「宇都宮頼綱」北条義時も粛清できず…「百人一首」成立に関わった有力御家人兼一流歌人

『英雄百首』に描かれた宇都宮頼綱(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『英雄百首』に描かれた宇都宮頼綱(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
宇都宮頼綱(うつのみや・よりつな、1172~1259年)は鎌倉幕府有力御家人ですが、元久2(1205)年、大きなピンチを迎えます。この年、畠山重忠の乱、北条時政追放と続いた後、頼綱は執権・北条義時から突然謀反の疑いをかけられ、危うく粛清されるところでした。

このピンチをどう乗り切ったのでしょうか。そして、その後は「百人一首」の成立に大きく関わることになります。その激動の生涯をみていきましょう。

名門・宇都宮一族5代目、神官領主で歌人

宇都宮頼綱は下野の名門武家・宇都宮氏の第5代当主です。別名は弥三郎。法名は蓮生(れんしょう)で、出家後は僧侶、歌人としても活躍します。

また、宇都宮氏当主は神官でもあり、宇都宮明神(宇都宮二荒山神社)の責任者「宇都宮社務職」を代々継いでいきます。神社の権威で宇都宮の地を支配していたのです。現在でも宇都宮二荒山神社は市街地のど真ん中にあり、すぐ南に宇都宮城の城跡があり、神社を中心とした町だったことが分かります。なお、神官でありながら僧侶というのは、当時としては全く矛盾しません。

父は宇都宮氏4代当主・宇都宮業綱(なりつな)。母は平長盛の娘です。平長盛は平忠正の長男。保元元(1156)年保元の乱では父・忠正や弟たちとともに崇徳上皇陣営について敗退。戦後は父子ともども従兄弟・平清盛によって処刑されました。

父・宇都宮業綱は病弱だったのか、祖父・宇都宮朝綱(ともつな、第3代当主)より先に建久3(1192)年、死去しました。

頼綱は父の生前から小山政光の猶子(ゆうし、相続権のない養子)として小山氏で養育されたようです。小山政光は文治5(1189)年7月25日、奥州藤原氏攻めの奥州合戦へ出陣した源頼朝を宇都宮で接待しますが、頼朝の面前で「自ら合戦をして無双の称号を得なさい」と小山3兄弟(小山朝政、長沼宗政、結城朝光)と猶子・頼綱を励ます場面があります。このとき頼綱は18歳。初陣の可能性もあり、小山3兄弟とともにこの席に並んでいたようです。

ただし、『吾妻鏡』では、7月19日に鎌倉を出陣した武士団に小山3兄弟に続いて吉見頼綱の名があり、これが系図上の吉見頼経(別名・吉見朝信)とみられ、ここでの「頼綱」は吉見頼経の可能性もあります。

なお、小山政光の「自ら武功を挙げろ」という激励は、大軍を有する小山一族では多くの家臣が武功を挙げ、当主自らが戦場を駆けるような兵の少ない武士団とは違うという文脈で発した皮肉でもあります。

謀反の疑い?北条義時の厳しい追及

元久2(1205)年8月、宇都宮頼綱に謀反の嫌疑がかかります。

8月7日、執権・北条義時と大江広元らが小山朝政を北条政子邸に呼び出し、宇都宮頼綱追討を命じます。小山朝政はこの役目を辞退します。謀反人追討という公的な役目を「縁続きのよしみがある」という私的関係を理由に断るのです。

小山朝政は頼綱謀反の容疑が言いがかりであることを分かっていたのかもしれません。また、小山政光の猶子・頼綱は義兄弟になりますが、20歳近く年の離れた朝政が実際の父親代わりだった可能性もあります。

頼綱はなぜ謀反の嫌疑がかけられたのでしょうか。史料からは何も分かりませんが、頼綱の妻は北条時政と後妻・牧の方の娘だったので、7月に牧氏の変で追放された北条時政との関係を疑われたのかもしれません。

牧氏の変では同じ立場の平賀朝雅が京で追討されています。頼綱の妻は何人かいますが、北条時政の娘が正室だったようです。時政の娘を母とする宇都宮泰綱が跡継ぎとなり、稲毛重成の娘を母とする兄たちは分家を立てます。

8月11日、頼綱は北条義時に弁明書を提出。小山朝政も添え状を出してかばいます。しかし、義時は返事をせず、態度を保留。緊迫した状況が続きます。

無言劇で決着、小山兄弟がかばい通す

元久2(1205)年8月の宇都宮頼綱追討命令は一触即発の事態の中、ぎりぎりの駆け引きが続きます。

8月16日、頼綱は出家。家臣60人以上が続きます。17日に宇都宮を出発した頼綱は19日に鎌倉入り。北条義時邸に行きますが、義時は対面しません。義時はここでもダンマリ作戦で態度を明確にしません。頼綱側がじれて兵でも挙げれば言い訳ができない状況。頼綱はじっとこらえます。

頼綱は剃髪して落とした髻(もとどり)を小山朝政の弟・結城朝光に預け、朝光が将軍・源実朝に取り次ぎ、実朝はこれを見た後、再び、朝光に預けます。この無言劇で将軍の許しを得たようで、頼綱は処罰を免れました。

一時的には鎌倉追放になったかもしれませんが、宇都宮氏は有力御家人の地位は失わず、頼綱もその後、鎌倉での活動が確認されます。政治的暗闘が続いた鎌倉ですが、北条義時でも粛清できなかった御家人がいたのです。

「百人一首」を生んだ藤原定家との交流

宇都宮頼綱が出家したとき、跡継ぎの宇都宮泰綱はまだ4歳。この後、頼綱に代わって弟の塩谷朝業(しおのや・ともなり)が幕府に出仕するようになったとみられます。将軍・源実朝と塩谷朝業の和歌の交流が知られています。

宇都宮氏は武家ながら優れた歌人を多数輩出。京都、鎌倉に並ぶ3大歌壇といわれた宇都宮歌壇を形成しました。その集大成が『新〇(しんまる)和歌集』です。宇都宮一族を中心に186人の875首を収録。頼綱の和歌も59首収められています。『新〇和歌集』とは変な書名で、『新式和歌集』とするはずが、なぜか、「式」の字が脱落し、「〇」が当てられているのです。

承久3(1221)年の承久の乱で頼綱は鎌倉に残留。『承久記』ではこのとき、後鳥羽上皇は関東の有力者8人に北条義時追討の密書を送りますが、その8人に頼綱も含まれています。ただ、8人から後鳥羽上皇に同調する武将は現れず、承久の乱は鎌倉幕府の軍勢が京を制圧し、後鳥羽上皇側の軍勢を圧倒しました。頼綱は既に鎌倉に復帰し、御家人として活動していたのです。

嘉禄の法難では法然の遺骸を護衛

一方、出家後の宇都宮頼綱は僧・蓮生としても精力的に活動します。浄土宗の開祖・法然の弟子・証空(しょうくう)を師と仰ぎ、三鈷寺(さんこじ、京都府京都市西京区)の草庵で念仏修行に励みました。

嘉禄3(1227)年、嘉禄の法難では、法然の遺骸を守る軍列を指揮しました。比叡山延暦寺の天台宗と浄土宗の対立が激化し、法然の廟所が破壊され、浄土宗門徒は法然の遺骸を嵯峨野へ移します。そのとき、弟の塩谷朝業をはじめ出家した武士とともに総勢1000人で法然の遺骸を護衛しました。頼綱の堂々した馬上の姿は「法然上人絵伝」にも描かれています。

定家が配慮した小倉山荘「百人秀歌」

また、宇都宮頼綱は当時随一の歌人だった藤原定家との厚い親交がありました。

京・小倉山荘の障子を飾る和歌を依頼し、藤原定家自筆の書を送られます。定家が和歌を選定することはあっても、通常は能書家(書道の名人)の仕事である和歌の揮毫(きごう)はしません。書籍の書写はあっても、障子や屏風用の色紙に書いた例は史料からはほかに確認できず、日記『明月記』でも躊躇する心情が吐露されています。

頼綱と藤原定家の特別な関係がうかがわれます。また、頼綱は大きな仕事を発注し、藤原定家を経済面で支えた面もあります。

藤原定家が選定した障子和歌のための101首が「百人秀歌」です。さらに「百人秀歌」を原型に成立した100首が「百人一首」で、97首が共通しています。

「百人一首」には「百人秀歌」にはない後鳥羽上皇、順徳上皇の和歌が入っています。小倉山荘の障子和歌には、藤原定家が頼綱の立場を配慮して、承久の乱で鎌倉幕府に敵対した後鳥羽上皇、順徳上皇の和歌を外したのです。

なお、藤原定家選定の101首全てが障子和歌となったかどうかは微妙です。この101首から取捨選択して障子和歌にしたとみるのが現実的かもしれません。

おわりに

北条時政とともに鎌倉を追放された牧の方は、時政の十三回忌を京で営むなど娘夫婦を頼って京で生活していたようです。宇都宮頼綱も大いにこの妻の母を京の自邸や山荘でもてなすことがあったはずで、藤原定家も一家をあげて牧の方を歓待したことが『明月記』に記されています。

これも頼綱と定家との関係があればこそで、定家が頼綱の立場を最大限配慮していたことが分かります。互いに京・鎌倉の情報を得る目的もあったはずですが、和歌を通した友情もあったのでしょう。

頼綱は大きな政治的ピンチもありましたが、乗り切った後は鎌倉と京の両方で人脈を築き、武芸だけでなく、和歌や信仰でも一流を極めたのです。


【主な参考文献】
  • 五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)
  • 江田郁夫編『中世宇都宮氏 一族の展開と信仰・文芸』(戎光祥出版)戎光祥中世史論集
  • 栃木孝惟、日下力、益田宗、久保田淳校注『新日本古典文学大系43保元物語・平治物語・承久記』(岩波書店)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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