幕下将軍(頼朝)に大きなご恩を賜った。(頼朝の)遺言で出家しなかったが、今はとても悔やんでいる。近ごろの世情は薄氷を踏むようだ」

頼朝を懐かしんだ結城朝光らしい素直な言葉ですが、取りようによっては現政権に対する批判です。そして、そう捉えた人もいて、梶原景時が源頼家に讒言し、朝光の知らないところで事態が動きます。10月27日、北条政子の妹で幕府女官の阿波局が「一昨日のご発言を梶原さまが告げ口し、あなたさまの処罰が決定したそうです」と朝光に伝えます。

朝光は実直で武勇に誇りを持つ人物ですが、座して死を待つほど潔くはなく、また、政治的駆け引きは得意でないことも心得ていて、その手のことが得意な人物に相談します。

友人の三浦義村です。義村は「梶原景時はけしからん」と憤りながらも「だからといって武力に訴えるのはよくない」と、和田義盛や安達盛長といった宿老を巻き込み、逆に梶原景時を弾劾する署名集めを画策。文章は幕府文官の中原仲業に書かせました。10月28日、午前中から大勢の御家人が鶴岡八幡宮に集まりました。

さながら梶原景時糾弾集会。66人が署名し、大江広元(中原広元)に提出されます。大江広元が扱いに困って放置していると、和田義盛が結論を迫り、弾劾状は源頼家に提出されます。頼家の尋問に梶原景時は弁明せず、鎌倉を去りました。

この後、先手を制する形で梶原景時の鎌倉追放が正式決定され、屋敷も打ち壊し。年明けの正治2(1200)年1月20日、所領を抜け出して西へ向かった梶原景時父子は駿河・清見関(静岡県静岡市清水区)近辺で待ち構えていた武士に取り囲まれ、奮戦むなしく父子ともども討ち死にしました。

処罰の危機だった朝光は大勢の仲間に助けられ、ピンチを脱しました。作戦立案は友人・三浦義村。多くの御家人が梶原景時失脚の好機と捉えた面はありますが、朝光の身を助けたのは自身の武力でも知略でもなく、人柄、人望だったのです。

三浦一族滅亡にも同情的発言

結城朝光の率直な発言は年齢を重ねても変わりません。
宝治元(1247)年、宝治合戦で三浦一族が北条氏に敗れ、三浦義村の次男・三浦泰村以下三浦氏主流は全滅しました。

6月29日、鎌倉に来た朝光は執権・北条時頼に会い、「自分が鎌倉にいたら、泰村も簡単には討たれるような恥はさらさなかった」と言います。「自分が味方したら、幕府が相手だとしても、もう少しまともな戦いができた」という意味なのか「自分がいたら、三浦泰村の挙兵をやめさせ、討たれることはなかった」という意味なのか、いずれにしても、執権の前で幕府への反逆者に同情を寄せたのです。

この発言は当然問題になって、朝光は年末、九州の所領を得ますが、そのとき、「宝治合戦の際に失言があった」と検討を求める声もありました。しかし、北条時頼は「確かに言い過ぎだが、もともと一本気な人で自身の損得を考えずに意見を言っただけだ」と、とがめなかったのです。ここも朝光の人柄の勝利です。

おわりに

結城朝光は、武勇もあり、性格も実直で、しかもイケメンという美点が目立つ御家人でしたが、素直過ぎて不用意な発言もありました。御家人の粛清が続いた鎌倉では命取りになる可能性もあったのですが、そのトラブルは理解ある人々の力で大事に至らず、若いときから晩年までとことん幸運な生涯を送ります。悲劇的事件の多い鎌倉時代初期ですが、「ヤミ」を感じさせないキャラクターでもあります。

【主な参考文献】
・五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)
・松本一夫『中世武士選書27小山氏の盛衰 下野名門武士団の一族史』(戎光祥出版)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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