花のお江戸に本当に居た千両役者!
- 2023/05/08
徳川太平の世、花のお江戸は100万人の人口を抱える大都市へと発展します。そのお江戸で1日に「千両」の金が動いたと言われるのが、日本橋の魚河岸・吉原遊郭・そして江戸三座が常打ち小屋を置いた芝居町です。
ちなみに千両が現在の価値でいくらだったかというと、一両で1ヶ月の暮らしが出来たともいいますので、一両あたり10万円、と少なめに見積もっても1億円にもなります。
庶民の人気を一身に集めた歌舞伎役者。現在でも各界の大立者を指すのに「千両役者」という言葉は使われますが、江戸時代、本当に千両も稼いだ役者は居たのでしょうか?
ちなみに千両が現在の価値でいくらだったかというと、一両で1ヶ月の暮らしが出来たともいいますので、一両あたり10万円、と少なめに見積もっても1億円にもなります。
庶民の人気を一身に集めた歌舞伎役者。現在でも各界の大立者を指すのに「千両役者」という言葉は使われますが、江戸時代、本当に千両も稼いだ役者は居たのでしょうか?
千両役者は本当に居た?
結論を言うと居ました。それも何人も。江戸庶民の花形スター歌舞伎役者。彼らは社会的には河原者と呼ばれ、士農工商の四民にも分類されないそれ以下の者として扱われました。しかし実質は高い給金を取り、派手な暮らしぶりと、何かの時の気っ風の良い行動で庶民の憧れの的でした。江戸初期の歌舞伎は「出雲の阿国」以来の踊りが中心で、現在の歌舞伎のように役者が芝居をするようになるのは17世紀になってからの事です。
延宝元年(1673)に14歳で初舞台を踏んだ初代市川団十郎が、荒事と呼ばれる所作を誇張した演技で人気を博し、上方の坂田藤十郎と共に元禄歌舞伎の花形役者となります。
江戸の芝居町は日本橋の堺町に中村座が、葺屋町に市村座が、そして木挽町に森田座が居を構え、江戸の三座と呼ばれます。幕府の許可を得ての営業なのでその証拠の大櫓を掲げ、太鼓をたたいて客を呼び込みます。
役者が興行主の座元も兼ねており、それぞれ中村勘三郎・市村羽左衛門・森田勘彌が率いていました。
江島生島事件からの復活
正徳4年(1714)1月、江戸城大奥御年寄の江島とお付きの奥女中たちが、歌舞伎役者の生島新五郎らを芝居茶屋に招いて酒食を共にし、大奥の門限に遅れてしまう事件が発生します。この影響で歌舞伎も風紀取り締まりの対象となり一時衰退、芝居小屋も以前のような屋根なしの青天井に戻されてしまいました。
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江戸中期の18世紀前半、徳川吉宗の時代に桟敷席の設置が許され、芝居小屋は以前の形態に戻りますが、本格的に復活したのは倹約将軍吉宗が隠居した後です。待っていたかのように『義経千本桜』『菅原伝授手習鑑』『仮名手本忠臣蔵』の3本の名作が現れ、三座それぞれが長期興行を打つ盛況ぶり。めでたく歌舞伎は復活します。
18世紀後半、歌舞伎人気は沸騰し、松本幸四郎・尾上菊五郎・坂東三津五郎・岩井半四郎など現在につながる花形役者が何人も登場し、安永7年(1778)、ついに初の千両役者が誕生します。
最初の千両役者・中村仲蔵
それが中村仲蔵です。仲蔵は歌舞伎とは縁のない家に生まれますが、4歳で踊りの師匠・志賀山お俊の養子になり、芸事とつながりが出来ました。最初は踊りの道へ進みましたが、やがて役者を志し、二代目中村勝十郎に弟子入り、中村市十郎の名を貰います。一時期は舞台から遠ざかって居ましたが、再び役者として身を立てようと修行を一からやり直し、精進しているところを四代市川団十郎に見いだされます。『仮名手本忠臣蔵』(かなでほんちゅうしんぐら)の斧定九郎役のような後世に残る役の工夫を編み出し、座頭を任されるような役者へ成長しました。そして安永7年(1778)ついに森田座から千両の金を受け取りました。最初の千両役者の誕生です。
現代ですと、歌舞伎役者の階級は大まかに分けて「名題」と「名題下」の2つですが、江戸時代はもっと細かく分かれていました。
まず個室の楽屋を持てる「名題」、後に名題下と言われるようになる「上分(かみぶん)」、「相中(あいちゅう)」、「板の間」、「稲荷町」、「子役」「色子」と様々に区別されます。待遇面でも大きな差がありと言うよりむしろ差別的な扱いに甘んじていました。
役者の昇進はなかなかに難しく、代々の役者の家に生まれなかった仲蔵が座頭にまで昇りつめたのは本当に稀な事でした。
仲蔵に続け、続々千両役者が誕生
江戸後期の19世紀、文化文政のころになると、十一代将軍徳川家斉のもと、町人文化は全盛期を迎え、何人もの千両役者が誕生します。文化12年(1815)の『役者給金附』によると、7人の千両役者が名を連ねます。芸評が至極上々吉の二代目助高屋高助(すけたかやたかすけ)、同じく極上々吉の五代目松本幸四郎・三代目坂東三津五郎・三代目中村歌右衛門・五代目岩井半四郎・三代目嵐吉三郎、そして大上々吉の七代目市川団十郎です。
なかでも歌右衛門(当時38歳)には、座元から別に褒美百両が上乗せされ、金千百両、現在のお金に換算して1億7820万円が支払われました。この人は役者としての声や背丈・顔立ちには恵まれませんでしたが努力して演技を磨き、当り役は『一谷嫩軍記』の熊谷直実に、『楼門五三桐』の石川五右衛門、『仮名手本忠臣蔵」の定九郎と、立役・若衆・実事に女形と何でもこなす役者でした。
寛政期に入ると、役者の給金の高さに悲鳴を上げた興行主が幕府の権威を借りて、給金を押さえにかかります。松平定信の寛政の改革で最高額は五百両と決められ、尾上菊五郎が五百両、坂東彦三郎が四百五十両、尾上多見蔵が四百両などと頭打ちになります。もっとも実際は役手当などさまざまな名目で金が支払われ、七百両、八百両を得る役者は何人も居ました。
おわりに
役者の格付けにはどんな役を演じるかも関係しました。小屋の前に掲げられる看板にも格付けがあって、1枚目が座頭、2枚目が若くて良い男を演じる役者、3枚目が滑稽な役を演じる役者と決まっていました。現在の「2枚目」、「3枚目」という言葉もここから来ています。
【主な参考文献】
- 菅野 俊輔『江戸の長者番付』(青春出版社、2017年)
- 大石学『江戸時代の「格付け」がわかる本』(洋泉社、2017年)
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