「讀賣瓦版」は江戸庶民のマスメディア!グローバル化の始まりは「官板バタビヤ新聞」

『本邦新聞史』に描かれた江戸の瓦版売り(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『本邦新聞史』に描かれた江戸の瓦版売り(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 情報化社会の現代、私たちはインターネットを通じて知りたいニュースをいつでもどこでも得ることができる便利な時代を生きています。

 それでも街や駅前で「号外でーす」という新聞が配れられいるとつい手を伸ばしてしまいます。時代劇の中で「かわら版だよ~」いう威勢のいい声に町人が集まるのと似ている光景ですね。

 知りたいという人間の欲求は、いつの時代もどんな立場でも同じです。人の好奇心を搔き立ててきた「新聞」とはいつ頃、どういう背景で始まったのか改めて考察してみます。

元禄時代の「讀賣瓦版」

 日本に新聞らしいものが生まれたのは元禄時代と言われています。「讀賣瓦版(よみうりかわらばん)」と呼ばれるものです。出来事を紙で伝えるという意味では、これが日本ではじめての新聞らしきものと考えられています。

 粘土板に文字や絵を刻みこんで一枚一枚刷った絵草紙でした。技術と手間のかかる仕事だったのではないでしょうか。製作者が記載されてないものが多かったそうです。

 元禄時代といえばわりと平穏なご時世でした。武士は戦がなく、学問や遊芸に熱心に取り組めました。商業が発展し、町人の暮らしぶりも安定していたと思われます。平和な時代こそ、何か事件が起こると皆がワクワクしてしまうのが世の常ですよね。紙面には、世の中の怪しい出来事、人の身の上の悪事、男女間の心中騒動などが書かれました。ゴシップ記事には誰もが興味津々です。

 また、火事などの災害を知らせる内容も多く、注意喚起の役目にもなっていたのではないでしょうか。

 値段は1部4文くらいで今に換算すると66円のようです。そんなに高くはないので庶民にも買えたのでしょう。だからこそ世間の噂話はどんどん膨らんでいったのです。

讀賣と言われた理由

讀賣とは、字の通り「読んで売る」です。おもしろおかしい節をつけ、そこに書いてある内容を読みながら、江戸の街から街へと売り歩きました。二人一組が多かったようです。

2人1組で売り歩いた(『本邦新聞史』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
2人1組で売り歩いた(『本邦新聞史』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
実は瓦版は発行禁止だったため、顔を隠して売った(『本邦新聞史』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
実は瓦版は発行禁止だったため、顔を隠して売った(『本邦新聞史』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 「讀賣瓦版」の現存で一番古いものは、元禄14年(1701)12月15日で、前日に赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったことを書いたものだそうです。これは、かなりのビッグニュースですね。

 それ以前に大阪夏の陣を絵入りで書いた元和元年(1615)「大坂安部之合戦之図」「大坂卯年図」が最古の讀賣という説もあります。(和田伊都夫著「新聞の常識」より)

「大坂卯年図」(出典:国立公文書館デジタルアーカイブ)
「大坂卯年図」(出典:国立公文書館デジタルアーカイブ)

初めての新聞は「官板バタビヤ新聞」

 いわゆる紙面に「新聞」と名の付く印刷物は文久2(1862)年正月発行「官板バタビヤ新聞」です。

バタヒヤ新聞 文久2年1月刊(出典:国立公文書館デジタルアーカイブ)
バタヒヤ新聞 文久2年1月刊(出典:国立公文書館デジタルアーカイブ)

 バタビヤという言葉は聞き慣れませんよね。オランダ植民地時代のインドネシアの首都ジャカルタのことです。オランダ総督府は機関紙「Javasche Courant(ヤバッシェ・クーラント)」を江戸幕府に送っていました。これを幕府が洋書調所に日本語訳させ、江戸の書店万屋兵四郎から売らせたのです。つまり、公に出した海外情報紙ということになります。

 形としては冊子タイプで大きさは24cm×16㎝でした。和紙の木版刷りです。オランダのことだけではなく、イギリス、アメリカ、フランス、中国、スペイン、トルコなどワールドニュースが盛りだくさんだったようです。

 島国日本の人たちは世界の広さや、他国との違いに目を丸くしたでしょうね。学問や経済、文化などあらゆる面で人々が未来へのヒントを得ることができたと思われます。

「官板バタビヤ新聞」発行の背景と影響

 嘉永6年(1853)、アメリカのペリー提督が浦賀に来航し、徳川幕府は開港となりました。それまでは、もちろん幕府のトップの人たちしか海外の情報を持っていませんでした。しかし、諸藩の大名から海外情勢を公表してほしいという動きがあったのです。

 そこで和訳された「官板バタビヤ新聞」が一般に公開されたのです。その裏には攘夷運動を落ち着かせようという幕府のねらいがありました。世界情勢や技術、文化の情報を公に皆と共有化すれば、わかってもらえると思ったのでしょうか。

 なかなか、そううまくはいきません。攘夷運動を阻止するはずだった新聞は、国際情報を多くの人々に与えました。すると当然、他国を見習って日本を変えるべきだという考えや動きが生まれます。

 三百年も続いた徳川幕府が倒れる一つのきっかけになったのかもしれませんね。「官板バタビヤ新聞」の発行は日本に新しい風を吹き込んだのでしょう。

おわりに

 子供の頃、新聞というとテレビ欄ばかり見ていました。それでも大きな見出しの記事には、家族みんなで話を咲かせたものです。

 江戸の讀賣瓦版の手作り感あるホットニュースは、交通機関のほぼない時代の大事なマスメディアでした。人様の事件を知ることで、我が家の円満を確かめていたのかもしれません。

 また、江戸幕府の開国の頃に発行された「官板バタビヤ新聞」こそが、日本のグローバル化の始まりだったとも思われます。

 日本の歴史において、やはり新聞の存在こそが家庭も国家も動かしていたのかもしれませんね。


【主な参考文献】
  • 大島泰平『新聞の話 中学生全集』(筑摩書房、1951年)
  • 和田伊都夫『新聞の常識』(柏書房、1950年)
  • 飯田泰子『江戸の仕事図鑑』(芙蓉書房出版、2020年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
さとうえいこ さん
○北条政子に憧れて大学は史学科に進学。 ○俳句歴は20年以上。和の心を感じる瞬間が好き。 ○人と人とのコミュニティや文化の歴史を深堀りしたい。 ○伊達政宗のお膝元、宮城県に在住。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。