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 2019/03/17

長宗我部元親の名言・逸話23選

長宗我部元親の像

長宗我部元親といえば、四国の雄として現代でも高い人気を誇る武将である。彼の事績もさることながら、その極めて珍しい四文字の姓も彼の知名度を大きく引き上げているといえます。実際に、「ちょうそかべ」という読みは本来決して一般的な読み方ではありませんが、現代では少しでも歴史に関心があればまず読み違えることはないほどに浸透しています。

もっとも、中世においては「長宗我部」という名字は馴染みのないものであり、文書内でも何度も書き間違えられているのが確認できます。そのため、この姓が知名度を獲得していったのは江戸時代に入ってからといえるでしょう。

ただし、皆さんもご存知かもしれませんが長宗我部家は元親の代で四国をほぼ手中に収めながら、時勢に飲み込まれる形でしだいに追い込まれていき、子の盛親の代で滅び去ってしまいました。そのため、江戸時代に大名家として家を継いでいくことは叶いませんでした。

それにも関わらず現代でも知名度を獲得することができた要因としては、江戸時代に流行した軍記物が大きく影響しています。特に、長宗我部家を中心として描かれた『土佐物語』はたいそう人気を博し、そこで記述されたエピソードが彼らの印象を決定づけているといっても過言ではないでしょう。

そのため、この記事ではそうした軍記物で知ることができる元親の人柄や名言を紹介しつつ、どういった過程で元親が人生を歩んだのかを考えていきたいと思います。(文=とーじん)

生誕から初陣まで

青年期は物静かで美少年と伝えられていた

「元親は背が高く色白で器量は良いものの、用があるとき以外は人に話しかけることもなかった。また、日夜深窓にいたため姫若子と呼ばれ嘲笑の的になっていた。」(『土佐物語』)

ここでの「姫若子」という形容から美少年と想像されがちな元親ですが、ここでいう「姫若子」とは姫のように引きこもりがちな点を揶揄しただけであり、外見的特徴を指摘したものではないという意見もあります。

元親の妻は斎藤利三の娘だった!?

「美濃国の稲葉伊代守(斎藤利三)が武勇に長けているのでその孫娘を娶った。」(『土佐物語』)

この説は江戸末期から既に疑問視されており、実際には室町幕府奉公衆・石谷光政の娘であったという説が有力なようです。

初陣から信長との対立まで

寡黙で戦に向いていないという風潮を吹き飛ばし初陣を飾った

「寡黙で色白だったために戦には向いていないと噂されていた元親でしたが、初陣の長浜の戦いにおいて大活躍を見せ、家臣に『大将の器があり、四国の主となるべきお方である』と言わしめた」(『土佐物語』)

土佐神社の復興に尽力した

「土佐宮の一宮として知られていた由緒正しい土佐神社であったが、元親が活躍するころには既に廃れてしまっていた。その土佐神社を再興すべく立ち上がったのが長宗我部家であり、父国親と元親の二代で再興事業を成し遂げた。この際に完成した社殿は現存し、国の重要文化財としても知られている。」(『土佐神社文書』)

元亀年間の土佐統治には自信満々であった

「元亀2年(1571)に村上水軍の村上吉継と交わした書状の中で、『当国は私が存分に治めておりますのでご安心ください。』と記しており、元親の自信のほどがうかがえる。」(『潘中古文書』)

土佐統一後は四国統一を明確な目標としていた

「一条家との争いの末土佐を統一した元親は、阿波雲辺寺の住職俊崇坊に四国統一の夢を語った。俊祟坊はその夢に対して蓋の例えを用い、蓋の面積に対して容器が大きければ蓋をしきることはできず、同様に現状の長宗我部の勢力で四国統一は現実的ではないと意見したが、元親は『我が蓋は私という名工が作った蓋であり、四国全土を覆う事に何の支障もない』と反論している」(『土佐日記』)

土佐統一後に弟吉良親貞を失う

「元親には二人の弟がおり、どちらの弟も戦略面の頭脳として、また良き相談相手としても重宝されていた。しかし、弟のひとり吉良親貞は土佐統一後すぐに病死してしまい、元親にとっては公私ともに大きな痛手となった」(『土佐物語』)

当初は織田家と友好的な関係を築こうとしていた

「元親が息子弥三郎の名について、斎藤利三を通じて信長に相談したところ、『信』の字を拝領している。このことを『この上ない名誉である』と書き残しており、当初は信長に対して低姿勢かつ友好的であった。」(『石谷家文書』)

信長との対立から秀吉への恭順まで

信長の変心によって大きな危機を迎えた

「当初、四国は元親の手柄次第であると朱印状を出していた信長。しかし、元親の優れた能力がいずれ信長自身の野望の障害になるという意見が出たため、元親に対して警戒感を強めていった。」(『元親記』)

実は信長に対して白旗を掲げていた!

「信長は讃岐・阿波国を差し出さなければ攻撃も辞さないと圧力をかけ、四国攻略軍を編成していた。当初は『私の力で勝ち得た土地だ』と要求を拒否していたとされる元親であったが、攻撃の直前には『恭順の手続きが遅れてしまっただけで、抵抗の意思はない』と手紙に書き残しており、同時に『長宗我部滅亡の時が来たかもしれない。長年信長に仕えてきたのに、どうしてこうなってしまったのか納得できない。』と恨み節までこぼしている。」(『元親記』『石谷家文書』)

このように最大の危機を迎えていた長宗我部家でしたが、本能寺の変勃発によってからくも難を逃れています。

弁当を食べている際に仙石秀久より急襲を受ける

「信長の死後、後継最有力と目されていた秀吉とは対立の道を選んだ元親。彼が三好家の支城を包囲していたところ、突如仙石秀久より急襲を受けた。これは長宗我部勢が弁当を食べている最中の出来事であったとされ、多数の戦死者を出した。」(『元親記』)

小牧・長久手の戦いでは大坂まで派兵を検討していた?

「元親は小牧・長久手の戦いにおいても秀吉との対立を継続し、徳川家康織田信雄連合軍を支援した。この際大坂への派兵まで検討したが、和睦が成立してしまったために実現せず、元親はたいそう悔しがった。」(『元親記』)

ただし、派兵に関しては当時の政情的に家康らと連携を取るのが難しかったため実現しなかったという見方が有力なため、和睦が直接的な原因とは言い切れないところもあります。

秀吉軍の勢力に抗いきれず、屈辱の降伏を決断

「長宗我部軍が敗色濃厚になると、家臣は元親に降伏を勧めた。しかし、元親は『籠城して敗戦した場合は切腹するのが道理。たとえ城が落とされても全軍を率いて海部で決戦をするつもりである。この元親が一戦もせず降伏することができるはずがない。』と反発する。しかし、家臣の必死の説得が三日間続き、元親もやむなくこの提案を受け入れた。」(『元親記』)

秀吉への恭順から最期まで

隣国の国主となった蜂須賀正勝に救われたことを感謝している

「秀吉によって統一寸前だった四国は分割されていくことになったが、長宗我部家そのものは豊臣政権のいち武将として土佐一国を安堵された。この際に隣国の国主となった蜂須賀親子が助命に尽力したとされ、元親は『正勝様のおかげで秀吉様にお許しいただけたと思っている。今後はずっと従っていく覚悟である。』と感謝を伝えている。」(『蜂須賀正勝宛書状』)

秀吉にあえて当時下等とされていた熊の皮を献上した

「秀吉に面会した際、元親はいくつかの品を献上した。その中には当時下等とされていた熊の皮も含まれていたが、元親は『山の国の習わしである』としてあえてそれを献上した。

戸次川の戦いに際し、元親は加勢を待つべきと進言したが聞き入れられなかった

島津貴久によって豊臣方の鶴ヶ城が包囲された際、後詰に進軍するか否かの判断を迫られることになった。秀吉も待機を原則とした軍令を発しており、元親も加勢を待つべきと進言した。しかし、仙石秀久は『自分一人でも出陣する』と言い放ったため、元親もやむなくこれに従った。」(『元親記』)

戦で信親を失った元親はあまりの絶望に自身も討ち死にしようとした

「戸次川の戦いは元親の読み通り非常に厳しい戦いとなってしまい、長宗我部側はかなりの痛手を負ってしまう。その中でもかねてより元親が目をかけていた息子信親の死は彼に大きなショックを与え、咄嗟に自身も討ち死にしようとした。しかし、家臣の必死の諫めでなんとか討ち死にすることなく退却している。」(『元親記』)

強引に四男盛親を後継者に据え、反対派の粛清を実行した

「戸次川の戦いで信親を失ったことにより、新たに後継者を据える必要が生じた。通常は長男に万一のことがあった場合は次男が後継者となるが、元親は四男盛親を強引に後継者とした。このため、後継になれると考えていた次男はたいそう落ち込み、病に侵されてしまった。また、盛親の家督相続に反対した家臣の吉良親実は元親によって切腹を命じられた。」(『元親記』)

朝鮮出兵には懐疑的であった

「秀吉によって実行された朝鮮出兵は、長宗我部家にとっては出世のチャンスではなくはた迷惑な出兵と捉えられていたようで、秀吉の朝鮮統治プランへの協力を断っている。」(『組屋文書』)

慶長の役では戦線縮小論に猛反対

「戦の最中、戦線を縮小するかについて諸大名の間で会議が開かれた。戦線縮小に反対していた元親は会議を欠席し、連判状にも署名をしなかった。この非協力的な態度は諸大名の反感を買ったが、秀吉は元親の立場を支持したとされる。」(『元親記』)

ただし、すぐ上にもあるように基本的に元親は朝鮮出兵には消極的な立場をとっており、戦線縮小に反対するとは考えにくいという見方もあります。

その他の逸話・名言

元親を支えた「一領具足」の野武士たち

「一領具足とは、わずかな領地だけをもち、ただひたすらに武勇のみを追い求めた野武士たちである。戦の際には鎧一領・馬一匹で戦うことからこの名がつけられた。彼らは武勇に優れると同時に命知らずであり、元親の躍進を支えた。」(『土佐日記』)

実は鉄砲の運用こそが躍進の秘密?

「元親は、家臣に毎月鉄砲の訓練を施していた。そのため、鉄砲の腕前に長けた家臣が多くいるということは言うでもないため『鉄砲に特別長けたものはいない。なぜなら、家臣は皆鉄砲の盟主だからである。』と言っていたとされる。」(『元親記』)

後継者の教育にも熱心であった

「元親は自身の後継者信親だけでなく、家臣の後継者の教育にも熱心であった。城下に子どもたちを集め、手習いや文字を教えさせていた。」(『元親記』)

まとめ

ここまで、長宗我部元親の逸話・名言をまとめて紹介しましたが、いかがだったでしょうか。長宗我部家に関しては冒頭でも触れたように盛親の代で滅亡してしまうため、極めて一次史料が少ないという問題点があります。そのため、現代では史実かどうかをそもそも検討することが不可能と思われる逸話も数多くあります。「敗者の歴史は残らない」とはこのことでしょうか。

また、全体的な外観を整理すると「織豊政権に振り回された苦労人」という元親の姿が浮かび上がってきます。特に、信長に恭順の意向を示しながらも攻め込まれてしまう直前まで追い込まれてしまったあたりに、彼の苦労を見て取ることができます。

ここから、元親は外交的なセンスはあまり優れていなかったのではないかと思います。特に、織田の後継者となる秀吉ではなく柴田勝家や家康・信雄に味方し続けていたために立場がどんどん悪化していくあたりにその様子を見ることができます。そして、こうした外交センスのなさは後継者の盛親にもみられる特徴で、これが災いして家が滅んでいくことになります。

したがって、元親は一代で四国統一寸前まで迫った軍事・軍政の能力は優れている一方で、大局的な外交センスに関してはあまり持ち合わせていなかった武将ともいえるでしょう。


【主な参考文献】
  • 吉田孝世(岩原信守校注)『土佐物語』明石書院、1997年。
  • 高島正重『元親記』高知県立図書館、1967年。
  • 平井上総『長宗我部元親・盛親』ミネルヴァ書房、2016年。
  • 山本大『長宗我部元親』吉川弘文館、1960年。




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