「結城宗広」常に生首求め、日毎に… 南朝屈指の猛将の実像は?
- 2024/10/23
南北朝時代の武将・結城宗広(ゆうき・むねひろ、1266~1339年)は『太平記』に「常に死人の生首を求め、日毎に2、3人を斬った」と書かれ、その残忍さが際立っています。果たして本当にそのような人物だったのでしょうか。
結城宗広は白河結城氏の当主。当時、奥州には後醍醐天皇の信頼厚い青年貴族・北畠顕家がおり、長距離遠征で足利尊氏の軍勢を撃破しますが、顕家率いる奥州武士団の主力こそ白河結城氏で、宗広は顕家の強さを支えた猛将だったのです。その実像を探っていきます。
結城宗広は白河結城氏の当主。当時、奥州には後醍醐天皇の信頼厚い青年貴族・北畠顕家がおり、長距離遠征で足利尊氏の軍勢を撃破しますが、顕家率いる奥州武士団の主力こそ白河結城氏で、宗広は顕家の強さを支えた猛将だったのです。その実像を探っていきます。
【目次】
奥州の雄・白河結城氏 足利、新田につぐ功績
結城宗広は結城祐広(すけひろ)の嫡男で、陸奥・白河(福島県白河市)を拠点とする白河結城氏2代目。平将門を討った名将・藤原秀郷の子孫です
小山政光
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結城朝光 長沼宗政 朝政
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朝村 朝広
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広綱 祐広(白河結城氏初代)
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宗広
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親光 親朝
白河結城氏は宗広の曽祖父・結城朝光が小山氏から独立して立てた結城氏の分家。結城朝光は下総・結城(茨城県結城市)を本拠地としていましたが、文治5年(1189)の奥州合戦で戦功を挙げ、兄2人(小山朝政、長沼宗政)とともに陸奥南部に所領を獲得。その新領が白河結城氏の拠点になります。結城朝光の孫・結城広綱が結城氏本家(下総結城氏)を継ぎ、宗広の父・結城祐広はその兄弟です。
宗広の長男・結城親朝(ちかとも)は白河結城氏を継承し、宗広の次男・結城親光(ちかみつ)は楠木正成、名和長年、千種忠顕と並ぶ後醍醐天皇の忠臣「三木一草」の一人です。
後醍醐側近・円観の身柄を預かる
結城宗広は鎌倉幕府の御家人で、後醍醐天皇による討幕計画を討伐する側でした。元徳3年(1331)5月、後醍醐天皇側近僧侶が幕府調伏の祈禱を行った罪で逮捕され、宗広はその一人で陸奥流罪となった円観の身柄を預かります。8月に内裏を抜け出した後醍醐天皇が挙兵し、元弘の変が勃発。宗広は幕府軍の一員として畿内に出兵しました。後醍醐天皇は捕らえられて翌年、隠岐に流されます。それでも討幕の動きは収まらず、元弘2年(1332)9月、幕府は再び追討軍を畿内へ送ります。このときは宗広の次男・結城親光が上洛し、幕府軍は苦戦して長い滞陣となりました。
「京・鎌倉・奥州で軍忠を尽くす」
元弘3年(1333)4月2日、結城宗広は後醍醐天皇の第3皇子・護良親王の令旨を受け取りました。討幕への参戦を求める書状です。京にいる次男・結城親光を経由して届けられたとみられ、親光は4月上旬、討幕派に転じました。4月1日には後醍醐天皇が宗広に綸旨を出し、討幕を決意した足利尊氏も4月27日付の軍勢催促状を出していますが、宗広がこれらの書状を受け取ったのは6月3日。その前の5月18日に旗幟を鮮明にし、新田義貞の鎌倉攻撃に参加します。
また、白河に長男・結城親朝が残っており、後醍醐天皇は4月17日付で親朝へも綸旨を出します。鎌倉幕府滅亡後、宗広は「京、鎌倉、奥州で軍忠を尽くした」と申告。宗広自身と長男、次男がそれぞれの場所で幕府勢と戦ったのです。足利、新田に次ぐ軍功といえます。
時期 | 合戦名(場所) | 主な人物 |
---|---|---|
元弘元年(1331) 9月 | 笠置山の戦い (山城国 笠置山) | 《宮方》千種忠顕、 四条隆資 《幕府方》 大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏(のちの尊氏) |
9月11日 | 赤坂城の戦い (河内国 赤坂城) | 《宮方》護良親王、楠木正成 《幕府方》大仏貞直、金沢貞冬、北条時見、足利高氏 |
元弘3年(1333) 2月22日~閏2月1日 | 上赤坂城の戦い (河内国 上赤坂城) | 《宮方》平野将監、楠木正季 《幕府方》阿蘇治時、長崎高貞、本間九郎、結城親光ほか |
2月29日 | 吉野城攻防戦 | 《宮方》村上義光、村上義隆 《幕府方》二階堂道蘊 |
閏2月29日 | 船上山の戦い (伯耆国 船上山) | 《宮方》名和長年、名和行氏 《幕府方》佐々木清高、佐々木昌綱、糟屋重行 |
2月~5月 | 千早城の戦い (河内国 千早城) | 《宮方》楠木正成、楠木正季、平野将監 《幕府方》阿蘇治時、名越宗教、大仏貞直、新田義貞、長崎高貞ほか |
5月 | 六波羅攻略 (山城国) | 《宮方》足利高氏、赤松則村 《幕府方》北条仲時、北条時益 |
5月11日 | 小手指原の戦い (武蔵国 小手指原) | 《宮方》新田義貞 《幕府方》桜田貞国、長崎高重、長崎孫四郎左衛門 |
5月12日 | 久米川の戦い (武蔵国 久米川) | 《宮方》新田義貞 《幕府方》桜田貞国 |
5月15~16日 | 分倍河原の戦い (武蔵国 分倍河原) | 《宮方》新田義貞 《幕府方》北条泰家、北条貞国 |
5月16日 | 関戸の戦い (武蔵国 霞ノ関) | 《宮方》新田義貞 《幕府方》北条泰家 |
5月18~22日 | 鎌倉の戦い (相模国 鎌倉) | 《宮方》新田義貞、足利義詮 《幕府方》北条高時、北条守時、長崎高資 |
5月22日 | 東勝寺合戦 (相模国 鎌倉) | 《宮方》新田義貞 《幕府方》北条高時 |
南朝屈指の精鋭・北畠顕家率いる奥州軍の主力
鎌倉幕府滅亡後の建武の新政で、北畠顕家が陸奥守に任じられます。顕家は後醍醐天皇第7皇子・義良親王(後村上天皇)を奉じ、元弘3年(1333)11月には多賀城(宮城県多賀城市)の陸奥国府に入りました。顕家にはかなりの権限が与えられ、小さな幕府ともいえる「陸奥将軍府」を組織。結城宗広はその中心メンバーとなります。後醍醐天皇から結城氏惣領職に
『建武年間記』によると、陸奥将軍府首脳部の式評定衆8人のうち奥州武士は、結城宗広、親朝父子と伊達行朝の3人。白河結城氏への期待の大きさが示されています。また、後醍醐天皇は元弘4年(1334)1月、宗広に結城氏惣領職を与えます。白河結城氏は本来、下総結城氏の分家ですが、討幕戦の貢献が大きく評価されました。
尊氏を敗走させ、名刀「鬼丸」賜る
後醍醐天皇の新政は短期間で崩壊し、建武2年(1335)、足利尊氏が離反します。北畠顕家は奥州勢を率いて出陣。鎌倉で足利勢を撃破し、建武3年(1336)1月には京を攻めて尊氏を敗走させました。顕家に同行した結城宗広、親朝父子も戦功を挙げ、宗広は後醍醐天皇から宝刀「鬼丸」を与えられ、親朝は下野国守護職に任じられます。なお、『太平記』によれば、宗広の次男・親光は建武3年1月、尊氏暗殺を企てるも失敗し、討ち死にしています。
再上洛求め、後醍醐天皇から矢の催促
結城宗広は北畠顕家と共に奥州へ帰還しますが、九州に敗走した足利尊氏はその後、勢力を回復して6月には京都を再び制圧、11月には新たな武家政権の成立(室町幕府)を宣言。東国にも尊氏に同調する勢力が増え、翌建武4年(1337)1月、北畠顕家は拠点を陸奥国府から霊山城(福島県伊達市)に移します。結城宗広はこの頃、不測の事態に備え、所領を親朝の子・顕朝に伝承しています。吉野(奈良県吉野町)に南朝を立てた後醍醐天皇は北畠顕家に上洛を催促。結城宗広にも足利尊氏討伐を命じる綸旨を何度も出し、その遅れを非難することもありました。
同年8月、北畠顕家はようやく霊山城を発ち、結城宗広も従いますが、今度は長男・親朝を白河に残します。遠征軍は鎌倉を制圧し、建武5年(1338)1月には美濃・青野原の戦いで足利勢を破る快進撃。顕家率いる奥州軍は南朝屈指の強兵で、白河結城氏はその主力を担っていました。
帰還の船が遭難 伊勢で無念の客死
建武5年(1338)5月22日、高師直との激戦で北畠顕家が戦死。南朝は劣勢となりますが、結城宗広はみたび奥州勢を動かすよう後醍醐天皇に進言し、8、9月頃に伊勢から船で奥州に向かいました。しかし、暴風雨に遭い、顕家の父・北畠親房の船は房総沖に漂着。宗広と義良親王を乗せた船は吹き戻されてしまい、三河湾の篠島(愛知県南知多町)に漂着しました。結城宗広は義良親王を伴い、伊勢湾を渡って伊勢・光明寺(三重県伊勢市)に入りますが、重病となり、暦応元年(1338)11月、73歳で無念の最期を遂げます。なお、『太平記』では、伊勢・安濃津(三重県津市)に漂着し、そこで病死したとされています。
尊氏が再三勧誘、長男・親朝は北朝に転身
義良親王は吉野に入り、暦応2年(1339)、後村上天皇として即位しました。結城宗広死後、白河に残った長男・結城親朝は南朝方として奮闘しますが、康永2年(1343)8月、ついに北朝側に寝返ります。この間、小田城(茨城県つくば市)や関城(茨城県筑西市)などを拠点に関東の南朝勢を指揮する北畠親房からは幾度も関東への出陣を催促され、一方では足利尊氏からの勧誘もたびたびありました。
罪なき人を日々斬って地獄に? 実像は…
『太平記』には、結城宗広のすさまじい悪行が書かれています。罪のない人を縛りあげ、数え切れないほど僧や尼を殺害。常に死人の首を見ないと気分が晴れないと、僧俗男女を問わず、日々2、3人の首を斬って掲げたとして、この後、宗広が地獄に落ちた後の様子などが延々と続きます。「追善供養は不要。朝敵の首をわが墓前に」
結城宗広の臨終の姿も激しいもので、「70歳を超え、栄華を極め、思い残すことはないが、朝敵を滅ぼすことができず、何回生まれ変わっても心の迷いとなる」
と言い、最期の言葉を残します。
「愚息には、わが後生を弔うなら追善供養、読経などは不要、ただ朝敵の首をわが墓前に掲げよと伝えてください」
そして、抜いた刀を逆手に持ち、歯がみしながら絶命。安らかな往生にはほど遠い、戦闘意欲むき出しの形相だったのです。
武士の罪業を強調した『太平記』
こうした『太平記』の書きぶりは、猛将らしい結城宗広の姿を『平家物語』の平清盛の死に際に重ねたもの。毎日罪なき人を斬ったというのも、もちろん実話でもなければ、宗広の人格、実像を誇張したわけでもありません。武士の罪業の深さを強調し、地獄に落ちたという話の前ふりです。決して猟奇的なシリアルキラーだったわけではありません。結城宗広は各地を転戦して戦功を挙げ、白河結城氏の勢力を拡大したこともあり、長く地元の人々に崇敬されてきました。白河市役所に隣接する関川寺には宗広の墓や像があります。
おわりに
結城宗広は南朝が不利になった状況でも後醍醐天皇への忠節を曲げず、忠臣としての姿が際立っています。一方では孫に所領を相続し、2度目の上洛戦では長男・親朝を白河に残しており、自家の存続に無関心だったわけではありません。宗広自身は南朝を離れることはできませんが、死後の状況はある程度想定し、『太平記』の遺言とは裏腹な思いもあったはずです。武士の名誉は大切ですが、自家の系統と所領もまた大切なのです。【主な参考文献】
- 亀田俊和、生駒孝臣編『南北朝武将列伝 南朝編』(戎光祥出版、2021年)
- 兵藤裕己校注『太平記』(岩波書店、2014~2016年)岩波文庫
- 村井章介編『中世東国武家文書の研究』(高志書院、2008年)
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