「神仏習合」の歴史 ──神と仏の混ざり合いはいつから?なぜ起きたのか?

古代から中世における仏教伝来のうち、切っても切れない関係にあるのが「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」。これは、中国や朝鮮半島から渡来した仏教が、日本で信仰されてきた神々と混ざりあい、同一視されていった流れのことをいいます。

有名なところでは、日本神話の大国主神(おおくにぬしのかみ)と、七福神の大黒天(だいこくてん)がありますね。これは、音読みがどちらも「ダイコク(大国/大黒)」であることから、同じものと見なされたようです。

神と仏を同じものとする思想は、どのような背景から生まれたのでしょうか。今回は、神道が仏教と習合した歴史について解説していきます。

神と仏について

まずは、神仏習合における「神」と「仏」について、大まかに見ていきましょう。

ここでいう神とは、日本において古くから信仰されてきた存在のことです。古代の日本で農業や漁業をいとなむ人々は、自然界のさまざまな現象に神性を見いだし、それを神社や祠に祀ってきました。山村なら山の神、農村なら田の神、漁村なら海の神、といったように…。人々は自然災害や飢饉を恐れながらも、自然に対して五穀豊穣を願い、畏敬の念をもって森羅万象に相対していたのです。

「天照大神(あまてらすおおみかみ)」は日本神話に登場する神。太陽神と皇祖神の2つの性格をもつ。
「天照大神(あまてらすおおみかみ)」は日本神話に登場する神。太陽神と皇祖神の2つの性格をもつ。

こうした信仰は神道と呼ばれ、祖霊や祖先と関わりのある神を祀る氏神、峠や境で祀られる道祖神など、さまざまな性質をもつ神が含まれました。

一方、仏とは、仏教で悟りを開いた人のことをさします。

仏教は、紀元前5世紀頃のインドにて、釈迦(ブッダ)が開祖となって成立しました。仏教では、この世界は苦しみであると説き、人は修行で悟りを開くことで苦しみから解放されるとします。そして釈迦は、あらゆる生物(衆生)が救われるよう、教えを広めていきました。

仏教の開祖である釈迦は、歴史上に実在したとされる北インドの人物。
仏教の開祖である釈迦は、歴史上に実在したとされる北インドの人物。

釈迦が亡くなった後、1世紀頃になると「大乗仏教」と呼ばれる宗派が登場します。大乗仏教は、仏僧以外の民衆も救うことを目指していました。このとき、阿弥陀如来や薬師如来といった多くの仏が登場し、仏像が作られるようになったということです。

そして大乗仏教は中国や朝鮮半島へ渡った後に日本へ到来し、日本の仏教の礎となりました。戦後の宗教法人令成立によって、多くの仏教教団が生まれたといいます。令和3年(2021)末において、日本の仏教系包括宗教法人(文部科学大臣所轄)は、156あるとのことです。

中世における神仏習合の始まり

神と仏は、発祥した地も、信仰対象も異なる存在です。しかし、両者にはひとつの共通点がありました。それは、「多神教である」ということ。日本古来の神々も、仏教(大乗仏教)も、数多くの信仰対象が存在しています。

日本へ仏教が伝来したのは、6世紀半ば(有力説は538年)のこと。百済の国から朝廷へ仏像や経典が贈られ、欽明天皇はこれを歓迎したものの、仏教を普及させることについては慎重だったようです。その後、日本へ仏教を広めたいと願う蘇我氏と、仏教普及に反対した物部氏が、双方対立して争うこととなります。ともに有力な豪族であった両氏ですが、結果は蘇我氏が勝利し、日本に仏教が広く伝わることとなりました。

時を同じくして、各地の農村で「神身離脱(しんしんりだつ)」と呼ばれる現象が見られはじめます。それは、地方豪族や仏僧に対して、土地神が以下のようなお告げをするというものでした。

「私は長い時を生きて重い罪を背負ったので、神のままでいられなくなってしまった。この身体を離れ、仏教に帰依したい」

突然、神さまからこんなことを言われたら混乱してしまいそうですね。これを重く見た豪族の要請によって、仏僧が神社の一隅に神宮寺(じんぐうじ。神社に付属して置かれた寺)を建て、神の化身として仏像が置かれました。こうして仏教は、神道を自らの内部へ取り入れていくようになります。

それではなぜ、神身離脱が流行したのでしょうか。実は、神が苦しんでいるのと同じように、当時の朝廷の力も衰えてきていました。これは、度重なる飢饉によって、神の名のもとに租税を取り立てた中央権力のシステムが成り立たなくなったことにも関連します。

さらに、朝廷と農村の橋渡しをしていた地方豪族も、双方の板挟みとなり、代を重ねるうちに疲弊してきました。そこで、神のお告げを理由に、「すべての生物を救う」という教義のある仏教へ希望を見いだします。

このような背景のもと、神宮寺建立の流れは各地に広まっていきました。支配力が衰えはじめていた朝廷は、新しく台頭してきた仏教の力を借りることで、離れつつある人心を取り戻そうと考えていたようです。

一方で神宮寺の方も、朝廷から公式の寺であることを認可してもらい、僧の数や規模を増やしていきました。次第に立場を強くしていった仏教は、奈良の東大寺に大仏を造立し、天平勝宝4年(752)、盛大な開眼供養会(かいげんくようえ)が行われます。

奈良の大仏は、知慧と慈悲の光明を遍く照し出されている仏という意味で、正しくは「盧舎那(るしゃな)仏」と言うらしい。
奈良の大仏は、知慧と慈悲の光明を遍く照し出されている仏という意味で、正しくは「盧舎那(るしゃな)仏」と言うらしい。

こうして始まった神仏習合ですが、仏教が完全に神道を飲み込んだ形とはなりませんでした。双方は朝廷の中でそれぞれの立場を確立させ、やがては後世の日本の信仰形態にも大きく影響を与えるものとなっていきます。

本地垂迹による神仏習合の達成

歴史の授業で「神仏習合」と一緒に覚えた単語といえば、「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」ではないでしょうか。

本地垂迹とは、仏が人間に恵みを与え、すべての生物を救うため、仮の姿である神として現れるというものです。この思想が完成したのは、神仏習合が進んでいった平安時代後期(10世紀後半)とされています。例を挙げると、天台宗からは山王一実神道(さんのういちじつしんとう)が、また真言宗からは両部神道(りょうぶしんとう)が生まれています。

以降、11世紀から12世紀にかけて、「神社に祀られている神が、どの仏の化身(本地仏)なのか」を定める動きが広まりました。これによって神々は、仮の姿の意味である「権現(ごんげん)」という号を与えられたのです。

「蔵王権現(ざおうごんげん)は」、修験道(日本独自の宗教)における最高の礼拝対象。
「蔵王権現(ざおうごんげん)は」、修験道(日本独自の宗教)における最高の礼拝対象。

日本における神仏習合は、このような形で結実していきました。混ざりあった神と仏の関係は、明治維新によって廃仏毀釈が行われるまで続くこととなります。

おわりに

神と仏が習合する流れは、何世紀もかけて徐々に行われていきました。それはまるで、コーヒーに入れたミルクのように、もしくは水と油が乳化していくように、性質の異なるものが溶けあってできたものだともいえます。その背景には、地方豪族や朝廷のさまざまな思惑がありました。

鎌倉時代に成立したとされる『平家物語』の中に、神仏習合の思想を色濃くあらわした文章があります。それは、壇ノ浦の戦いにおいて、幼い安徳天皇が二位尼とともに海へ身を投げる場面でした。なんとも涙を誘うシーンですが、このとき二位尼は、以下のように語っています。

「まず東にお向きなされて伊勢大神宮にお暇乞いあそばしませ。それから西にお向かいになり、西方浄土へお迎え下さるよう御祈誓あそばしませ。さあ、御念仏をおあげなされませ。(中略)極楽浄土という目出たいところへお連れ申しあげましょうぞ」

人生の最後に祈るべき存在として、神道である伊勢神宮と、仏教である念仏や極楽浄土の双方が描写されています。これこそがまさに、当時の日本で神仏習合が完成したといえる証拠ではないでしょうか。

互いの思惑のもとに、異なる信仰が混ざりあう過程。これをたどることで、歴史の醍醐味を新たに味わえそうですね。


【主な参考文献】
  • 冨倉徳次郎 訳『古典日本文学全集 第16 (平家物語)』筑摩書房、1960年 ※本文中の引用はこれに拠る。
  • 義江彰夫『神仏習合』岩波書店、1996年
  • 逵日出典『八幡神と神仏習合』講談社、2007年
  • 薬師寺君子『写真・図解日本の仏像 この一冊ですべてがわかる!』西東社、2016年
  • 文化庁 宗教年鑑 令和4年版
  • 神社本庁 氏神と崇敬神社について

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  この記事を書いた人
なずなはな さん
民俗学が好きなライターです。松尾芭蕉の俳句「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」から名前を取りました。民話や伝説、神話を特に好みます。先達の研究者の方々へ、心から敬意を表します。

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