【小倉百人一首】8番・喜撰法師「わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」
- 2022/12/20
百人一首はこれまで7首を取り上げてきました。古い時代の和歌に多い特徴が、実際にその作者が詠んだかどうか明らかではない、その作者が実在したかどうかすら不明のものがいくつかあるということ。今回紹介する喜撰法師(きせんほうし)も経歴が知られていない人物で、ほとんど伝説上の人物といってもいいでしょう。喜撰は『古今和歌集』の「仮名序」の中で取り上げられた6人の歌人(六歌仙)のひとりですが、確実に彼の和歌として伝わるのは、今回の「わが庵は……」の一首だけ。謎に包まれた人物です。
原文と現代語訳
【原文】
わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり
【現代語訳】
私の庵は都の東南にあり、このように静かに住んでいる。それなのに世の中の人は、この世を憂いて逃れ住む宇治(憂し)山だと言っているようだ。
歌の解説
わが庵は
「庵(いほ)」は、僧侶や隠者などの世捨て人が住む簡素な家。草庵のこと。たつみ
「たつみ」はつまり「辰巳」で、ここでは東南の方角を指します。「辰」と「巳」はそれぞれ十二支の第5位と6位。北を頂点として十二支を並べると、東南はちょうど辰と巳の間にきます。後に続く宇治は都の南東に位置します。しかぞすむ
字面を見ると「鹿ぞ住む」と読んでしまうかもしれませんが、ここでは素直に読むと「然ぞ住む」になります。「然」は「このように」という意味です。宇治山の中に住んでいるので、「鹿」に掛けたという解釈もあります。「鹿がいるほど山奥で静かに」と解釈してもいいかもしれません。世をうぢ山と
「うぢ」は現在の京都府宇治市をさし、宇治山は南東にある山で、確かに喜撰法師が住んだ跡があります。そのことから「喜撰山」とも呼ばれます。「宇治(うぢ)」は「憂し」の掛詞になっているので、「世を捨てる」ことを連想させる地でした。実際、平安時代の宇治は平安貴族が隠棲する土地でした。宇治といえば平等院鳳凰堂。藤原頼通(ふじわらのよりみち)は父・道長から別荘地として譲り受け、ここに寺を創建して極楽浄土の世界を表現したといわれます。この世でもあの世でもない場所。宇治川にかかる宇治橋は異界につながる橋といわれたりもします。人はいふなり
ここで「人」は世の中の人々のこと。「なり」は伝聞の助動詞。「人“は”そう言っているみたいだ(けど自分はそうは思わない)」という意味になります。作者・喜撰法師
冒頭でも紹介したように、喜撰の経歴はほとんど伝えられていません。「喜撰」の「き」から紀氏の出身ではないかとも考えられていますが、推測の域を出ません。延喜5年(905)に成立した最初の勅撰集『古今和歌集』の真名序・仮名序ともに喜撰が「宇治山の僧」として紹介されているので、平安前期、紀貫之らよりも少し前の時代の歌人であろうということはわかっています。歌人として伝えられ、六歌仙に名を連ねてはいるものの、肝心の『古今集』に入集したのは「わが庵は……」の一首のみ。そしてこれが喜撰の和歌だといえる唯一の作品なのです。
『古今集』の中で紀貫之が書いた「仮名序」では、次のように評価されています。
「宇治山の僧喜撰は、詞かすかにして、始め終りたしかならず。いはば、秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし」
「よめる歌多く聞えねば、かれこれをかよはして、よく知らず」
喜撰は詞がひかえめで歌の筋道が確かではない。例えるなら秋の月を見ているうちに暁の雲に覆われたようなもの。つまり、表現が不足していて、何が言いたいのか十分にはわからない和歌ということ。そして少ないのは「詞」だけではなく、彼が詠んだ和歌自体が多く知られていないので、あれこれ見比べて検討する余地もない、という評でした。
次いで紀淑望(きのよしもち)が書いた「真名序」もだいたい同じ内容で、「其詞花麗(詞がきらびやか)」といい評価をしながら、「然[傍]首尾停滞[漫](全体の流れが不調和)」と悪いところも挙げられています。
喜撰は平安時代末ごろから歌学書『喜撰式』の著者と考えられてきましたが、それも今では喜撰が生きていた時代よりも後の書物とするのが適当と考えられています。
喜撰は和歌に詠まれているとおり、出家して宇治山で隠棲生活を送ったとされています。鎌倉時代の鴨長明の歌論書『無名抄』には、喜撰が住んだ跡がある、と書かれています。
喜撰の宇治山での生活はどんなものだったのでしょう。『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』という鎌倉時代の仏教書には、窺仙という僧が宇治山で長寿を求めて仙薬を飲むというような修行をしていた、とあります。それが喜撰のことなのだとか。その人は、最後は雲に乗って飛び去ったそうです。
喜撰法師=紀貫之?
『小倉百人一首』の中ではこれまでに紹介した柿本人麻呂(人丸)も伝説が多く、和歌も彼の作ではないものが多いという謎の多い人物でしたが、喜撰も不思議な人物です。確実に喜撰の和歌と伝えられているのは『古今集』に入集した一首のみ。何をしていた人なのかもよくわからない。実は喜撰法師など存在しなくて、創作された人物だという説もあります。『古今集』の喜撰法師は、紀貫之が創り出した人物ではないか、というのです。
「仮名序」には貫之が挙げた6人以外を
「このほかの人々、その名聞ゆる、野辺に生ふる葛の這ひひろごり、林に繁き木の葉のごとくに多かれど、歌とのみ思ひて、そのさま知らぬなるべし」
「彼ら以外の人で歌詠みとして知らられる人はとても多いが、詠めば何でも歌だと思って、本当の歌の在り方を知らない」
と評しています。序文で挙げる歌人・歌のバランスをよくするためにひとり創作して追加したと考えることはできそうですが、どうでしょうか。
それよりも、素直に喜撰の和歌として鑑賞したほうが楽しめる作品だと思います。喜撰が本当に「長寿の仙薬を飲んで雲に乗って飛んで行った」をイメージさせる人物なら、「人は普通ではないことをする人を珍しがってあれこれ言うけど、山の気ままな暮らしは楽しいのにね」とでも言いたげな和歌に感じられ、ユーモアたっぷりです。
おわりに
ところで、六歌仙のうち没年がわかっているのは在原業平(ありわらのなりひら)と僧正遍照(そうじょうへんじょう)くらいです。業平は元慶4年(880)、遍照は寛平2年(890)に亡くなっています。また、文屋康秀(ふんやのやすひで)は業平の没年ごろまで任官の記録が残っていて、それからしばらくして亡くなったのではないかと思われます。六歌仙はいずれもだいたい850年ごろに活躍した歌人で、『古今集』が編纂され始めたころには亡くなっていました。しかし、長寿の仙薬を飲んだという喜撰ならあるいはまだ生きていたかもしれない、とふと思いました。
【主な参考文献】
- 『日本国語大辞典』(小学館)
- 『小学館 全文全訳古語辞典』(小学館)
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
- 吉海直人『読んで楽しむ百人一首』(角川書店、2017年)
- 冷泉貴実子監修・(財)小倉百人一首文化財団協力『もっと知りたい 京都小倉百人一首』(京都新聞出版センター、2006年)
- 目崎徳衛『百人一首の作者たち』(角川ソフィア文庫、2005年)
- 校注・訳:小沢正夫・松田成穂『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』(小学館、1994年)※本文中の引用はこれに拠る。
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