※記載は基本的に時系列順で、本筋となる戦・政治面に関わらないものはまとめて最後の項で説明しています。
政宗の母義姫は、政宗を身ごもる前に夢で白髪の僧に出会った。僧が義姫の体内に宿を借りたいと申し出ると、夫輝宗との相談の末これを受け入れた。すると、その後義姫は無事懐妊し、政宗が誕生した。(『治家記録』)
政宗は隻眼になったこともあり、同様に隻眼であったとされる伝説上の修行僧・萬海上人の生まれ変わりであるという説が信じられていた。(『西大條右兵衛覚書』)
政宗は生まれつき記憶力に優れており、幼少のころから書物を片時も離さないほどの勉強家であった。(『伊達政宗言行録』)
政宗は幼少期に右目を失明したが、その際に飛び出てしまった右目を片倉小十郎が小刀で貫き、飛び出した目をえぐり出した。(『治家記録』)
政宗の正室として迎えられた愛姫だが、伊達家に嫁いだ後に政宗の暗殺騒動が巻き起こり、謀反の疑いをかけられた乳母と愛姫付きの侍女が死罪となった。そのため、政宗との仲は大きく悪化したとされている。(『治家記録』)
蘆名との不安定な外交を強いられていた最中、父輝宗は戦略上の理由で家督を政宗に継がせることを決意した。政宗は若年を理由に固辞したが、一門や重臣の勧めで家督を相続した。(『治家記録』)
蘆名領の小手森城を攻撃した際、近隣諸国への見せしめとして撫で切りを敢行した。文字通り城内の命という命全てを奪った政宗の行動に慄いた畠山義継は和睦を申し出、政宗の名前を大きく知らしめる結果となった。」(『最上義光宛書状』)
小手森城攻略後、政宗は家臣の後藤孫兵衛に対して送った手紙の中で『須賀川まで打って出て関東中を手に入れるのも容易いことだ』、と手紙を締めくくっている。」(『後藤孫兵衛宛文書』)
政宗が撫で切りを敢行した直後、畠山義継によって輝宗が拉致されてしまった。敵国に輝宗という重要なカードを渡すわけにはいかなかった輝宗自身が自身の殺害を指示し、遠巻きに眺めていた伊達成実と留守政景はそれを合図に輝宗もろとも全員を殺害した。政宗が鷹狩りから急行した際には、全てが終わっていたという」(『治家記録』)
政宗が極めて苦戦した人取橋の戦いでは、政宗の具足に多数の矢や鉄砲の傷跡が残されていた。」(『木村右衛門覚書』)
天正13年(1587)に豊臣の名で惣無事令が発せられたが、天正14年(1588)に大崎合戦を引き起こした。この時の心境について、後年政宗は『関東進出も目論んでいたが、秀吉の出現でそれが叶わず残念だった』と述懐している」(『伊達政宗言行録』)
政宗が隻眼という事も影響して弟の小次郎を可愛がっていた母義姫は、にわかに小田原参陣が現実味を帯び始めた時期に政宗の毒殺を企てた。しかし、この計画は政宗を殺しきるまでには至らなかったことで失敗に終わってしまい、政宗は弟の小次郎をやむなく処罰した」(『治家記録』)
「政宗は、後年『東西南北を一同に治め、一度天下に旗を挙げることができなかったのは誠に残念である。人の心には悔いが多くあるというのはこのことか。』と発言している。」(『木村右衛門覚書』)
母義姫による毒殺未遂事件によって、ただでさえ惣無事令に違反して立場の悪かった政宗の遅参が確定してしまった。そこで、秀吉に己の決意を見せるべく、白装束を身に着けた状態で小田原に馳せ参じた。政宗の心意気を目の当たりにした秀吉は、政宗の無礼を許したという。」(『伊達日記』)
大崎・葛西一揆が勃発した際、蒲生氏郷によってこれは政宗の扇動が原因であると秀吉に報告が届いた。その疑心を弁明すべく秀吉のもとへ旅立った政宗は、白装束に黄金の磔柱を背負うというパフォーマンスを披露した。」(『治家記録』)
「京都で出陣式が行なわれた際、人は黒母衣に金の半月で馬は動物の皮と黄金の太刀を帯びていた。このパフォーマンスはたちまち市中の噂となったという。」(『治家記録』)
「桑折政長が病死した。拙者は落胆しており、これまでの働きぶりを考えると言葉もない。彼の父にどう知らせたらよいものか。たいそう嘆かわしい事態ではあるが、どうしようもない。この国で腫気を患えば十中八九死んでしまうからだ。」(『政宗文書』)
秀次が秀吉によって切腹を言い渡された秀次事件への関与が疑われた政宗であったが、家臣共々大坂へ出向いて秀吉に必死の弁明をしたところ、難を逃れた。秀吉も最初から政宗を疑ってはいなかったとされている。」(『治家記録』『伊達家文書』)
政宗は『今後世の中がどれほど変わろうとも、一筋に内府様(家康)への忠誠を誓い一命をささげるつもりです』、と早くから忠誠を誓っている。(『伊達家文書』)
関ケ原合戦の約一か月前、家康はかつて政宗が秀吉によって没収されていた旧領約49万石を合戦後に与えるという覚書を交わしている。既に政宗が所持していた領土と合わせると百万石を超えるため、百万石のお墨付きと呼ばれている。(『伊達家文書』)
関ケ原合戦の開戦直前、今井宗薫に対して覚書を送り、仙台に新しい居城の取り立てと家臣の遺族に与える禄として十五~二十万石を要求している。(『政宗文書』)
関ケ原合戦終結後、政宗は約束を実現させるべく本多正信らを介して家康に約束の履行を迫ったが、それは果たされることなく空手形に終わってしまった。(『治家記録』)
家康に謁見した際、領地加増に関する内容に触れられなかったために約束が守られないことを悟った政宗は、その翌年あえて敵将である秀頼との謁見を選択。この行動に家康はたいそう不機嫌になったと言われている。(『治家記録』)
大坂冬の陣開戦の直前、政宗は家康に後継への知行という名目で領土の返還を要求。その甲斐もあって、息子秀宗は宇和島十万石を安堵された。(『本多正純宛文書』)
政宗が仙台城を新築した際、瑞厳寺の新築を祝って虎哉和尚によって書かれた「松島方丈記」が欄間の上に掲げられた。その「松島方丈記」の末尾は、次のような言葉で締めくくられている。
『願わくば政宗公が日本六十余州を手中に収め、大椿八千歳の長寿を御身に得られますように。』(『松島方丈記』)
年越しに食べる鱈が仙台城下に出回らなかった際、政宗は漁師たちにどういう事情があるのかと問いかけ、気遣いなく商売をするように申し付けている。(『政宗文書』)
支倉常長は決して身分の高い武士ではなく、小姓頭に過ぎなかった。加えて、父支倉実成は切腹を言い渡されており、縁座性によって常長自身も処分を言い渡されていた。しかし、常長の能力を評価していた政宗は贖罪のチャンスを与えるという形で大使に任命したのである。それを意気に感じたのか、常長は現地でもたいへん評判が良かった。(『政宗文書』)
慶長遣欧使節団を組織し、支倉常長を遣わせた際に常長に託した手紙では、スペイン国王との間に通商条約を結ぼうと考えていたことが窺える。内容は領内でのキリスト教自由化を全面的に認め、居住地の確保・治外法権の容認などをうたい、可能ならばスペイン本国との間にも通商条約を希望していると記されていた。(『政宗文書』)
政宗の正室愛姫は政宗の死が近いことを知り、見舞いの申し出をした。しかし、『病中につきみっともない姿をしている上に、女子供に看取られて死ぬのは武士の恥である』、と愛姫の見舞いを拒否している。(『治家記録』)
「政宗は、小十郎に出す書状を全て仮名消息の方式でしたためている。仮名消息はかなり親しみを込めた表現であり、通常は異性または近親者に対して宛てる文書に限られて用いられる書式であった。(『政宗文書』)
政宗の誕生から死去までを見守り、政宗が絶大な信頼を置いていたのが茂庭綱元であった。綱元とのやり取りでは、重要な施策に言及する際のみに使用する特別な印章まで取り決められていた。(『政宗文書』)
秀吉はいくつか大規模な文化的イベントを開催したことでも知られているが、その一つに吉野の花見がある。当時の花見には和歌の教養が必須であり、招待されるには歌人として秀吉に認められている必要があった。政宗は秀吉によってこの会に招待され、さらに山伏に扮して会に参加するという突飛な行動をとったことにより、秀吉はたいそう機嫌がよかったように見えたと語っている。(『木村右衛門覚書』)
戦国武将は漢詩よりも和歌を愛する傾向にあったが、政宗は多くの漢詩を残している。特に李白を愛していたとされ、李白の漢詩『山中に幽人と対酌す』の一句を手紙に書いた(『政宗文書』)
政宗は幼少のころから自筆で文書を残すことでも知られており、彼の書は在世中より重宝され、他家では掛物としても用いられた。(『御名語集』)
かねてより利休から茶の手ほどきを受けたいと望んでいた政宗であったが、それは結局叶わなかった。そのため、利休七哲(利休七人の弟子)の一人古田重然やその弟子小堀政一と交流を重ねていた。古田重然は後に名人として知られていくようになるが、そんな彼がまだ無名だったころから政宗は交流をもっていた。(『政宗文書』)
茶の湯とは、『ふだんくつろいでいるところを改めるものである』と考えていた政宗にとって、晩年の時代は彼の理想とする茶の湯からはかけ離れていたようである。そのため、高価な道具を自慢する場と化していた昨今の茶の湯に対して苦言を呈している(『木村右衛門覚書』)
家臣である片倉小十郎邸で饗応が実施された際、能六番が演じられた。その際、政宗は二番で太鼓を打っており、主従一体となって能楽を楽しんでいた。(『治家記録』)
大名の馳走に、能楽に勝るものはない。能楽者は無駄なもののようにも思えるが、他人をもてなすのにこれほど素晴らしいものはない。ただし、物事は事欠かないように、けれどもやりすぎないようにしなければならない。(『木村右衛門覚書』)
政宗は自身のお香に『紫舟』と愛称をつけ、何よりも大切にしていた。実際、息子の忠宗に対して『近頃これほどのお香はまれであるから、むやみに他人に譲ってはいけない』と告げている(『政宗文書』)
政宗は酒の席で酔った勢いそのままに家臣の頭を脇差で殴ってしまった。後日、『いくら若輩とはいえ小姓頭を命じた人物を脇差で殴打したのは某の間違いであった。頭の傷が治り次第また召し仕えるので、出てくるよう伝えよ』と手紙を出している(『政宗文書』)
二日酔いでダウンした際の手紙には『頭が上がらない』と書いたものもある」(『政宗文書』)
娘に宛てた手紙では、『夕べは場を盛り上げようと我が身を顧みず酒を飲んでしまったため、今朝は具合が悪い。そのために心がふらふらしていて申し訳ない』と謝罪している(『政宗文書』)
細川忠利と忠興の文通では、政宗が日々酒に酔って踊り狂っていること、息子の忠宗に忠告されて屋敷に閉じこもって人と会わないようにしていることなどが触れられており、真実かどうかはさておき大名間にも政宗の酒癖の悪さは有名であった。」(『細川家史料』)
政宗は料理も愛しており、料理の心得について『馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである』と書き残している。料理を食べるだけではなく、調理も愛していたようである。(『命実集』)
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