※この記事は義弘のイメージを描き出すことを目的とした記事であるため、明確に史実とは言い切れないものも記載対象としています。
「雪の降るような厳しい冬の夜であっても鍛錬を欠かさず、特に四男の家久とはしばしば示し合わせて鍛錬を行なっていた。早朝には雪の中から剣を拾い上げると、雪の中でも火の出るような激しさで鍛錬に臨んだ。」(『島津義弘公記』)
この逸話については相手が家久と記述されていますが、実際は三男の歳久であると推測されています。義弘は家久より十二歳も年上なので、年齢を考えると不自然なためです。兄・義久とともに伊作から加世田に赴いて、数日を祖父・日新斎と過ごし、また伊作へ戻るのが常だったという。(『島津義弘公記』)
この逸話からは、義弘が日々、祖父・日新斎から教えを受けていたのが伺えます。「父とともに敵城である岩剣城を攻めたのが義弘の初陣であった。厳しい戦だったが義弘は武功を挙げ、その時の様子を『軍の吉凶を厭わず敵陣に討ち入り、数千の強敵を討ち滅ぼした。』と自画自賛している。」(『惟新公自記』)
「岩剣城攻略を端緒として幕を開けた大隅地域で諸大名が覇権を争う大隅合戦では、目覚ましい活躍をみせた。義弘はまだ22歳であったが、後年このときに首級を挙げていたと発言している。」(『惟新公自記』)
「大隅合戦のひとつである蒲生城攻めの際、単身で城内に突入し鎧に五か所の矢を受けるという重傷を負いながらも決死の勇戦を見せた。」(『島津国史』)
「飫肥の領主であった島津忠親は、隣国の伊東氏と肝付氏に挟撃され窮地に陥っていた。このままでは絶体絶命の状態にあった忠親の救援に向かったのが義弘であった。彼は『累代の家臣も斃れ、救援も望めない状況である。しかし、「義」を重んじ困難に立ち向かうのが武将である。』と言い残し、飛んで火にいる虫の覚悟で飫肥に向かった。」(『惟新公自記』)
結局義弘赴任後は進行を食い止めたものの、貴久からの再三の帰国命令や忠親本人からの説得もあり、やむなく帰国しています。「元亀3年(1572)に勃発した木崎原の合戦は、伊東氏と島津氏のどちらが九州で覇権を握るかを占う「九州の関ケ原」ともいえる一戦だった。義弘はこの戦いで奇襲を受け、後に『蟷螂の斧をもって竜車に向かう(力のないものが実力を顧みずに立ち向かうたとえ)ようなものだ』と振り返っているが、なんとか退却し体勢を立て直した。そして敵を敗走させると、槍の名手柚木崎正家を討ち取った。」(『惟新公自記』)
この戦いでは義弘の愛馬が前足を曲げて彼の戦いをサポートしたとも伝えられています。「九州南部を手中に収めた島津氏は、続いて豊後の大友宗麟と対決することになった。この両者の戦いを耳川の戦いと呼称する。耳川では義弘の力も大きく影響し、歴史的勝利を収めた。彼の兄義久もこれに最大級の賛辞を送り、『家運を開けたのはひとえに卿(義弘)のおかげである。』と刀を贈呈している。」(『惟新公自記』)
「秀吉によって朝鮮出兵に向けた遠征軍が組織されると、当然島津氏も軍役を課された。しかし、当時義弘は身体を悪くしており、さらに兵器の修理も追いつかないというありさまだった。これに加えて、拠点の名護屋に入っても国から船がやってこなかったために、諸国の大名は島津氏に先んじて中継地点の壱岐島へと旅立っていってしまった。このことをうけ、義弘は『ようやく出発できたが、なんと滑稽な思いをしたことか』と国へ書き送っている。」(『島津家文書』)
「朝鮮出兵のさなか、これまで行動を共にしてきた子息久保を失うことになった。このことについて、義弘は『体中から力が抜け落ちているようだ。久保はこのような形で死ぬべき者ではなかった。』と国へ手紙を出し、たいそう落胆していたようだ。」(『島津家文書』)
「国元にいた次男家久が酒浸りになっているという話を耳にした義久は『国元でたいそう酒を飲んでいるらしいが、それは非難されるべきことだ。身体と家は替えが利かないものであるから、酒は大敵だという事をしっかりと認識するべきである。』と強く諫めている文書が確認できます。」(『島津家文書』)
「朝鮮在陣中に義弘は虎狩りを敢行している。これは秀吉の命令によるものであり、絵巻によれば二匹の虎を捕らえてその肉や骨を秀吉のもとへと送った。」(『島津家朝鮮虎狩絵巻』)
「慶長の役最大にして朝鮮の役の最後を締めくくる合戦となった泗川の戦いでは、敵兵を何人切り捨てたかわからないと国元へ報告がいくほどの大勝利を収め、義弘の異名「鬼島津」の名を明中に轟かせることになった。」(『惟新公自記』)
「関ケ原合戦では西軍の三成方として参陣した島津氏であったが、西軍は島津氏が動く前に敗戦濃厚となった。そして敗退していく西軍の軍隊であったが、島津氏は四方を敵に囲まれていた。ここで、驚くべきことに島津氏は単独で敵包囲網を突破し、京へ向かうという決断を下した。圧倒的な戦力差があったが戦の勝敗は決していたため東軍は静観の構えを見せたが、本陣内を突っ切っていくという行為にたまらず反撃を開始した。当初は切腹を考えていた義弘であったが、家久の息子豊久の『島津の運命は貴方にかかっているから、私が交戦しているうちに薩摩へ帰ってほしい』と懇願されると決意を固め、必死の突破劇を繰り広げ薩摩へと帰還した。」(『惟新公関原御合戦記』)
なお、この交戦で豊久は命を落としますが、義弘の身代わりとして重傷を負いながらもかなりの長時間粘って戦いを繰り広げていたと伝えられています。「晩年には、昔からのものを崩さなかったことが島津繁栄のポイントであると主張し、『惟新公自記』をまとめて自身の功績を整理するとともに、島津ならではの慣例や伝統を堅持し続ける必要性を説いた。」
「最晩年には自ら食事を摂ることもままならないほど衰弱していたが、家臣が『敵が攻めてきました』と告げると合戦前に食事をしていた習慣が生きていたために食事を摂ることができたとされている。」(『薩潘旧伝集』)
「義弘は島津の武将らしく少数で大軍勢を打倒する戦法を得意としていた。特に、釣り野伏などの島津らしい軍法の確立には義弘が大きな貢献を果たしている。」(『惟新公自記』)
「義弘は剣術のさまざまな流派を体得していた。また、薩摩尊流と称する射術や大坪流という馬術にも心得があった。さらに、諸氏には毎年五度の訓練を課し、家臣を鍛えることにも余念がなかった。」(『島津義弘公記』)
「義弘が兵書に精通しているのは言うまでもないが、他にも四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』の古代中国における儒教経書)を愛し、『古今和歌集』などの和歌集も常に手元に置いておくなど、教養人でもあった。」(『上井覚兼日記』)
「義弘は上京の際いつも社寺参詣を欠かすことはなく、さらにしばしば護摩を催し祈祷の依頼を欠かさないなど、その信仰は相当徹底されたものだった。」(『島津家文書』)
「医療にも極めて強い関心を抱いており、自ら薬方を学んでいた。さらに、金瘡(鉄砲や刀による外傷を専門とする外科)医術を家臣の上井覚兼に伝授していた。」(『上井覚兼日記』)
「千利休から茶道を学んでいた義弘は、特に晩年になって茶の湯を好んだとされる。茶器にもこだわりをもち、良質なものを盛んに製造させた。さらに、茶そのものにも非常に強いこだわりをもっていたことでも知られる。」(『上井覚兼日記』)
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