光秀は明智城落城の後の1556年~1562年に諸国を遍歴し、兵法・軍法などの武者修行を行ったという。(『明智軍記』)
光秀が流浪時代、三河の牧野右近大夫に仕えた際のこと、頼りになる同輩の中野某に次のように言ったという。
「将来、わしが一国一城の主になった暁には是非城代としてお迎えしたい。貴殿のほうが出世していたら、そなたの家臣になろう。」と。
後に光秀が丹波を拝領した際には、約束通り中野を亀山城の城代として迎えたという。(『名将言行録』)
光秀がまだ二十歳そこそこであった頃、大黒天の像を拾ったのを見かけた家臣は「大黒天を拾うと千人の頭になれるそうです」言った。光秀はそれを聞くと、その像をあっさり捨ててしまったという。家臣がその理由を尋ねたところ、「私はその程度で終わるつもりはない」と、その大志を明かしたという(山鹿素行『山鹿語類』)
煕子には容貌がウリ二つの妹がいたとされる。
光秀と煕子との婚約が成立した後のこと、花嫁修業中の煕子と、その妹が疱瘡を患ってしまった。妹は完治したが、煕子は顔にアバタが残ってしまい、これを恥じた煕子の父は、姉妹とも相談の上、煕子の妹を煕子と偽り、光秀のもとに嫁がせようとした。
ところが、光秀は煕子の顔にあったはずの小さなホクロがないのを不審に思ったため、妹は観念して事の次第を述べて、髪を切り出家しようとしたという。光秀はそれを押しとどめて、親元に「自分は煕子殿を妻にと決めているので、煕子殿をお送りいただきたい」という手紙を書き、無事煕子との祝言を挙げたということである。(『武家義理物語』)
美濃を追われ、流浪していた時代に光秀は毛利元就に仕官を求めたことがあったという。ところが、元就は「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず。」と言って断ったという(『太閤記』上和編)。
「彼の浪人が相を觀(観)るに、主人の爲(為)に不吉の相あり。萬一(モシ)是を召し抱えたならば、一旦は武勇智謀をも顕(あらわ)し大敵をも取り拉(ひし)ぐだろうが、主人を思う事甚だ薄く、僅かの怒りに害心を挿し挟む相貌あり。」(『石山軍記』)
光秀は若い頃細川藤孝に仕えたことがあったという。その時の六はわずかに80石であり、しかも石ばかりの荒れた土地であったらしい。光秀は家老の米田監物入道宗鑑に、もう少しよい土地に変えていただけないかと再三懇願したが許されなかった。これには光秀も大いに憤り、細川家を去ったという。(『名将言行録』)
光秀が織田家の家臣となり出世頭となった頃のこと、細川忠興を聟として初めて忠興の屋敷に招かれた。光秀は、米田宗鑑に対面したいとの要望を忠興に言ってあったのだが、宗鑑は、かつて細川家にいた頃のことを恨まれているのではと勘ぐって、会うのは迷惑であるという態度を取っていたという。
それを聞いた光秀は、
「もし宗鑑が儂の望みを聞いておったなら、儂は未だに細川家の家臣であったに違いない。そして織田家に召し抱えられてここまで出世することもなかったであろう。それを思えば宗鑑は儂にとって福の神のようなものだと言えるだろう。」
宗鑑は驚き、それならばと、面会に応じたという。光秀は本当に常日頃から「今の自分があるのは宗鑑のおかげだ」と口癖のように言っていたということだ。(『名将言行録』)
1562年加賀で浪人中であった光秀が一向一揆と朝倉景行との戦の様子を見たときのこと、一揆の不穏な動きに気付いた光秀は、「(夜陰に紛れて一揆勢が奇襲をかけてくると踏んで)ゆめゆめ御油断なされませぬように」と言ったという。
そして、明智光春、明智光忠ら鉄砲の名手を配置して一揆勢の奇襲に備えたところ、予測通り一揆勢が奇襲を仕掛けてきた。鉄砲の一斉射撃で総崩れとなった一揆勢は朝倉勢によって、壊滅的打撃を受け敗走したという。この功績により光秀は朝倉義景より感状を賜ったということだ。(『明智軍記』)
「一百の鉛玉を打納たり。黒星に中る数六十八、残る三十二も的角にそ当りける」(『明智軍記』)。
たとえ天下をとったとしても、妾は持たぬ。(『一話一言』)
光秀が朝倉家に仕えてだいぶ経った頃のこと、出仕前に身なりを整えようと鏡を見ると、鬢に白髪が生えていることに気がついた。このままでは、大志を全うできないうちに一生を終えてしまうと思った光秀は、朝倉家を去ることを決意し、妻と下人たちを連れて越前と美濃の国境の柳ケ瀬という所にひとまず逗留することにした。
逗留先の居所で知り合いを呼んでの連歌の会を開くことになった光秀は、妻の熙子にその饗応を頼んだという。
金のなかった熙子は自分の髪を切って売ることで金を工面したが、髪の短くなった熙子を見た光秀は「出家して自分を見限るつもりか」と憤ったという。
下女に事の次第を聞き及んだ光秀は短慮を詫び、「たとえ天下をとったとしても、妾は持たぬ。」と約束したという。(『一話一言』)
「金ヶ崎城に木藤・明十・池筑その外残し置かれ」(『武家雲箋』)
「仰木の事は、是非ともなでぎりに仕るべく候」(九月二日付和田秀純宛光秀書状)
「数千の屍散を乱し、哀れなる仕合なり。年来の御胸朦を散ぜられ訖。去て志賀郡明智十兵衛に下され、坂本に在地候なり」(『信長公記』)
光秀が坂本城を築城したとき、三甫という人が「波間より重ね上げてや雲の峰」と詠んだのに続けて、 「城山つたい茂る松村」と詠んだという。その後、光秀は丹波亀山から愛宕山に続く山に城を築いた際に、その山を周山と名づけた。後に、人々は自分を周の武王に、そして、信長を殷の紂王にたとえたと噂したようである。(『常山紀談』)
「勝龍寺細兵(細川藤孝)へ以書状・使者、連養坊知行分のこと申遣了、明十(明智光秀)へ申理義也、三太(三淵藤英)相添書状了」(『兼見卿記』元亀三年九月十七日条)
1573年2月将軍義昭は信長に反旗を翻す。この際、岩倉の山本対馬守らが光秀から離反しようとしたため、光秀は今堅田城を落城に追い込んだ。この合戦で、明智軍も18人が戦死。光秀は戦死者を弔うため、供養米を西教寺に寄進したという。(『西教寺文書』)
1573年、武田信玄の死を伝え聞いた信長は家臣たちの前で、光秀に「信玄は実に名将であった。古今の名将はいかほどいるのか、申して見よ。」と尋ねた。
光秀は坂上田村麻呂をはじめとして、名将と評される人物の顛末を逐一述べ、最後には信長の名まで挙げたため、飯尾新七がこれを書付けた。
信長は「儂の名まで加えるとは片腹痛きこと。そういうなら、おぬしこそ天下に名だたる名将であろう。若輩ならば徳川家康、我が家臣では羽柴秀吉も名将と言うべきであろう。」と述べたという。(『名将言行録』)
1575年5月21日の長篠の合戦後の5月24日、光秀は坂本に帰城し、吉田兼見の見舞いを受けた。その際信長からもらった感状を見せ、大層上機嫌だったという。(『兼見卿記』)
1578年元旦に光秀は信長から八角釜を拝領した。これにより、光秀は自ら茶会を開ける立場となる。この直後の1月11日に坂本城で津田宗及・平野道是・銭谷宗訥を招いて、拝領した八角釜の釜開きの茶会を開いたという。(『 天王寺屋会記』)
1576年、信長は安土に城を築こうとした。その際、古今の出来事に通じた光秀に意見を求めたところ、光秀は里見義弘や大内義興の城のことを述べると、「安土の城に置かれましては、天下布武の総仕上げとも言える御城ゆえ、五常五行を表して五重の天守を建られるのがよろしいかと思いまする」と細かいところまで申し上げた。
信長は大層喜び、安土城天守の奉行に任じたということである。(『名将言行録』)
「堀をほり、塀・柵幾重も付けさせ、透間なく堀際に諸卒、町屋作に小屋を懸けさせ、其上、廻番を丈夫に警固を申付けられ、誠に獣の通ひもなく在陣候なり」(『信長公記』)
「はや籠城之輩、四五百人も餓死候」(四月四日付和田弥十郎宛光秀書状)
丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし候。」(『信長公記』)
光秀が福知山で父の法要をいとなんだ時のこと、焼香順は一番目が光秀、二番目が光春、三番目が光忠であった。
三番目の光忠の番が来ると、光忠は遠く離れた屏風の陰で脇差を外し、身分の低い者のするように這いつくばって焼香した。この様子を見た列席者は皆笑ったが、光秀は「光忠は父の代には我が領内の百姓であったのを、父が召し抱えて足軽としたのだ。そして、私の代になると功を重ねて出世し家老まで上り詰めたので、明智の姓を与えた。
百姓であった時の初心を忘れず、父の霊を弔ったその姿は武士の鏡とも言えるものだ。それを笑うものではない。」と諭したという。(『名将言行録』)
「正月廿三日、維任日向守に仰付けられ、京都にて御馬揃なさるべきの間、各及ぶ程に結構を尽し罷出づべきの旨、御朱印を以て御分国に御触れこれあり。」 (『信長公記』)
「自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない。」(『明智光秀家中軍法』)
1582年稲葉一鉄の家臣、那波直治が稲葉家を去って明智家に仕えることになった。一鉄にとっては斎藤利三に続き2人目のことだっただけに、たまらず信長に訴え出た。他家からのヘッドハンティングは当時ご法度であったため、信長は怒り、光秀を呼び出して頭を2、3度叩いたという。
光秀は「良き士を求めますのも、ひとえに信長公への奉公のためでございます。」と述べたという。信長は光秀の言い分を認め、那波直治は稲葉家に戻されているが、斎藤利三の件は不問に付されたという。(『稲葉家譜』)
1582年5月初旬、徳川家康が上洛することとなり、光秀はその饗応役を命じられた。
光秀は大変名誉のことと思い、部屋の装飾から庭の整備に至るまで、全て抜かりなく準備を進め、誰が見ても文句の付けようがないほどであったという。
しかし、その様子を見た信長は光秀に「この度の接待の意味をどうとらえているのだ。家康にこれほどの接待をしてしまったら、朝廷から勅使をお迎えするときは何とする。」と叱責した。
家臣の居並ぶ中で恥をかかされた光秀は顔に怒りを浮かべたという。それを見た信長は「誤りを認めないとは不届きである。誰か光秀を打ち据えよ」と命じた。周りのものがどうしたものか案じていると、小姓の森蘭丸が「御上意でございます。」といって鉄扇で光秀を打ち据えた。光秀は額から出血し、屈辱に耐えながら退出したという。本能寺の変が起こったのは、それから半月ほど後のことであった。 (『絵本太閣記』)
「次の日、廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣、一宿参籠致し、惟任日向守心持御座候や、神前へ参り、太郎坊の御前にて、二度三度まで鬮を取りたる由、申候」(『信長公記』)
亀山城出陣の直前に愛宕権現に参拝した光秀は、その翌日威徳院西坊で連歌の会を催した。(『信長公記』)
信長は光秀に毛利攻めにあたっていた秀吉の援軍を命じた。
軍勢を整えた明智軍が大江坂に到着すると、兵の馬の轡を外して足軽の草履を履き変えさせた。急な戦闘準備命令に、兵は皆不思議に思ったという。桂川を渡ってところで、光秀は「私は信長公に積年の怨みがあった。今から本能寺に赴いてこれを攻めよ」と述べたという。(『武将感状記』)
「 明智は、都のすべての街路に布告し、人々に対し、市街を焼くようなことは せぬから、何も心配することはない。 むしろ、自分の業が大成功を収めたので、 ともに歓喜してくれるようにと呼びかけた。 そしてもしも兵士の中に、市民に対して暴行を加えたり不正を働く者があれば、ただちに殺害するようにと命じ た」(『 ルイスフロイス日本史』)
本能寺の変で信長を討った後、光秀は京の屋地子を免除した。その際、京童に対して「信長は殷の紂王であるから討ったのだ」と自らの大義を述べた。京童は地子銭が免除されたうれしさから光秀をもてはやしたが、内心は「ご自分を周の武王になぞらえるとは片腹痛きこと」と思ったという。(『豊内記』)
信長が財宝を入れていた蔵と広間を開放すると、 大いに気前よく仕事に着手 し、まず彼の兵士たちに、ほとんど労することなく入手した金銀を分配した。 このようにして、信長が多大の困難と戦争により、長い年月を費やして蓄積した 物を、明智は二三日の間に分配してしまった」(ルイスフロイス『 日本史』)
「一、我等不慮の儀存じ立て候 事、忠興など取立て申すべきとての儀に候、 更に別条なく候、五十日 百日の内には、近国の儀 相堅め候間、その以後は十五郎・与一郎殿など引渡し申し候て、何事も存ず間敷候」
(『 細川家文書』)
「 彼( 光秀 )はジュスタ (右近の妻 ) に対して、心配するには及ばない、( 高槻)城はあなたのものだ、と伝えさせた。 高槻の人たちは、彼に美辞麗句をもって答えた」(ルイスフロイス『 日本史』)
「 哀れな明智は隠れ歩きながら、農民たちに多くの金の棒を与えるから自分を坂本城へ連行するようにと頼んだということである。 だが彼らはそれを受納し、刀剣も取り上げてしまいたい欲に駆られ、彼を刺殺して首を刎ねた」(ルイスフロイス『日本史』)
「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」 (順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す)『明智軍記』
「馬上で太刀打ちとなった時、光秀は相手の馬の鞍橋を引き切った。また、家臣が敵に組み敷かれているのを見るや、敵の兜の下部をつかんで引き倒したという。(『明智軍記』)
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