「藤原国衡」 父・秀衡の遺言で義母を妻として兄弟相克を回避!死因は畠山重忠と和田義盛の口論のキッカケになった?

藤原国衡(大河では演:平山祐介)のイラスト
藤原国衡(大河では演:平山祐介)のイラスト

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場している藤原国衡(ふじわら の くにひら)。ただ、その名を聞いても、知っている方は多くはないと思います。しかし国衡は奥州藤原氏、ひいては平安時代末期において、ある意味で重要な位置を占めていた人物でした。

当該記事では藤原国衡の生涯を簡単にまとめてあります。自治体のホームページや専門書、あるいは古文書からの記述も参考に組み立てました。記事は時期別に細かく分けてあるので、興味のあるところから読み進めることも可能です。

彼は何を目指し、何と戦い、どう生きたのでしょうか。藤原国衡の生涯について見ていきましょう。


藤原秀衡の庶長子・国衡は家督相続候補者だった?


奥州藤原氏当主・藤原秀衡の庶長子として生を受ける


平安末期、藤原国衡は陸奥国において奥州藤原氏当主・藤原秀衡の長男として生を受けました。生母は側室・信夫佐藤氏(あるいは蝦夷)の娘と伝わります。幼名は信寿丸と名乗りました。

国衡の正確な生年は不明です。しかし次弟・泰衡が久寿2(1155)年に生まれており、それ以前の出生と考えられます。


父・秀衡は陸奥国・出羽国の押領使(軍事警察長官)として、平泉を中心に強大な勢力を築いていました。
当時の奥州(東北地方)では、金と馬を産出。いずれも中央では重要な交易品として扱われており、奥州藤原氏の経済力を支えています。

当時の平泉には中尊寺をはじめ、無量光院や毛越寺などの優れた寺院建築が立ち並ぶ「仏国土(浄土)」と称される都市でした。人口は10万人を突破し、京に次ぐ規模だったと伝わります。

国衡は側室所生の庶子でしたが、諱には奥州藤原氏の通字(とおりじ。一族の人間が受け継ぐ特定の文字)「衡」の一字が与えられていました。通字が与えられないことで、家督継承権がないことが強調される場合があります。実際に『人々給絹日記』によれば、国衡は武家の正装である「赤根染」を支給されていたようです。

赤根染は平泉館において、重要な儀式において着用する衣服です。しかも同書では国衡を「信寿太郎殿」と、長男であることを強調して記述してありました。

国衡は一族の中でも認められた存在であり、家督相続候補者の一人と目されていたようです。



母方・信夫佐藤氏と武士然と生きた国衡

国衡の母方はどのような家だったのでしょうか。

母方とされる信夫佐藤氏は、陸奥国南部の信夫郡を拠点に会津方面までの代官とした武士団でした。加えて、信夫佐藤氏は奥州藤原氏とは密接な関係が結んでいます。信夫佐藤氏当主・佐藤基治の正室・乙和子姫は、藤原清衡(国衡の祖父)の孫でした。

つまり国衡にとっては、佐藤基治は義理の従兄弟にあたる人物です。当然、信夫佐藤氏も国衡の家督相続に協力的だった可能性が高かかったと考えられます。

次弟・泰衡は「母太郎」あるいは「当腹の太郎」と呼ばれていました。一方、国衡は「父太郎」や「他腹の嫡男」と呼ばれ、庶子とはいえ泰衡と比肩された存在であったことは確かです。

次弟・泰衡の生母は正室とはいえ、京からきた公家・藤原基成の娘です。実際に奥州の武士たちは、国衡に対して期待を抱いていたようです。

『愚管抄』では国衡を「武者柄ゆゆしくて、戦の日も抜け出て天晴れ者やと見えけるに」と表現されていました。
賞賛された武者ぶりは、『吾妻鏡』でも見られています。同書では、国衡は奥州随一の騎馬・高楯黒に騎乗。大兵肥満の国衡は毎日三度、必ず平泉の高山に高楯黒で駆け登りました。
高楯黒は汗もかかない馬であったと書かれており、騎馬育成や訓練に余念のない国衡の姿が伝わります。

国衡はあくまで武士としての生き方を模索していました。
国衡は西木戸太郎とも通称されており、これは陸奥国中部にあった磐井郡西木戸のことと推察されます。つまり西木戸を本貫地として、同地名を苗字として名乗っていた可能性があるのです。

土地を開拓して守るというのは、武士の本来の生き方でした。奥州藤原氏の一族でありながらも、国衡は武士としての有り様を模索していたようです。その武士然とした姿は周囲の期待を集めており、父・秀衡からも将来を嘱望されていたと思われます。



奥州に下向した源義経との関わり

義経の奥州下向と国衡

平安時代末期は、次第に日本中が騒乱の気配を帯び始めた時代でした。京では保元・平治の乱が相次いで勃発。次第に源氏と平家の存在感が増していきます。

河内源氏棟梁・源義朝は平治の乱で敗死。勝者となった平家の総帥・平清盛が政界での発言力を増していました。仁安2(1167)年、清盛は太政大臣に昇進。位人臣を極め、平家による政権運営を行います。

清盛の視線は、特に奥州藤原氏にも注がれていました。嘉応2(1170)年、藤原秀衡は朝廷から従五位下・鎮守府将軍(軍政府の長官)に叙任されます。

五位以上は殿上人と呼ばれ、朝廷の清涼殿に昇殿できる地位です。加えて鎮守府将軍は当時、武門の最高官職とされていました。
しかしこの措置は、決して好意的な者ではなかったようです。

当時の分不相応な高位叙任は「官打ち」と呼ばれ、負担をかけて破滅を導く政治的な意図がありました。このとき、清盛ら平家一門は日宋貿易を主導しています。日本側の重要な輸出品は金ですが、産地は秀衡が統治する奥州でした。

平家からすれば、奥州を確保する必要があります。そこで官打ちを仕掛け、奥州藤原氏の破滅を策動していました。
しかし秀衡はその意図に気付きつつも叙任を受け入れます。同時に平家に対抗すべく、新たな対抗手段を講じていました。

承安4(1174)年、源義朝の遺児・義経が奥州平泉に下向。秀衡は義経を保護して養育にあたります。
このとき、信夫佐藤氏の佐藤基治も義経と関わりを持っていました。一説によると基治は、娘・浪の戸を義経の側室として嫁がせています。加えて基治の三男・佐藤継信と四男・佐藤忠信がのちに郎党に加えられており、非常に近しい関係が築かれていました。

国衡の母方との関わりから、国衡自身も義経と関わりを持った可能性があります。実際に大河ドラマ『義経』では、親交を持った場面が描かれていました。



義経の都落ちと奥州帰還


奥州藤原氏や国衡は、少しずつ時代の流れに巻き込まれていきます。
治承3(1179)年、平清盛は大軍を率いて上洛。後白河法皇を鳥羽伝に幽閉して院政を停止に追い込みました。諸国の受領人事も大幅に交替。平家の知行国は32国に上り、日本のおよそ半分を占めていました。

当然、平家に対して不満が噴出します。翌治承4(1180)年、以仁王(後白河法皇の第三皇子)が摂津源氏棟梁・源頼政と挙兵。全国の源氏と大寺社に平家打倒の令旨(親王の命令文書)を送ります。

同年には伊豆国で源頼朝、信濃国では源(木曽)義仲が挙兵。反平家の狼煙は全国に上がり始めていました。
奥州にいた義経は頼朝と合流。優れた軍略を持って平家を一ノ谷・屋島で打ち破り、壇ノ浦で滅亡に追い込みました。

しかし文治元(1185)年、義経は朝廷と接近して頼朝と対立。敗れて都落ちしています。文治3(1187)年、義経は再び奥州に下向。しかし秀衡は再び義経を匿ってくれました。国衡の身にも少しずつ危険が忍び寄っていました。



国衡、父の遺言によって義母を妻とする

父・秀衡に従い、弟の母を妻とする

広大な支配地を持つ奥州藤原氏でしたが、やがてその体制が揺らぎ始めます。

文治3(1187)年、秀衡が死の床についていました。国衡と泰衡の間で後継者問題は依然として燻っており、鎌倉では頼朝が奥州討伐の構えを見せていました。秀衡は義経を大将軍として事実上の後継者に指名。国衡と泰衡は義経を支えるように言い残します。三者に起請文も書かせ、一体となって頼朝に抗する誓いも立てられました。

さらに秀衡は、自身の正室(泰衡の実母で、国衡の義母)を国衡の正室とするように命じます。この縁組によって、国衡は泰衡の父という関係になりました。いわば後継者問題は不在という形に持っていたことになります。

奥州藤原氏の家督は泰衡が相続が決定。しかし国衡の立場は義父という形式で強化されていました。程なくして秀衡は病没。奥州藤原氏は新たな体制で運営されていくこととなります。



泰衡の義経殺害と兄弟相克

秀衡の遺言によって、奥州藤原氏は新たな道を歩み始めたかに見えました。しかし頼朝は虎視眈々と征伐の時を窺っていたのです。
文治4(1188)年、頼朝は朝廷に義経追討の宣旨を出すように奏上。しかも2月と10月の二度にわたる執拗な要請でした。
義経はこの政治的動きに危機感を持ち、奥州脱出を決意。京に戻るように動き始めています。

文治5(1189)年、頼朝は泰衡討伐の宣旨を朝廷に要求。脅しに屈した泰衡は、義経殺害を決意しました。
同年閏4月、泰衡は500の兵を率いて衣川館を襲撃。義経らを自害に追い込んで首を取ります。

しかし秀衡の遺言を破ったことに、兄弟たちは批判を強めていました。
泰衡は忠衡・頼衡・通衡の弟たちを殺害。しかし国衡は泰衡に背くことはせず、あくまで奥州藤原氏に従う道を選びます。

秀衡の遺言を破り、異腹の兄弟を殺害したことで、泰衡の求心力が落ちていたことは想像できます。
そこで国衡までもが離反すれば、たちまちにして奥州藤原氏の体制が崩壊しかねない状況でした。


国衡、奥州軍の総大将として出陣する

義経の脅威が無くなったことで、頼朝は奥州征伐を決意します。

文治5(1189)年7月、頼朝は鎌倉から全国の武士たちに動員令を発出。奥州に向けて大軍を差し向けます。同年8月、国衡は指揮の最高責任者である大将軍を拝命して出陣。奥州南部に出陣して鎌倉軍を迎え撃ちます。
国衡軍二万は、伊達郡の阿津賀志山で畠山重忠や和田義盛ら二万五千以上の兵と衝突しました。

事前に国衡は強固な防衛線を構築。名取川や広瀬川を利用し、三重にもわたる防塁によって守りを固めていました。
しかし程なくして石那坂の戦いで信夫佐藤氏の当主・佐藤基治が討死。阿津賀志山においても、奇襲攻撃によって国衡軍は混乱状態に陥りました。

『吾妻鏡』によれば、国衡は出羽国に脱出を試みますが、和田義盛の矢が命中。加えて深田に馬の足が取られてしまいます。
難渋しているところへ畠山重忠の部隊にいた大串次郎が襲撃。国衡は討ち取られてしまいました。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、和田義盛と畠山重忠の仲が悪いように描かれていますね。実際、この後奥州軍の総大将・国衡を討ち取った功績を巡り、両者の間で口論が交わされたと伝わります。

国衡の死後、泰衡は平泉に撤退。居館に火をかけて出羽国に落ち延び、夷狄島(北海道)への逃亡を計画します。しかし郎党の裏切りにより、あえなく命を落としてしまいました。100年の栄華を誇った奥州藤原氏も、国衡らとともに滅亡したのです。

国衡を弔う祠は「白九頭龍古墳」として宮城県刈田郡蔵王町に現存しています。



【参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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