真田幸村の名言・逸話25選

タイトルにあるように大人気の武将・真田幸村に関するエピソード・名言をたくさん集めてみました。

「人質時代 → 豊臣政権期 → 九度山幽閉期 → 大阪の陣」というように、時系列にあわせて整理したので、幸村の生涯や人物像も同時にわかるかも。幸村ファンにはおなじみのエピソードが満載です。さっそくチェックしてみましょう。


人質時代

人質としてたらい回しに(幸村16歳)

天正10年(1582年)、信長死後の武田旧領争奪戦において、織田家臣の滝川一益は伊勢国までの逃亡過程で、佐久・小県郡の国衆らより人質を集めたが、この中に幸村と祖母の河原氏が含まれていたという。さらに木曾郡の木曽義昌が滝川一益一行の通行を拒否した際、一益は幸村ら人質を木曾氏に引き渡して通行許可を得たという。


景勝から知行を与えられる(幸村19歳)

天正13年(1585年)、上杉景勝の人質として越後・春日山城へ出されていたが、景勝から屋代秀正の旧領3千貫文のうち、1千貫文を与えられたという。ちなみに屋代秀正は旧上杉家臣であり、幸村が上杉の人質になる前に、出奔して徳川方へ転じた人物である。


景勝の寵愛を受けていた?(幸村20歳)

天正14年(1586年)6月、上杉景勝が上洛している際、父昌幸が上杉の人質として越後にいた幸村を呼び戻し、秀吉のもとへ送ったという。これを知った景勝は大いに怒り、幸村を返すように秀吉に申し入れたが、秀吉はそれを聞かなかったという。(『藩翰譜』)


秀吉から知行を与えられる(幸村24歳)

父昌幸が豊臣大名として秀吉に臣従したことで、幸村は秀吉の人質となったが、天正18年(1590年)の小田原征伐と宇都宮仕置の後、幸村に1万9千石もの知行が与えられていたと推定されている。ちなみに父昌幸は上田領3万8千石。兄信幸は沼田領2万7千石である。


九度山時代と大阪入城

幽閉中も常に軍備

九度山での幸村は、日ごろより地域の人々や老僧と深く交わり、狩り・囲碁・双六・連歌などを楽しんでいた。一方で常に軍備を忘れることもなかった。屋敷では夜更けまで兵書に読みふけり、父昌幸の生前には兵書の問答を欠かさず行って知識を吸収。さらに兵術・弓・鉄炮の訓練を行っていたという。(『真武内伝追加』など)


大草臥者(幸村45歳)

なおさら大草臥者になりました(真田信之に宛てた手紙)

これは昌幸の晩年となった慶長16年(1611年)に、病床の父昌幸の代わりに筆をとった幸村が、
追伸で自身のことを述べた言葉。不自由な九度山の蟄居生活が長期にわたり、真田父子がくたびれ果てていた様子がうかがえる。


幸村の住居が火事!?

昌幸の死後、幸村一家の住む九度山の真田屋敷が火事になったとみられる。

幸村と国元との手紙のやり取りによると、幸村の援助要請に対し、上田の家臣らが借金をしてまで九度山に送金したとみられる。その後、幸村は家臣に対して「これ以上の気遣いは不要」の旨や、感謝の気持ち等を手紙につづっている。なお、新たな住まいの工事はなかなか進まなかったらしいが、完成してからそこに移り住んだという。


幸村に従う者たち(幸村48歳)

慶長19年(1614年)の大阪入城の際、幸村は本領の上田にも参陣を呼びかけて、旧臣を招いたという。(『真武内伝』ほか)
このほか、幸村に従った者の中には、高野山の地侍等がおり(『九度山町史』)、九度山近辺の猟師数十人も参じていたことから、大坂の陣における真田の鉄炮衆は百発百中だったという。(『鉄炮茶話』ほか)


山伏「伝心月叟」(幸村48歳)

大阪入城の際、山伏の格好で「伝心月叟」と名乗っていた幸村が、豊臣方の大野治長の屋敷を訪れたときのこと──。
刀の目利きをしていた若侍の一人が、山伏の正体を知らずに幸村を呼びとめて刀や脇差を見せるように要求してきた。彼らは山伏の割に見事な刀を持っている幸村に疑念を抱いていると、そこに大野治長が登場。正体が真田幸村だということに気付く。

これに驚いた若侍らは、幸村に「刀の目利きの腕は上がったか?」と問われ、赤面したという。(『名将言行録』)


大阪冬の陣(幸村48歳)

城外への出撃を主張

大阪冬の陣の直前の豊臣方の軍議において、幸村は城外へ出撃して迎え討つという積極策を主張した。籠城戦となれば兵糧や弾薬が底をついて降伏に追い込まれる、もしくは城内で徳川方に寝返る者がでると言い、城外に出るしかないと訴えた。しかし、結局は豊臣方の総帥・大野治長らの反論によって幸村の主張は退けられたという。


真田丸の守備は幸村だけでない?

真田丸は幸村隊だけが守備していたと世間で考えられているが、実際は長宗我部盛親隊と半分で守備したという(『長澤聞書』)。


敵を大虐殺

真田丸の攻防時、幸村は敵をぎりぎりまで引きつけ、一斉射撃によって一気に大打撃を与えて快勝した。
イエズス会の報告集は、この様子を「かつてない大虐殺が行なわれ、その光景は鉛の涙を目にするのと同じくらい信じられないものだった」と伝えている。


家康から破格の条件の誘い

真田丸の戦いでの幸村の凄まじい武勇を目の当たりにした家康は、真田信尹を派遣して幸村に破格の条件を提示してたびたび調略を試みた。しかし、幸村はこれを拒否したという。


大阪の陣の和睦期間(幸村48歳)

和睦後、家康への襲撃を計画

和睦成立した後、幸村は徳川方の油断を見計らって夜襲をもくろんでいたが、和睦に関して豊臣方の牢人衆らの大半が不満を持っていたことから家康はこれに備えて警備を厳重にしていた。このため幸村は夜襲をあきらめたという(『松代真田家譜』『山下秘禄』など)。
また、後藤又兵衛とともに家康父子を追撃して江戸に侵攻するべきとの主張をしたという(『休庵咄』)。


手紙で義理の兄に嘆く

去年より俄にとしより、殊のほか病者に成り申し候、歯なども抜け申し候、髭などもくろきはあまりこれなく候(小山田茂誠に宛てた手紙)

「去年より急に年を取り、思いのほか病気がちになり、歯も抜け、髭も黒いところがほとんど無くなってしまった」という意味。
これは大阪の陣のつかの間の和睦の際に、幸村から小山田茂誠への返書の内容の一部である。この返書の最後には「もはやお目にかかることもない。」とも綴っており、徳川との再決戦で討死も覚悟しているのが伺える。


甥っ子、かつての旧臣たちと再開

束の間の和睦の際、徳川方として参戦した真田信吉・信政兄弟の陣所へ訪れた。2人の甥っ子の他、かつての旧臣であった矢沢三十郎頼幸らとも会って酒を酌み交わして旧交を温めたという。


旧友との今生の別れ

束の間の和睦の際、武田の旧臣で旧友の原貞胤(はら さだたね)を招待し、討ち死に覚悟の思いを告げ、今生の別れをしたという。


大阪夏の陣(幸村49歳)

幸村が軍議で発言するも・・

慶長20年(1615年)、夏の陣の開戦を前に豊臣方は軍議を開いた。
豊臣陣営は冬の陣の和睦により、既に大阪城の堀が埋め立てられてしまったため、もはや城外に討ってでるしかなかった。幸村は秀頼自らも出陣して伏見城を陥落させ、上洛して政務を執るという提案をしたが、軽々しいとして大野治長によって退けられたという。

その後、今度は別の軍議で夜討ちを提案した幸村は、自らが夜討ちの大将となって一挙に勝敗を決する旨を言った。しかし、これに後藤又兵衛が幸村の討ち死にによる士気低下を懸念して、自分が大将として出陣すると言いだした。すると、幸村も自分が出陣するとさらに言い返し、たがいに争論してこの案の決着はつかなかったという。


関東武者は大したことない!?

関東勢は百万も候へ、男は一人もなく候(『北川遺書記』)

「関東の武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」という意味。これは大阪夏の陣における道明寺の戦いで、幸村が撤退するときに言ったセリフで、のちに後世にまで語り継がれることになった。
この戦いで豊臣方の撤退戦となったとき、幸村隊は追撃を仕掛ける伊達政宗の軍を相手に殿を務めた。そのとき、幸村は上記のセリフを言って嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。


家康が切腹を覚悟した?

最終決戦となった天王寺決戦で、幸村が家康本隊に討死覚悟の突撃を敢行した際、その凄まじさに家康が切腹を覚悟したほどだったという。


幸村の最期

幸村が徳川兵の西尾仁左衛門に討ち取られた最期には諸説ある。

  • 通説:西尾と出くわしたとき、幸村は戦続きで負傷してくたびれ果てていて、まともに戦うこともできずに討ち死にしたという(『細川家記』)
  • 新説:両者は馬に乗っていたところで出くわし、ともに下馬して槍を合わせて戦ったが、西尾は相手が幸村だと知らず、ついに兜をかぶった幸村の首級を掻きとり、その首級を陣屋に持ち帰ったという(『松尾文庫』内の記述)。

幸村の死後

幸村の首実検のとき

幸村の死後、その武勇は徳川方からも称賛された。このため、豊臣滅亡後の幸村の首実検では多くの武将が見物に訪れたという。
また、家康は「左衛門(=幸村)にあやかれよ」と言い、幸村の武勇にあやかりたいとして彼の頭髪を抜いて持ち帰る者が絶えなかったともいう(『名将言行録』『真武内伝追加』)

幸村が生前に歯が欠けていたことを知っていた家康は、幸村本人であることを確認するため、西尾仁左衛門に歯が欠けているか確認させると、確かに歯が欠けていたという(『落穂集』)。

また、家康は大阪の陣で2度も幸村と会った真田信尹を呼び、本人かどうかを確認させた。しかし、信尹は見分けがつかずに困惑した。家康が詰問すると、信尹は「幸村と会ったときは夜中であり、幸村は用心していて遠くから話をしただけだった」と弁明したという(『慶長見聞書』など)。


幸村の性格

兄・信之は、幸村の性格について「物事に対して柔和で忍耐強く、無口で怒ることはなかった」と述べている。(『幸村君伝記』)


大阪の陣での幸村の容姿

後藤又兵衛配下の長沢九郎兵衛は、大坂の陣での幸村の容姿について、「44~45歳に見え、額や口に2、3寸の傷跡があり、小兵なる人」と述べている。(『長沢聞書』)


"幸村" という名

文化6年(1809年)、徳川幕府の大目付から "幸村" の名についての問合せを受けた松代・真田家氏は「"信繁" と把握している。"幸村"という名は彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答しているといわれている。また、後の物語などで語られるうちに"幸村" の名が定着したとも考えられており、諸説ある。

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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