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幕末の下諏訪宿にやって来た歴史上の人物たち

今の下諏訪宿
今の下諏訪宿
 長野県の中央部にある下諏訪町は、中山道の宿場町として栄え、豊富に湧き出る温泉が江戸時代から多くの旅人を癒し続けてきました。主要な交通路だった中山道は、歴史にその名を残した多くの人物が歩き、下諏訪宿に泊まっていたことが分かっています。

 幕末に下諏訪宿にやってきた有名人を時系列でたどってみましょう。

和宮の御下向行列

 幕末の下諏訪宿に、大行列でやって来たのは和宮でした。文久元年(1861)、孝明天皇の妹である和宮は、将軍の徳川家茂に嫁ぐため、京都から中山道を通って江戸へと向かいました。皇女の将軍家降嫁は前代未聞のことで、その行列も空前絶後のスケールだったと言われています。

 記録によると、和宮は同年11月5日に塩尻峠から下諏訪宿入りし、本陣に宿泊されました。下諏訪宿では、一行を地域一体となって出迎えたそうです。また、和宮は一汁四菜を召し上がられたとのことです。

 宿場町なので参勤交代の大名も数多く泊まっており、下諏訪宿の人々は行列を見慣れていたと思われますが、それでも和宮の豪華絢爛たる行列には、さぞかし驚いたのではないでしょうか。

浪士組の上洛

 下諏訪宿には、後に新選組を結成する近藤勇らもやって来ました。文久3年(1863)、尊王攘夷の志士である清川八郎は、江戸の浪人たちを集めて、上洛する将軍・家茂の警護に当たらせたらどうか、と幕府に献策します。これを受けて、幕府は「浪士組」を結成し、中山道を通って京都に向かったのです。

 浪士組の行程を細かく記した史料はありませんが、江戸方面から下諏訪宿に入るには、和田峠という険しい峠道を歩かねばなりません。下諏訪宿に温泉があることを考えれば、ここに宿を取ったことは間違いないと思われます。

 浪士組には、近藤のほか、土方歳三、沖田総司ら新選組の中心メンバーが名を連ねていました。近藤は、先発して宿の手配をする係を仰せつかっていたので、下諏訪宿で宿場の方々と交渉していたかもしれません。


水戸天狗党の戦い

 下諏訪宿は、幕末の戦乱に巻き込まれたこともありました。元治元年(1864)、尊王攘夷の志を掲げた水戸藩の急進派藩士が「水戸天狗党」を名乗り、攘夷を実行させる目的で、京都にいる水戸家出身の一橋慶喜を頼って決起。上洛するため、中山道を進軍していきました。

 下諏訪宿を守る高島藩と隣接の松本藩は「すんなりとは通させない」と、和田峠を下諏訪へと下る途中の樋橋地籍で、天狗党を迎え撃ちます。後の世に「和田嶺合戦」と呼ばれ、天狗党の道中では最大の激戦となったのです。

 両藩を打ち破った天狗党は、その勢いで下諏訪宿へとなだれ込んできます。武装蜂起した戦闘集団に、下諏訪宿の人々は恐れをなして諏訪大社秋宮の奥へと逃げ込み、一夜を過ごしたと伝わっています。


赤報隊の処刑

 維新の悲劇を生んだ事件が、下諏訪宿を舞台に起こりました。慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いで勢いを得た薩摩藩の西郷隆盛は、旧知だった志士・相楽総三に、討幕の先駆けとなるよう要請し、総三は赤報隊を結成して、中山道を江戸に向かって進んでいきました。

 赤報隊は下諏訪宿までやって来ましたが、ここで出頭命令が出されます。総三たちは「偽官軍」の汚名をきせられ、囚われの身となってしまいます。新政府は、赤報隊の存在を抹殺しようとしたのです。

 総三はじめ幹部8人は、弁明も許されず、下諏訪の地で処刑されてしまいました。下諏訪宿の人々は、総三たちが哀れろ思ったのに違いありません。明治になって、彼らを慰霊する「魁塚」が処刑の地に建立されたのです。

おわりに

 和宮の御下向、浪士隊の上洛、水戸天狗党の挙兵、そして赤報隊の進軍と、それぞれが幕末から明治維新にかけての大きな出来事として、歴史に刻まれています。その間、わずか8年しかたっておらず、時代の流れの早さを思わずにはいられません。

 一方で、下諏訪宿の人々はどうだったのでしょう。庶民の生活が10年に満たない間に大きく変わるはずがありません。期せずして「歴史の証人」となってしまった当時の人々は、激変する時代の流れをどう感じていたのでしょうか。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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