神と仏を分かつもの ~明治維新の廃仏毀釈

経典が焼却される様子が描かれた『開化乃入口』 第二編下。(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
経典が焼却される様子が描かれた『開化乃入口』 第二編下。(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
徳川幕府に幕を引き、江戸から明治へと新たな時代を築いた明治維新。維新という言葉は、「維(こ)れ新(あらた)なり」という漢語から取られたものです。

廃藩置県や富国強兵など、数多くの政策を打ち出した明治政府によって、日本は近世の封建社会から近代の資本主義社会へと歩みを進めていきました。

明治維新の際に行われた「神仏分離」政策と「廃仏毀釈」運動。一緒に語られることが多いこれらの言葉ですが、実は同じ意味というわけではありません。「神仏分離」と「廃仏毀釈」とはなんなのか。その根幹に横たわる日本人の神仏観とは、どういったものか。一緒に、歴史をひもといていきましょう。

神と仏を分かつ「神仏分離」

「神仏分離」とは、それまで習合されてきた神道と仏教を分けるというものです。

飛鳥時代の仏教伝来以降、日本古来の神道と仏教とが融合していった流れを「神仏習合」と呼びます。それに加えて、神を仏の化身とする「本地垂迹」の思想は、神宮寺(神社に付随する仏堂)などで示されるように広く行き渡っていました。

地域や宗派によっては習合しなかった神仏も存在しますが、武家の守護神として広く信仰されていた八幡神(八幡大菩薩)のように、神も仏も区別なく参拝するという行為は、江戸時代の民衆にとっては当たり前のことだったようです。

しかし、一体化していた神仏は、明治政府によって引き離されていきます。神仏分離令の目的は、政府が擁立した天皇の権威を強調するため、ひいては神道を国教化するためだったと考えられています。つまり明治政府は、江戸幕府の征夷大将軍に対抗するかたちで、天皇と神道を新たな時代の中心に据えたのでした。

明治政府が求めたのは、武家が力を持つ前の時代――神武天皇による国家創業の理念です。これは王政復古の大号令において、「諸事 神武創業の始(はじめ)に原(もとづ)き」と示されていることからもわかります。その他にも、国学者たちが主張した「復古神道」などの流れを受け継ぐものと考えられています。

このような思想のもと、神仏分離は明治元年(1868)3月28日に「神仏判然令」として布告されました。

ここには、「権現・牛頭天王その他、仏教語を神号とする神社はその由緒を提出するように。仏像を神体とする神社はこれを改め、仏像や仏具は取り除くように(要約)」と書かれています。

そして、新たにかたちづくられた国家神道は、伊勢神宮を全国の神社の頂点として、皇族の祖先神・天照大神を祀るというものでした。

廃仏毀釈は神仏分離の一側面

「廃仏毀釈」とは、前項の神仏分離によって発生した、破壊的な運動のことを指します。

その意味は「仏教・仏法を廃し、釈迦の教えを毀(そし)る」というもので、神仏分離よりもかなり乱暴な印象があります。仏像や寺院を破壊して火をつける、といったショッキングな光景をイメージする方も多いのではないでしょうか。

廃仏毀釈の例として、比叡山の山麓にある日吉大社で起きた事件があります。これは、神仏分離が布告された数日後、日吉大社へ武装した一派が訪れ、仏像や仏具が破壊・焼却されたというものでした。

この事件を主導したのは、日吉大社に神職として勤める樹下茂国(じゅげ しげくに)という人物です。それまで日吉大社は延暦寺の支配下にあり、僧侶が神官より上位の身分であったことを、樹下茂国は不満に思っていたと考えられています。

しかし、こうした暴力行為は、政府の望んだものではありませんでした。日吉大社などの報告を受け、同年4月10日には再び令が下されます。

それによると、「私憤を晴らすことは揉め事を引き起こすため、穏やかに取り扱い、仏具を取り除く場合も都度指図を受けるように。粗暴な振る舞いがあれば処罰する(要約)」とのことでした。

近年の研究では、神仏分離をきっかけとして廃仏毀釈が行われたものの、仏像を破壊するという過激な手段を選んだのは一部だったという説が出てきています。

また神仏分離政策においては、神道から仏教を排斥することが注目されがちですが、一方で「寺院から神道的要素を取り除く」といった法令も出されていました。

例えば、法華宗が祀っていた、一日ごとに三十柱の神々が守護するという「三十番神(さんじゅうばんしん)」。政府は法華宗に対し、「今後は神の称号を使わず、これまで祀ってきた神像などは速やかに焼却せよ」と命じました。つまり、神仏分離において取り除かれたのは、仏像だけではなかったということです。

そして僧侶だけではなく、職を失った神職も多数存在しました。国家神道の頂点となった伊勢神宮の神職はそれまで世襲制でしたが、明治維新後はこれが一新されます。伊勢神宮の祭主は皇族となり、大宮司には元公家や元大名などがあてられました。

廃仏毀釈という過激な行為が、すべての神社や寺院で行われたことではなかったにしろ、神仏分離政策はこのような経緯で進められたのです。

神仏分離の後はどうなったか

神仏分離が布告された結果について見ていきましょう。

江戸時代末期の寺院総数は、全宗派あわせて約1700カ寺でしたが、明治8年(1875)までには約400カ寺が廃寺になったとされています。これは、神仏分離に意欲的な地域や宗派と、そうでないところが混在していたことも付け加えておきます。

そして、排斥から逃れた寺院や仏教者たちもいました。彼らは、新しい仏教の地位と役割を求めていきます。

浄土真宗本願寺派の僧・島地黙雷(しまじもくらい)は、明治5年(1872)に西欧へ渡って宗教事情を視察した経験から、政府に対して「信教の自由」と「政教分離」を説きました。

信教の自由については、キリスト教徒(キリシタン)への弾圧を諸外国から批判されていたことも関連しています。帝国列強との不平等条約を改正すべく動いていた政府は、島地黙雷の主張を受け入れ、政教分離へと動いていきます。

明治6年(1873)2月には、キリシタンを禁制する高札が撤去され、明治17年(1884)には神道の宣教活動をする教導職が廃止されました。しかし、島地黙雷の訴えが達成されるのは、第二次世界大戦後のこと。昭和21年(1946)11月に公布された日本国憲法には、信教の自由と政教分離とが明示されました。

時代ごとに移り変わる神仏観

神仏分離や廃仏毀釈が行われた背景には、各地で生活を営む民衆の姿があります。江戸時代後期、国学者などの知識人たちの間では廃仏思想が広まっていましたが、市井の人々は神社も寺院も同じように参拝していました。

神仏分離の際、民衆の中には廃仏毀釈へ加わった人もいましたが、一方で廃仏毀釈を良しとしない人も多く存在していたようです。それに伴って、破壊を逃れた仏像の話も残っています。

例えば伊勢神宮の神宮寺や、菩提山神宮寺の本尊などの仏像が、民衆の力を借りて海を渡り、愛知県に現存している話があります。石川県白山市では、排斥対象だった仏像が村人の協力で山から下ろされ、後に白山下山仏(げざんぶつ)と呼ばれるようになりました。

政府のお触れとはいえ、少し前までは信仰していた仏像を処分することはできない。そう考える民衆も多かったのではないでしょうか。

破壊的なイメージのある神仏分離ですが、こうした民衆の仏教によせる思いがあったことも、忘れてはいけないように思いますね。

おわりに

日本では、大晦日に除夜の鐘を聞き、初詣は神社やお寺へ行き、ハロウィンやクリスマスも同じように楽しみます。私たちは、さまざまな宗教的行事に参加する機会が多いと言えるでしょう。

もしくは、現代日本においては自分を無宗教と考える人が多いのに、なぜ多種類の宗教的行事へ参加しているのか、という話が出ることもありますね。ただそこには、数々の歴史が、複雑に絡んでいると感じられるのです。

古代の仏教伝来から始まり、神道が仏教に習合されていった流れ。近世から続くキリスト教弾圧や、近代における神仏分離からの国家神道への動き、そして政教分離への移行。こうした変遷から現代が成り立っていることは、私たちの宗教に対する意識、その根幹にあるものと無関係ではなさそうです。

そこから、「民衆が信仰するのはひとつの宗教にしておきたい」という統制側の意向と、「これまでにさまざまな信仰対象を受け入れてきた」という民衆側の意向が見えてくるように、思えてならないのです。

歴史とは、細い糸を巨大なタペストリーへ編み込んでゆくようなもの。私たちが生きている150年ほど前に、このような激動の時代があったことは、心に留めておきたいですね。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
なずなはな さん
民俗学が好きなライターです。松尾芭蕉の俳句「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」から名前を取りました。民話や伝説、神話を特に好みます。先達の研究者の方々へ、心から敬意を表します。

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