「清河八郎」 討幕派の巨魁は、新選組の生みの親? 浪士組を組織した庄内藩士

コロコロさん
 2022/11/16
清河八郎の肖像画(出典:wikipedia)
清河八郎の肖像画(出典:wikipedia)
庄内の郷士出身ながら文武を極め、長じて寺田屋事件や新選組結成の端緒を作った人物がいます。虎尾の会の盟主・清河八郎(きよかわ はちろう)です。

幼少期から学問に打ち込んだ八郎は、江戸に出て儒学と出会います。儒学を学ぶ傍らで、北辰一刀流剣術を修行。文武に優れた人物として、諸国の志士に知られていきました。黒船来航後、攘夷運動が盛んになると八郎は虎尾の会を結成。討幕計画を練り始めていきます。

八郎の足跡は、日本の近代の歴史を大きく揺り動かしました。上洛や九州遊説の結果、寺田屋事件が発生。浪士組の立ち上げは新選組の結成へと繋がっていきます。討幕派の巨魁となった八郎ですが、江戸に戻ると意外な結末が待ち構えていました。

八郎は何を目指し、何と闘い、どう生きたのでしょうか。清河八郎の生涯を見ていきましょう。

学識豊かな少年

学問に打ち込んだ少年時代

文政13(1830)年、清河八郎は出羽国田川郡清川村(現・山形県立川町)で、庄内藩郷士・齋藤治兵衛豪寿の長男として生を受けました。母は亀代です。幼名は元司と名乗ります。

齋藤家は、最上川沿いの宿駅・清川で代々酒造業を営む家でした。藩内ではやがて大庄屋格に位置付けられ、十一人扶持を受け、郡代支配となったほどの家柄です。

庄屋などの豪農身分は、武士と並ぶ読書階級でした。特に八郎の生家・齋藤家では、邸内に「楽水楼」と名付けた書斎を建てて文人墨客を迎えています。加えて齋藤家は子供の教育にも熱心でした。

天保7(1836)年には、八郎は父・豪寿から当時の教養書である『論語』の素読を受け始めています。学問に熱心だった八郎は、次第に向学心を強めていきました。

天保10(1839)年には、わずか十歳で鶴岡の伯父の元に下宿。同所から清水郡司から書、伊達鴨三から学問を学ぶために塾に通います。天保13(1842)年には退学となり、清川に戻りますが、八郎は学問に対する思いを捨てきれずにいました。

天保14(1843)年、八郎は清川関所役人の畑田安右衛門に師事。漢学を学んでいます。弘化元(1844)年には学問で身を立てようと決意。『四方の志』を残しています。

江戸での学問修行

学問に力を入れる八郎に、やがて運命的な出会いが訪れます。

弘化3(1846)年、書画家・藤本鉄石が滞在。藤本はのちに尊王攘夷の組織・天誅組の総裁となったホドの人物でした。八郎は藤本と親交を持ち、大いに影響を受けています。のちに八郎が尊王攘夷思想に目覚めるきっかけとなりました。

同年には、酒田の伊藤弥藤治に師事して剣を習い始めています。少しずつ八郎は色々なことに挑戦し、自分の道を切り開こうとしていました。翌弘化4(1847)年、八郎は学問を修めたい一心で家出して脱藩。江戸に出ています。

脱藩は、藩に属する人間が藩領外へ脱走することです。最悪の場合、死罪となることもありました。学問で志を立てたいという、八郎の決意の硬さがうかがえます。

江戸で八郎は神田お玉ヶ池にある東条一堂の塾に入門。儒学の一派・古学を学んでいきます。しかし嘉永元(1849)年、国許にいた弟・熊次郎が病死。八郎は家業を助けるために帰郷します。

坂本龍馬と同門

剣術道場で坂本龍馬と同門となる

清川に戻った八郎ですが、学問に対する熱意は捨てきれずにいました。嘉永3(1850)年、八郎は庄内藩から三年の遊学許可を獲得。同年には京都や九州の長崎の出島を見学しています。

学問だけでなく、八郎は武芸にも力を入れていました。翌嘉永4(1851)年、八郎は北辰一刀流の玄武館に入門。千葉周作のもとで剣術を学び始めます。

当時の玄武館は、神道無念流の練兵館、鏡心明智流の士学館と並び、江戸三大道場の一つに数えられたほどの道場でした。八郎は同道場で諸国の志士たち人脈を築くとともに、のちに免許皆伝を許されるほどの腕前となるのです。

同門には坂本龍馬も在籍しており、もしかすると八郎も坂本と面識を持っていた可能性があります。

同年、東条一堂塾の塾頭に任命されますが辞退。朱子学の安積艮斎の塾に転塾しています。安積は朱子学の大家であり、かつて門人には吉田松陰や岩崎弥太郎、小栗上野介(忠順)らが名を連ねたほどでした。

最高学府・昌平黌で学ぶ

やがて八郎が政治へと傾倒する大事件が起きます。嘉永6(1853)年、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。幕府に対して開港を求めました。

八郎は早速問題意識を持って行動を始めます。実際に浦賀で黒船を視察。さらに庄内に帰国して酒田から蝦夷地まで渡り、海防状況を実地で見聞しています。吉田松陰が行ったのと同じように、八郎も実践的行動を尊んでいたことがうかがえます。

安政元(1854)年、八郎は当時の最高学府である昌平黌に入学。八郎を評価した安積艮斎の推薦によるものでした。

昌平黌は、現代の東京大学の源流の一つともなった教育機関です。幕府の直参(旗本・御家人)のみならず、諸藩士や浪人も聴講入学が認められていました。周囲から期待された八郎ですが、入学後すぐに退学。思い描いた場所とは違い、失望したようです。

しかし八郎は、学問に対する熱意を違う形に昇華しました。同年に神田三河町に清河塾を開設。八郎一人で書や経学、剣術を門弟に教授していました。

以降、八郎は二度塾を開設していますが、一人で学問と剣術を教える道場は江戸に一つだけだったようです。

虎尾の会を結成する

家族への想い

学者肌かと思われがちですが、八郎は家族想いの一面もありました。

安政2(1855)年、八郎は母・亀代を連れて旅行に出発。善光寺や名古屋、伊勢、京都、大坂、江戸などを巡る大規模な旅程でした。八郎は旅行の記録を『西遊紀事』や『西遊草』に残しており、当時の旅事情がわかります。

またこの頃、湯田川温泉でお蓮という女性と出会っています。お蓮は出羽国田川郡熊出村の医師の四女です。成果が貧しく養女に出され、遊里で働いていました。

八郎はお蓮の人格の高潔さに惹かれ、一緒になろうと決意します。しかし親や周囲は反対していました。安政3(1856)年、八郎は反対を押し切り、お蓮と結婚。仙台で新婚生活を送るようになります。

虎尾の会の盟主となる

時勢の急転は、次第に八郎を表舞台へと誘います。

安政7(1860)年3月3日、開国派の筆頭である幕府大老・井伊直弼が登城途中に桜田門外で尊王攘夷派によって襲撃されて暗殺されました。以降、全国的に尊王攘夷の機運が高まり始めます。

八郎も儒学という立場からも、尊王攘夷の思想に共鳴していました。同年には、お玉ヶ池の塾で同志たちを糾合。ともに「虎尾の会」を結成し、自身は盟主となります。この会には、幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)らのほか、薩摩藩士の益光休之助らが参加していました。

虎尾の会は、横浜外国人居留地の焼き討ちを計画。倒幕を目指すメンバーも中にはいました。12月には、会に所属する益満らがアメリカ総領事の通訳・ヒュースケンを暗殺。過激な行動に出たことで、虎尾の会は幕府の監視を受けています。

八郎を危険視した幕府は、ある手段に打って出ます。翌文久元(1861)年、幕府の役人が八郎に罵詈雑言を浴びせてきました。八郎を怒らせるための挑発です。

激怒した八郎は役人を斬り捨て、追われる立場となってしまいます。八郎は逃亡したものの、妻・お蓮や同志らが捕縛。入牢して取り調べや拷問を受けています。

寺田屋事件と新選組

寺田屋事件の発端をつくる

逃亡の身となった八郎は、倒幕を志して動き始めます。

八郎は江戸を逃れた後、京都に潜伏。その後、青侍・田中河内介らと親交を持つようになります。やがて八郎は九州遊説に出立。筑後国では真木和泉、福岡で平野国臣、肥後では宮部鼎蔵ら錚々たる面々と知遇を得ています。

このとき、薩摩藩国父・島津久光が兵を率いて上洛する噂が流れていました。八郎は九州諸藩の志士に、薩摩が倒幕の兵を起こすと喧伝。尊王攘夷派に決起を促しています。実際に八郎の同志の一人である田中河内介などは、中川宮の偽令旨と錦の御旗を持って各地を遊説していたと伝わります。

一連の八郎たちの行動は、大きな悲劇を引き起こしました。文久2(1862)年、島津久光は兵を率いて上洛。しかし久光は、倒幕ではなく幕政改革を目指して動いていました。

既に伏見の寺田屋には、薩摩藩士たちを中心に多くの倒幕派の志士たちが集結しています。久光は話し合いを続けますが、やがて鎮圧を指示。倒幕派の多くが捕縛や殺害されるという事態に発展してしまいました。八郎はまたもや同志を失いました。

浪士組から新選組が生まれた

幕政改革の後、政治機構は大きく変化します。前福井藩主・松平春嶽が幕府政事総裁職に就任。政事総裁職は、事実上の大老ともいうべき地位でした。

八郎は密かに山岡鉄舟らを通じて、春嶽に以下の通り、急務三策を上申します。

  • 1、攘夷の実行
  • 2、大赦の発令
  • 3、人材の教育

急務三策を下地として、八郎は「浪士組」の設立を提案。浪士組は上洛する将軍・徳川家茂の警護を行い、京都で尊王攘夷派の取り締まりを担当する組織です。加えて江戸近在の不逞浪士を追い払える面がありました。

良策だとして八郎の案は採用となり、同時に八郎は大赦によって罪を許されました。

文久3(1863)年2月、浪士組に応募した234名が小石川の伝通院に集結。京都へ出立しています。浪士組の中には、水戸天狗党に所属していた芹沢鴨や、天然理心流道場・試衛館の近藤勇や土方歳三、沖田総司らがいました。

京都に到着後、八郎は壬生の新徳寺に浪士組全員を集めます。八郎は「将軍警護は名目のことで、本来の目的は尊王攘夷である」と宣言。既に朝廷の学習院に上申書を提出し、浪士組を朝廷の下に置くことになっていました。

八郎は幕府の金で浪士を集め、倒幕運動に利用すべく画策していたのです。

しかし浪士の中で近藤勇や芹沢鴨らが反発。京都残留と分離を表明する事態に発展しています。彼らがのちに新選組を結成。京都で尊王攘夷派の取り締まりにあたることとなります。

帰宅途中の暗殺

やがて幕府は浪士組に帰還命令を発出。八郎は200名の浪士組と共に江戸に戻っています。

江戸に帰還した八郎は、既に倒幕の計画を練っていました。横浜の外国人居留地焼き討ちで攘夷を実行、甲府城を乗っ取って兵を募るというものです。実行のために、浪士組は資金調達と称して商家への押し込みを行っていました。

4月、八郎は同志・金子与三郎の自宅を退出。麻布一の橋付近に差し掛かったところである人物と再会します。浪士組で取締役であった佐々木只三郎です。実は佐々木は幕府から清河暗殺の命令を受けていたのです。

佐々木は「清河先生」と呼びかけて、笠を取って深々と頭を下げます。自然、八郎も笠を取って一礼することとなりました。瞬間、八郎は背後から斬りつけられます。そのまま佐々木らに討たれ、首を取られてしまいました。享年三十四。

辞世は「魁(さきが)けて またさきがけん 死出の山 まよいはせまじ 皇の道」と伝わります。墓所は伝通院にあります。

伝通院(東京都文京区小石川三丁目にある浄土宗の寺)にある清河八郎の墓
伝通院(東京都文京区小石川三丁目にある浄土宗の寺)にある清河八郎の墓

明治41(1908)年、働きが考慮されて正四位を追贈。八郎による維新への働きが認められています。


【参考文献】
  • 徳富蘇峰『維新への胎動〈上〉(近世日本国民史)』(講談社 1993年)
  • 大川周明『清河八郎』(行地社出版部 1927年)

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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