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明智光秀の名言・逸話まとめ

明智光秀の像

光秀ほど知名度が高い戦国武将でありながら、その真相が謎に包まれている人物はほかにいないかもしれない。彼の出自や前半生の多くはハッキリせず、謀反の理由もいまだに解明されていないことからもそのことが伺えるだろう。
謎だらけの人物という点に加え、「信長殺し」という戦国最大のインパクトを残した光秀には、数多くの伝承が残っている。

各伝承の真偽については一旦置いておき、なるべく時系列で主立ったエピソードや名言の多くを紹介していこうと思う。

信長に仕える前

鉄砲の腕前

永禄6年(1563年)、前年より仕えていた越前の朝倉義景の見ている前で、大筒(鉄砲)の妙技を披露し、その腕前を評価されて寄子百人を預けられたという。(『明智軍記』)

信長に仕えてから

信長を持ち上げる!?

天正元年(1573年)、信長は武田信玄の死を聞き、 「信玄こそは実に良将と言うものであった。古来より名将はどれほど居るのか。汝は古今に通じているゆえに申してみよ。」と光秀に尋ねると、光秀は坂上田村麻呂から諸将の顛末を一つ一つ述べていき、最後に信長の名まであげたため、飯尾新七がこれを書付けた。

すると信長はこの書付をみて、「わしを加えるとは片腹痛いことだ。そういう光秀、そなたこそ無双の名将であろう。若手ならば徳川家康、我が家中では羽柴秀吉もそうであろう。」と言ったという。(『名将言行録』)

安土城天守の奉行に命じられる。

天正4年(1576年)、信長が安土に城を築いたとき、光秀に意見を聞いた。

光秀は里見義弘や大内義興等の天守の事を申し述べた後、「当御城においては天下を知ら示すべき御城ですので、五常五行を表して五重の天守を建られるべきかと…。」と、故実と共に詳しく申したので信長は大いに喜び、光秀を奉行として天守を建られたという。

人情味にあふれていた?

仏のうそは方便と云い、武士のうそをば、武略と云う。土民・百姓はかはゆき事なり。(『名将言行録』)

「仏の嘘は方便といっているが、武士の嘘は武略といっている。これらに比べて一般の土民や百姓の嘘などはかわいらしいものだ。」という意味。

本能寺の変の前後

光秀こと、近年、信長にたいし、いきどほりをいだき、遺恨もだしがたく候。今月二日、本能寺において、信長父子を誅し、素懐を達し候。

「光秀は近年、信長に対して憤りを感じ、その遺恨をださずにはいられなくなってきた。今月二日、本能寺において信長父子を誅殺し、これを討とうという目的を果たしたのである。」という意味。

これは光秀が本能寺の変の際に小早川隆景に送った書状の一節。

辞世の句

順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元

心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ





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