「小山朝政」執権・北条義時に判定勝ち?鎌倉最強御家人の知られざる逸話

『前賢故実』に描かれた小山朝政(wikipediaより)
『前賢故実』に描かれた小山朝政(wikipediaより)
鎌倉時代初期に活躍した下野の武将・小山朝政(おやま・ともまさ、1154~1238年)は源頼朝の信頼も厚く、『吾妻鏡』にも頻繁に名が出てくる有力御家人です。義兄弟・宇都宮頼綱の処分をめぐり、北条義時との神経戦を勝ち抜くしたたかさをみせ、有力御家人の粛清が相次いだ時代を生き抜きました。「鎌倉殿」ブームの中、あまり注目されていませんが、武勇としたたかさを兼ね備えた“最強御家人”ともいえます。

秀郷流藤原氏の本流を自任

小山朝政は下野・小山郷(栃木県小山市)を地盤とする小山氏の2代目です。通称は小四郎。晩年、出家して法名を生西と名乗ります。鎌倉幕府有力御家人として下野国守護、播磨国守護を務め、晩年、下野守にも任じられます。

父は小山氏初代・小山政光。母は頼朝の乳母(めのと、養育係)だった寒河尼。通説は継母ですが、朝政の母を宇都宮朝綱の娘とする系図があります。この系図に基づく新説では、小山氏と宇都宮氏の結びつきを重視し、宇都宮氏出身の寒河尼の実子だからこそ朝政が嫡男として小山氏を継いだと考えます。また、通説では寒河尼は宇都宮朝綱の妹で、父・八田宗綱53歳のときの娘となり、新説では宇都宮朝綱17歳のときの娘となります。

弟に長沼宗政、結城朝光がいます。朝政とこの弟2人が小山3兄弟です。源平合戦、奥州合戦では3兄弟が一体となって奮戦します。ほかに久下重光、吉見頼経(別名・朝信)らを兄弟とする系図もあります。彼らは小山政光の庶子だった可能性があります。

ルーツは平将門の乱を制した平安時代中期の武将・藤原秀郷。秀郷の子孫には多くの名門武家があり、中でも小山氏は秀郷流嫡流(本流)を誇ります。小山政光はもともと武蔵北部の大田氏の庶子でしたが、急速に勢力を拡大したのか、鎌倉時代初期までには本家・大田氏を圧倒し、同じ秀郷流の藤姓足利氏の滅亡もあり、小山氏が秀郷流嫡流を自任したのです。

「水鳥の羽音」知られざる真相

治承4(1180)年8月、平家打倒を掲げて挙兵した源頼朝は9月3日、小山朝政に書状を送り、味方するよう要請します。頼朝の期待がうかがわれます。1カ月後、頼朝の陣に駆け付けたのは母・寒河尼と元服前の弟・結城朝光で、朝政の姿はありませんが、小山氏は頼朝に味方する態度を明確にしました。

10月20日、源平両軍が対陣した富士川の合戦では夜半、水鳥の羽音に驚いた平家軍が敵襲と勘違いして逃走、不戦敗となります。この場面、延慶本『平家物語』にはほかの史料にない一文があります。

「関東の武士が平家に従っていたが、小山朝政以下多くの者が源氏についた」

大番役で在京していた朝政は、そのまま平家軍に参加したが、決戦前夜に陣中を抜け出し、ほかの関東の武士も続いて平家軍は戦線を維持できず退却した……。これが平家敗走の真相とみた方が現実的です。ただ、水鳥の羽音と平家敗走をダイレクトに結びつけた方が断然に面白く、宿場の遊女たちのネタとして広まったのではないでしょうか。

延慶本『平家物語』は古い写本を基にしており、『平家物語』のオリジナルに近いとみられています。

頼朝の関東制覇を決定付けた野木宮合戦

小山朝政の活躍に野木宮合戦があります。『吾妻鏡』は治承5(1181)年閏2月と記述しながら、回想場面では寿永2(1183)年のできことにしており、通説は寿永2年です。ただ、前後にある平清盛の死去、志田義広の鹿島神宮領侵略、平家軍襲来に備えた鎌倉武士の動向の記事との関連を考えると、治承5(1181)年説も簡単に切り捨てることはできません。

野木宮合戦は、下野南端・野木宮(野木神社、栃木県野木町)で頼朝の叔父・志田義広と戦い、頼朝の関東制覇を決定付けた重要な合戦です。志田義広は常陸南部に勢力を持ち、独立独歩の構えで、関東に残った最後の反頼朝勢力でした。頼朝は西からの平家進軍に備え、鎌倉から大軍を送ることができず、朝政が事実上主将となって北関東諸将を指揮し、志田義広と戦います。志田義広謀反の情報を聞いた頼朝は「朝政と下河辺行平(朝政の従兄弟)は命じなくても、勲功を挙げるだろう」と語り、朝政への全面的な信頼をうかがわせます。

朝政は最前線で奮戦していたのか志田義広の矢を受けて落馬。しかし、最終的には小山氏中心の連合軍が勝ち、志田義広を敗走させました。『吾妻鏡』によると、この連合軍の中に源範頼の名があります。範頼は頼朝の異母弟で源義経とともに源平合戦を戦いますが、野木宮合戦では頼朝の代理なのか、鎌倉からの派兵なのか参加経緯は不明。小山氏が擁立したのではないかと想像させる場面です。

頼朝の厚い信頼、有力御家人の地位固める

元暦元(1184)年9月2日、小山朝政は本隊から1カ月遅れて平家追討に加わります。8月8日、源範頼は「平家追討使」として鎌倉武士の本隊を率いて出陣します。頼朝は桟敷席を設けて見送り、2日前にも壮行会を開いていて、盛大に送り出しました。

朝政の出陣はその1カ月後ですが、この間に鎌倉では公文所(後の政所)の整備が進み、大江広元(中原広元)、三善康信ら頼朝の政治ブレーンが鎌倉に定着します。朝政は、頼朝が大江広元らと図った戦略上の方針を聞いたうえで範頼に合流したのではないでしょうか。

「小山の者どもを大切に」頼朝の書状

平家追討のため西国を進む鎌倉武士団は長期遠征で疲弊します。食糧不足に陥り、鎌倉へ帰ると言い出す武将もいる始末で、指揮官・源範頼は窮状を訴える書状を出しています。頼朝は範頼宛てに激励や細かな注意を与える返書を送り、その中には「小山の者どもを大切に扱うように」とも記されています。

また、頼朝は北条義時ら側近に加えて、遠征先の朝政にも書状を送っています。内容は計り知れませんが、範頼を支えてほしいという思いがあったのでしょう。

範頼は山陽道を制圧して九州へ渡り、西国の武士をある程度従え、地味ながらも遠征軍指揮官の役割を果たします。しかし、元暦2(1185)年2~3月、京駐留部隊だった源義経が屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで華々しく活躍し、源平合戦の主役に躍り出ます。範頼の働きは目立たず、範頼に従っていた朝政の具体的な活躍も不明ですが、所領の多さから大きな戦功を挙げたとみられます。ただ、平家滅亡後、無断任官した鎌倉武士をとがめる頼朝の書状には、朝政に対しても「任官はのろまな馬が道草を食うようなものだ」と痛烈に叱責しています。

自邸での流鏑馬ミーティング

頼朝が奥州藤原氏を攻めた文治5(1189)年の奥州合戦では、藤原国衡(藤原泰衡の異母兄)が守る阿津賀志(あつかし)山攻めで奮戦し、本隊とは別に逃亡した藤原泰衡捜索に当たりました。戦後、小山3兄弟は奥州最南部にそろって所領を得て、関東との境界部分を守備する形になっています。

建久5(1194)年10月9日、頼朝は武芸達者な武士を集めて古い記録を調べさせ、流鏑馬の作法を語らせます。その会場が朝政の屋敷でした。これは翌年、上洛の際、住吉神社(大阪府大阪市住吉区)で披露する流鏑馬の準備。さらに流鏑馬の作法を次世代に伝える目的があります。

この流鏑馬会議は記録係として幕府文官・中原仲業も参加した本格的なもの。それが朝政邸で開催されたことは頼朝の小山氏への信頼の表れです。また、頼朝が崇拝する武芸の開祖・藤原秀郷の流儀を中心に武芸のルールを定めようという意図や、小山氏を秀郷流の嫡流であることを公認する姿勢も感じられます。

北条義時との神経戦、13日間の攻防

元久2(1205)年8月、宇都宮頼綱に謀反の嫌疑がかかります。

8月7日、執権・北条義時と大江広元らが協議し、小山朝政を北条政子邸に呼び出し、宇都宮頼綱追討を命じます。朝政はこの役目を辞退。宇都宮頼綱は縁戚関係にあり、かわいそうだというのが辞退の理由です。

義兄弟・宇都宮頼綱をかばい通す

北条義時はこのとき、父・北条時政に代わって執権に就いたばかりでした。6月に畠山重忠の乱があり、7月には、畠山重忠は冤罪、北条時政とその後妻・牧の方が陰謀の首謀者とみなされ鎌倉を追放されます。

宇都宮頼綱に謀反の疑いがかけられた理由は不明ですが、妻の母である牧の方への加担を疑われたのかもしれません。頼綱は父・宇都宮業綱が病弱だったせいか、小山政光の猶子(相続権のない養子)となります。朝政とは義兄弟です。年齢差は20歳近くあり、朝政は親代わりとなって頼綱を養育したのかもしれません。

宇都宮頼綱は弁明書を提出。朝政も書状を添えます。これに対して北条義時は許すとも許さないとも態度を示しません。相手の出かたを待ち、次の手を見極めるような静かな展開。追い詰められた宇都宮頼綱は60人余の家臣ともども出家。恭順の姿勢を示します。

解決をみたのは8月19日。事件発端から13日目です。鎌倉に到着した宇都宮頼綱一行に対し、北条義時は対面を拒みましたが、追い詰められて挙兵という短慮には走らず、朝政の弟・結城朝光が剃髪した宇都宮頼綱の髻(もとどり)を将軍・源実朝に取り次ぎます。結局、小山兄弟の奔走で宇都宮頼綱は処罰を免れました。朝政は義弟・頼綱をかばい通したのです。

既に梶原景時、比企能員、畠山重忠と有力御家人が粛清され、執権・北条氏の独裁が確立しつつある時期です。このとき、謀反の嫌疑をかけられながら生き延びた宇都宮頼綱は稀有な例。北条義時に屈服し、鎌倉を追放された形ですが、その後も有力御家人としての地位は保ちます。火中の栗を拾っても傷つかなかった朝政の交渉力、対応力は滅ぼされた御家人にはない冷静さ、駆け引きのうまさがあります。北条義時は当初の目的である宇都宮頼綱追討を果たせず、朝政の判定勝ちといえます。

なお、出家した宇都宮頼綱は法名を蓮生と名乗り、その後、「百人一首」の誕生に大きく関わりました。

後鳥羽上皇から密書を受けた承久の乱

承久3(1221)年、後鳥羽上皇が兵を挙げて幕府と対立した承久の乱では、小山朝政は鎌倉に残りました。朝政はこのとき67歳。鎌倉幕府は東海道、東山道、北陸道の3ルート計19万騎で京を攻めますが、東山道の大将軍の一人として嫡男の小山朝長が出陣しています。

『承久記』によると、後鳥羽上皇は有力御家人8人に北条義時追討の院宣を送りました。朝政のほか、武田信光、小笠原長清、宇都宮頼綱、長沼宗政、足利義氏、北条時房、三浦義村といった面々です。後鳥羽上皇は関東の有力武将が北条氏の支配に甘んじているわけがないと見込んだのか、粛清が続く鎌倉幕府の内紛を誘おうとしたのか、いずれにしてもその目論見は外れました。朝政らはすぐに北条政子のもとに駆け付け、後鳥羽上皇に同調せず、鎌倉を守る意思を明確にします。

鎌倉武士団は一致団結して圧勝し、後鳥羽上皇は自身に味方した武士たちを追討する院宣を出さざるを得ない状況に追い込まれました。『承久記』では、朝政は京で敵将を斬首したとありますが、鎌倉に残ったはずなので矛盾します。

おわりに

小山朝政は、合戦でも重要儀式でも頼朝の親族である源氏名門や北条一門と並び、常に重要なポジションに名が上がる最有力御家人でした。御家人粛清の時代も冷静に対応し、勝ち残ります。子孫は鎌倉時代を通して有力御家人の地位を保ち続けたのです。


【主な参考文献】
  • 五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)
  • 松本一夫『中世武士選書27小山氏の盛衰 下野名門武士団の一族史』(戎光祥出版)
  • 北原保雄、小川栄一編『延慶本平家物語』(勉誠出版)
  • 栃木孝惟、日下力、益田宗、久保田淳校注『新日本古典文学大系43保元物語・平治物語・承久記』(岩波書店)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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