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  • 北条五代
 2019/11/28

「第一次国府台合戦(1538年)」北条氏が関東管領の地位を手に入れるきっかけに。

小弓公方の本拠・小弓城跡(小弓御所跡。出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%BC%93%E5%9F%8E" target="_blank">wikipedia</a>)
小弓公方の本拠・小弓城跡(小弓御所跡。出所:wikipedia

後北条氏の祖である北条早雲(早雲庵宗瑞)は、一代で伊豆国と相模国の支配者となり、家督を継いだ「北条氏綱」も勢力を関東に拡大していきます。しかし当然のようにそれを阻止しようとする勢力も現れます。そのひとつが「小弓公方」です。

今回は氏綱が小弓公方を滅ぼした第一次国府台合戦についてお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

北条氏の関東進出

扇谷上杉氏との抗争

武蔵国江戸城に本拠とする相模国守護の扇谷上杉朝興は、勢力を順調に拡大していく北条氏に対抗するため、長年対立してきた山内上杉氏と和睦を結びました。大永4(1524)年のことです。

氏綱はこの和睦締結の隙を突いて江戸城を攻略しますが、朝興も山内上杉氏だけではなく武田氏、里見氏、真里谷武田氏、そして小弓公方などを味方につけて対抗したため、厳しい局面に追いこまれていきます。

扇谷上杉、山内上杉、武田、里見、真里谷武田、小弓公方

VS

北条氏

しかし、扇谷上杉・山内上杉ら連合軍の足並みが乱れ始めるのが天文2(1533)年からの房総の内乱です。

里見氏で内訌が起き、当主の里見義豊と従兄弟の里見義堯が対立しました。これにより朝興は義豊を支持、氏綱は義堯を支持する形となり、義堯が義豊を滅ぼすことで里見氏は北条方の味方となったのです。

房総の内乱では足利義明に敗北

同様に真里谷武田氏でも家督を巡って庶嫡子の真里谷信隆と次子の真里谷信応が対立。氏綱は信隆を支持しましたが、小弓公方の足利義明が信応を支持し、さらに氏綱の味方であった里見義堯も義明に服従したため、氏綱は劣勢となり敗れてしまいます。

こうして氏綱は房総における政治的影響力を減退していくことになるのですが、そもそも小弓公方の足利義明とは何者なのでしょうか?

氏綱は古河公方の足利高基を支持していますが、小弓公方と古河公方にはどのような関係があるのでしょうか?

この関係こそが第一次国府台合戦が起きた原因なのです。

小弓公方の誕生と勢力の拡大

古河公方の次子である空然の還俗

2代目古河公方である足利政氏には嫡子の高基の他に、次子がいましたが、文亀3(1503)年に出家し、空然と称しています。

この空然を担ぎ上げて古河公方に対抗しようとしたのが、房総の支配をもくろむ真里谷武田氏当主の真里谷信清(恕鑑)です。恕鑑は房総支配の大義名分を得るために永正7(1510)年に空然を還俗させました。還俗した際の名が、足利義明です。

義明は恕鑑の狙い通り、房総の有力国人である原氏を倒して小弓城を手に入れました。そして自らの正当性をアピールするために、「小弓公方」と称し、小弓城を小弓御所と呼ぶようになったのです。

房総内では新勢力ではありますが、真里谷武田氏の支持を得ており、氏綱とも対立や妥協を繰り返して大きな存在に成長していきました。

『鎌倉公方九代記』には、この義明について「当代無双の英雄」とかなり高い評価が記されており、氏綱のライバルとしてふさわしい器量の持ち主だったことが推測されます。実際に氏綱の房総進出を何度も防いでいるのです。

真里谷武田氏を併呑

天文3(1534)年、恕鑑と義明が不仲になった末に恕鑑が亡くなります。

対外政策の方向性の違いが対立の要因と考えられていますので、もしかすると北条氏を敵とするか、味方につけるかでもめたのかもしれません。もともと恕鑑は、房総での敵対勢力に対抗するため、氏綱の父親である早雲の協力を得ているという過去があります。

恕鑑が義明から責められて詰め腹を切らされたという説もあれば、病没したという説もありますが、恕鑑はこの時期にはすでに嫡子に家督を譲っており、その嫡子も同時期に亡くなっているので、謀殺された可能性が高いでしょう。

こうして氏綱に支持される庶嫡子の信隆と義明が支持する信応が争い、信隆は追放され、義明は実質真里谷武田氏を併呑してしまいます。

第一次国府台合戦

古河公方からの上意

一方で古河公方では足利高基が亡くなり、家督を嫡子の足利晴氏が継いでいます。義明にとっては甥にあたるわけですが、小弓公方と古河公方の対立は続きます。

義明は高基が亡くなり、勢いの衰えた古河公方を滅ぼし、関東足利氏正嫡の地位を奪うことが狙いでした。

天文7年(1538年)、扇谷上杉氏の拠点を占領していく氏綱は葛西城を攻略します。このとき義明は扇谷上杉勢への加勢のためか、下総国西部の国府台に着陣しています。状況によっては古河御所の関宿城にも攻め込める構えです。

第一次国府台合戦マップ。青マーカーは北条方の城、赤は敵方。

晴氏を支持している氏綱は、義明に和睦をもちかけますが、義明はこれを拒否しました。そして10月になって先陣を相模台へと動かします。

義明の本陣には里見氏も加わっていますから、この軍事力に対抗できるのは氏綱だけだったに違いありません。晴氏は義明を討つよう正式に氏綱に命令を下しました。

上意を請けた氏綱は10月2日に小田原城を出陣して江戸城に入り、10月6日には江戸城を出陣して、相模台と国府台の間にあたる松戸台に着陣します。そして翌日の7日には両陣営が激突する第一次国府台合戦となるわけですが、詳細はほとんどわかっていません。

『快元僧都記』によると、太田川を渡河して松戸台に着陣した北条勢は3千だったと記録されています。義明は相模台方面と国府台方面からこの松戸台を挟撃するのです。

義明を討ち、小弓公方は滅亡

軍議では渡河の最中の北条勢を攻めるべきという意見もありましたが、武勇に自信のある義明はあくまでも上陸した北条勢を一気に叩く作戦をとります。

これによって敗戦を覚悟した里見義堯は被害の少ない戦線に移動したようです。ですから義明が大敗を喫しても里見氏は大きな被害を出さずに撤退に成功しています。

実は太田川を渡河した北条勢は、義明を引きずり出す囮でした。挟撃したつもりの義明でしたが、背後を北条勢の主力に襲われてしまいます。完全に氏綱の術中にはまってしまったのです。

この合戦には氏綱の嫡子である北条氏康も参加していたようですから、戦場の駆け引きを学ぶ絶好の機会だったことでしょう。氏康は享禄3年(1530年)には初陣をはたしているので、義明の本陣を急襲した際には兵を率いていたかもしれません。

北条勢の猛攻によって義明の嫡子である足利義澄と義明の弟の足利基頼が討ち死にしています。こうなると義明の陣営は混乱によって収拾がつかない状態だったはずです。

ここで撤退していれば再起することも可能だったでしょうが、義明は嫡子や弟が討ち死にしたことを知って退かずに北条勢に立ち向かいます。そして討たれてしまうのです。

氏綱は1日の合戦で総大将である義明の首を討ち、小弓公方を滅ぼしたのです。まさにこれ以上はないくらいの大勝利といえます。

まとめ

小弓公方が滅び、古河公方の晴氏は関東足利氏の正嫡の座を守ることができました。これは同時に氏綱に大きな貸しを作ったことを示しています。

晴氏はこの功績を称え、氏綱を関東管領に任じます。そして氏綱の娘(寿春院殿)を正室に迎え、北条氏は足利家御一門に加えられることになったのです。

第一次国府台合戦の大勝利は、関東にあって北条氏が大きく飛躍するための転換期となりました。そしてやがてはその古河公方をも呑み込んでしまうほどの勢力になるのです。

余談ではありますが、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅んだ際、義明の次子である足利頼純が小弓城を奪還したという記録も残されています。義明の意地もまた後世に伝わっていたのです。


【参考文献】
  • 黒田基樹『 中世武士選書 戦国北条氏五代』(戎光祥出版、2012年)
  • 伊東潤・板嶋恒明『北条氏康 関東に王道楽土を築いた男』(PHP研究所、2017年)
  • 黒田基樹『図説 戦国北条氏と合戦』(戎光祥出版、2018年)



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