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福島正則の生涯を「サラリーマン人生」に例えてみました
- 2023/01/26
戦国武将のなかでも、福島正則ほどドラマチックな人生を歩んだ人はいません。豊臣秀吉の小姓からスタートし、戦いによって名を上げて出世し、秀吉の死去後は徳川家康に味方して大大名に栄進しますが、後に改易処分を受けてしまいます。
正則の生涯を現代の「サラリーマン」に例えたら、どのような人生になるのでしょうか。
正則の生涯を現代の「サラリーマン」に例えたら、どのような人生になるのでしょうか。
秀吉の元で出世を果たす
福島正則は永禄4(1561)年に生まれ、幼少のころからいとこだった豊臣秀吉に小姓として仕えます。当時の織田家を親会社とすれば、正則は子会社の社長のもとで、サラリーマン生活をスタートさせました。(大名=会社に例えています)天正10(1582)年に本能寺の変が起き、親会社の社長である織田信長がいなくなります。子会社の社長同士の激しい後継者争いの中で、正則は辣腕(らつわん)社員として戦いの最前線で活躍し、秀吉の親会社乗っ取りに貢献しました。
天下を取った秀吉は、正則を子会社の社長の座に据えます。豊臣政権の晩年には、東海道の要衝で織田家や豊臣家に縁の深い尾張清洲城24万石を与えられ、名実ともに政権の中枢を担うようになったのです。
転機となった秀吉の死
慶長3(1598)年に秀吉が亡くなり、親会社のトップに就任したのは幼い秀頼でした。生前秀吉は、秀頼を補佐するよう関連会社の社長たちに命じていましたが、その最大の実力者はナンバー2の徳川家康だったのです。同じころ豊臣家では、正則や加藤清正など戦いという「実力」で出世した者たちと、秘書官として「実務」で政権を担ってきた石田三成らとの対立が表面化します。親会社の乗っ取りを企てる家康は、この対立を利用しようと考えました。
同格の関連会社社長である上杉景勝を討伐するため、家康は「実力派」たちを引き連れて進軍します。その隙に「実務派」たちが家康の追い落としを狙い、関連会社の毛利輝元や宇喜多秀家らとともに反家康勢力を拡大していったのです。
関ケ原の論功行賞で大出世
反家康勢力の一掃を図ろうとする家康は、「実力派」たちを味方に引き入れなければならないため、個々にヘッドハンティングを仕掛けていきます。さらに、会議の場(小山評定)を設け、意思統一を図ることにしたのです。この会議で、正則は真っ先に発言し、家康に味方することを宣言します。それに呼応して他の実力者たちも続々と名乗りを上げ、軍勢をまとめることに成功した家康は、反転攻勢に出ます。正則は、その先陣として戦いの場で活躍しました。
両者が激突した関ケ原の戦いで、勝利を収めた家康が、親会社の実権を握ります。この論功行賞で、正則はこれまでの2倍の石高である安芸・備後50万石が与えられ、大出世を果たすのです。
徳川の世で左遷の憂き目に
慶長8(1603)年に征夷大将軍になった家康は、名実ともにトップとなります。徳川政権は、自前の幹部社員(譜代大名)を中枢に据えていたため、正則のような秀吉に仕えていた者たちは「外様」という位置づけをされ、発言権が与えられませんでした。秀頼を担ぐ勢力が残っていることに不安を感じた家康は、秀頼派を一掃する戦い(大坂冬、夏の陣)を仕掛けます。秀吉と縁続きである正則は、家康から警戒されたため、参戦することを許されませんでした。
豊臣家滅亡の4年後、元和5(1619)年に「幕府に無断で居城を改修した」として、正則は改易処分を下されます。50万石の大大名から10分の1程度の領地しかない信州川中島高井野の小さな大名へと左遷されられたのでした。
おわりに
福島正則は、改易の翌年に後継者である息子(忠勝)に先立たれたため、石高の半分を幕府に返上しました。大恩ある豊臣家という親会社が消滅し、自身も左遷で大減俸を食らうなど、晩年の正則は不遇な人生だったかのように見られがちです。しかし正則は、高井野藩で治水工事、用水建設、新田の開発などを積極的に行い、領民に慕われる領主だったそうです。度重なる不運や不幸にもめげず、与えられた役割を全うしようと懸命に努力する「窓際族」正則の姿が目に浮かんできます。
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