「藤原清衡」八幡太郎義家も手玉に?後三年合戦勝ち抜き黄金の奥州独立王国築く
- 2023/05/31
藤原清衡(ふじわらのきよひら、1056~1128年)は、平安時代後期、東北地方で独立王国のような繁栄を築いた奥州藤原氏初代の武将です。NHK大河ドラマ「炎(ほむら)立つ」第2部の主人公で、前九年合戦(1051~62年)、後三年合戦(1083~87年)を通じて激動の生涯を送ったことをご存じの方も多いのではないでしょうか。後三年合戦後の晩年も含め、その生涯を詳しく振り返ってみましょう。
父敗死、敵将・清原氏の養子に…臥薪嘗胆
清衡の父は藤原経清(つねきよ)。母は陸奥の豪族・安倍頼時の娘です。康平5年(1062)、前九年合戦で経清が敗死したとき、清衡は7歳。母が敵将だった出羽の豪族・清原武則の長男・清原武貞と再婚したため、連れ子として清原氏の養子となります。ルーツは藤原秀郷 京武者だった父・経清
奥州藤原氏も多くの名門武家を輩出した秀郷流藤原氏の一門です。系図では藤原秀郷の子・千晴の子孫ですが、最近の通説はほかの秀郷流の武家同様、千晴の弟・千常をルーツとしています。経清はもともと京武者。陸奥守・藤原登任(なりとう)の郎党(家来)として陸奥に赴任しました。「亘理権大夫」(わたりごんのだいふ)の通称は陸奥国亘理郡の税収が給与に充てられたことを意味します。経清は陸奥の有力者・安倍氏の婿となり、任期後も陸奥に留まります。安倍氏との連携で現地での勢力拡大を狙ったのでしょうか。
また、『陸奥話記』は父祖以来源氏の郎党だったとしています。源氏に従った秀郷流藤原氏の武家は多数あり、経清の家系もその一つだった可能性はあります。
前九年合戦で敗退、残酷な経清の最期
前九年合戦で安倍氏は国司と対立。藤原経清は板挟みとなります。なお、前九年合戦(前九年の役)といいますが、この戦役は足かけ12年。もともと「奥州十二年合戦」と呼ばれていました。それが前後2つの戦役の総称と誤解され、「前九年」「後三年」と呼び分けた軍記物によって広まります。
前九年合戦は藤原登任の後任の陸奥守・源頼義が出羽の豪族・清原武則の協力を得て、安倍氏を破ります。安倍氏に加勢した経清は敗軍の将として斬られます。経清はもともと頼義に従っていましたが、途中で安倍氏に味方したので、頼義は裏切り者として経清をことのほか憎み、わざと刃こぼれした刀で処刑します。スパッと斬首せず、苦しみを長引かせる残酷な方法を選んだのです。
母は敵将に再婚…忍従の少年時代
藤原経清の妻は敵将・清原武貞と再婚。清衡は連れ子として清原氏の養子となります。清衡の母は武貞との間に男児を産み、これが清衡の異父弟・清原家衡。また、武貞は先妻との間に長男がいて、清衡の義兄・清原真衡(さねひら)です。父母の違う兄、父の違う弟がいる仇敵の家で20年間、清衡は復讐心をひた隠しにして成長します。まさに臥薪嘗胆(がしんしょうたん)。じっと我慢して待ちます。敵将の子に情けをかけて復讐を許すのは源頼朝、源義経を助けた平家と同じパターン。敵将の男児は殺すのがセオリーと考えがちですが、敵地占領策として敵の血筋を残すのはそれほど悪手ではありません。清原氏が安倍氏旧領を治めるには生存者を安心、服従させるためのシンボルとして安倍氏の血も引く清衡の利用を考えたとしても不思議ではありません。
なお、『陸奥話記』に安倍貞任の子で13歳の千世童子の話があります。清原武則が「小さな道義を思って後に大きな害を残しませんように」と源頼義に忠告、千世童子は斬られました。何でもかんでも助けるわけではなく、清原氏は冷徹に峻別していたようです。
後三年合戦 妻子も犠牲、兄弟骨肉の死闘
永保3年(1083)、後三年合戦が始まります。清衡28歳のときです。合戦の経緯は『奥州後三年記』『康富記』などにあります。清原武貞の跡継ぎ・清原真衡には実子がなく、平氏の一門から養子に迎えた成衡に、源頼義の娘を結婚させます。名門・源平両家の血統を引く後継者を生み出そうという夫婦養子の奇手には、兄の後釜を狙っていた清原家衡、真衡の叔父・吉彦秀武(きみこのひでたけ)ら一族が反発。成衡の婚礼のとき、客と碁の対局中だった真衡に無視された吉彦秀武は朱塗りの盆に盛った祝いの砂金をぶちまけ、出羽に帰ってしまいます。
真衡は吉彦秀武討伐に動き、清衡、家衡兄弟は吉彦秀武に同調しますが、陸奥守に就任した源義家が真衡に加勢。清衡、家衡は大敗し、義家に降伏します。
義兄・真衡の怪死、同母弟・家衡との対決
ところが真衡が謎の急死。暗殺も考えられる状況です。義家の裁定は奥六郡を3郡ずつ清衡、家衡に分与することでした。清原氏は清衡、家衡兄弟の分割統治となったのです。これに家衡が不満を抱き、今度は清衡と家衡の対決となります。応徳3年(1086)、家衡が清衡の館を襲撃。清衡の妻子も犠牲となります。この後、清衡に源義家、吉彦秀武が加勢、家衡には清原武貞の弟・武衡が加勢。清衡・義家連合軍は難攻不落の金沢柵(秋田県横手市)に籠城する家衡を攻めあぐねます。しかし、吉彦秀武の兵糧攻めが効き、金沢柵は陥落。寛治元年(1087)11月14日、家衡は下人に変装して逃亡を図りましたが討ち取られ、後三年合戦は終結しました。このとき、清衡は32歳です。
武士の棟梁・源義家との連携と離反
問題は戦後処理です。朝廷は私的な戦闘と判断し、源義家への恩賞は一切なし。戦費も持ち出しです。しかも、陸奥守解任。この後、清衡は朝廷工作に腐心していますので、このときも陸奥の金が動いた可能性があります。実力と野心のある義家に陸奥に居すわられたのではやりにくいと清衡が考えていたことも考えられます。清衡は寛治5年(1091)に関白・藤原師実に馬2頭を献上し摂関家に接近。また、『古事談』には、清衡が園城寺の僧1000人に砂金1000両(37.5キログラム)を贈った話や、白河法皇の近臣・源俊明(醍醐源氏)が清衡の砂金献上を断った話があり、貴族への工作が浸透していた様子がうかがえます。
清衡は陸奥守をしのぐ実権を持ち奥州を独立王国のように支配しますが、朝廷の権威に従う形式は守ります。朝廷からの分離独立が目的ではありません。安倍氏、清原氏の轍は踏まず、自身の意向を押し通すときは武力ではなく、財力を使います。貴族へのワイロ攻勢です。国司との衝突はあっても大規模な戦乱に発展しませんでした。中央貴族を取り込み、「金で平和を買った」ともいえます。
黄金都市・平泉築く 最期は予告死、ミイラに
藤原清衡が拠点を豊田(岩手県奥州市)から平泉(岩手県平泉町)に移したのは康和年間(1099~1104年)、40代のころ。『吾妻鏡』に康保年間(964~68年)と説明されていますが、誤記です。時代が合いません。平泉は衣川を挟んで奥六郡の南。安倍、清原氏の旧勢力圏を離れて奥州全土を治める気概を感じさせます。そして長治2年(1105)、50歳のときに多宝塔を建立し、大長寿院、総金箔貼りの金色堂と中尊寺の整備を進め、大治元年(1126)3月24日、鎮護国家大伽藍(大釈迦堂)を建立し、盛大な落慶法要を営みます。清衡は71歳。約20年かけ、中尊寺を整備したのです。
自らを「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」
このとき、落慶供養の願文で清衡は自らを「東夷(とうい)の遠酋(おんしゅう)」「俘囚(ふしゅう)の上頭(じょうとう)」とひどく卑下します。貴族から異界の者として差別されてきた蝦夷(えみし)の子孫であり、そのボスだと自認しているのです。母は安倍氏で、蝦夷の血を受け継いでいるかもしれませんが、父・藤原経清は中央貴族。清原の姓を捨てて藤原姓に戻した清衡はどういう心情だったのでしょうか。
一見、奥州を蝦夷の地と侮蔑する京の貴族への迎合のようですが、強烈なプライドの裏返しとみることもできます。また、血統には何らこだわりがないという宣言かもしれません。
「蝦夷でも俘囚でも、どうぞ好きなように呼んでください」
金色に輝く寺院を建てた平泉の文化、陸奥の豊かさへの自信に満ちあふれ、それでも藤原道長のように「望月の欠けたることもなし」とは言わず、自慢しなくても誰もが認めることを逆説的に示しているとも思えます。それはそれで、とんでもない嫌味ではありますが……。
予告通り百日目に 中尊寺金色堂で入滅
清衡は大治3年(1128)7月16日、73歳で死去しますが、これがまた伝説的です。『吾妻鏡』に中尊寺などの僧侶が源頼朝に提出した文書「寺塔已下注文」が引用されています。そこには、清衡が100日後の入滅(死去)を予告し、その通り100日目に病気もせぬまま、ただ仏の名を唱えながら眠るように死去したとあります。即身仏になる僧侶のように木食修行の末の意図的な栄養失調死だったのでしょうか。清衡の遺体はミイラ化し、金色堂に安置されました。
ミイラの学術調査で身体的特徴が判明しています。身長159センチ、血液型はAB。脳卒中で半身不随だったことがうかがわれます。極端に痩せていたのは死亡時の伝承と一致。顔立ちはアイヌ、東国の人に遠く、京の人に近かったとされます。
おわりに
父の壮絶な最期や兄弟骨肉の争いで妻子をいっぺんに失うなど波乱の生涯を送ったせいなのか、藤原清衡は仏教にかなり入れ込みます。平泉文化は仏教に傾斜した清衡の嗜好からスタートします。しかし、ただの趣味ではありません。狙いは経済や文化の力で地域を安定させることです。武力だけで敵を屈服させることの限界を知っていたのかもしれません。【主な参考文献】
- 入間田宣夫『藤原清衡 平泉に浄土を創った男の世界戦略』(ホーム社)
- 関幸彦『東北の争乱と奥州合戦』(吉川弘文館)
- 五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)
- 源顕兼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房)ちくま学芸文庫
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