「後藤実基」那須与一を推薦した確かな眼力 別の場面で別の与一も推薦
- 2023/08/23
『平家物語』随一の名場面、那須与一の「扇の的」。このとき、源義経に与一を推薦した人物が後藤実基(さねもと)です。源氏の名誉がかかった場面で見事に成功させた那須与一もさることながら、後藤実基も確かな眼力を示しました。そして、『平家物語』の別の場面ではもう一人の与一を推薦し、武士の適材適所を心得た目利きぶりを示しています。後藤実基は義経の父・源義朝の代から従っている古参の家臣であり、平治の乱(1159年)も戦っています。
「かけ鳥で三つに二つ」那須与一推挙
まずは那須与一の名場面。源平合戦が佳境を迎えた元暦2年(1185)2月の屋島の戦い。暮れになって戦闘が小休止し、沖に浮かぶ平家の船団から1艘の小舟が漕ぎ出てきました。船上には美しい女官が先に扇を掲げた竿を立てています。「射てみよ」という挑発です。
源氏軍の総大将・源義経はどう受けて立つのでしょうか。的は遠く、小さく、波によって上下に揺れます。浜辺からの距離は70~80メートルといったところで、これを射抜くのは至難の業です。
『平家物語』も異本によって細かい点に違いがあって、例えば、『源平盛衰記』では、義経はまず「坂東武士の鑑」と呼ばれる若武者・畠山重忠に扇を射抜くよう命じます。ところが、畠山重忠は脚気を理由に辞退。代わりに那須十郎、与一兄弟を推薦します。ところが、鵯越の逆落としで肘を負傷して手が震えるとして那須十郎も辞退。仕方なく弟・与一にお鉢が回ってくるという物語としては冗長な筋立てです。
「小兵ながらも優れた者」
『平家物語』では義経の諮問に後藤実基が即座に答えます。義経:「あの扇を射落とせる者はいるか」
実基:「上手の者、いくらでもおります。中でも下野国住人、那須太郎資隆の子、与一宗隆こそ、小兵ではありますが、優れた者です」
義経:「証拠はいかに」
実基:「飛ぶ鳥を落とす〈かけ鳥〉にても三つに二つは射落とします」
義経:「ならば、与一を召せ」
百発百中とは言わないところが、真実味もあり、緊張感も高まります。那須与一は見事に期待に応え、扇の要を射切って、源平双方の武士たちの喝采を浴びました。後藤実基の眼力も証明された場面です。
「遠矢合戦」パワーで浅利与一選ぶ
もう一人の与一は浅利与一こと浅利義遠(あさり・よしとお)です。武田清光の十一男で、武田信義や安田義定の弟。甲斐源氏の一門で、本拠地は甲斐・浅利郷(山梨県中央市)。源頼朝の挙兵には兄たちとともに初期から加勢しています。元暦2年(1185)3月、源平合戦の最終決戦となった壇ノ浦の戦いでは序盤、渚と海上で矢の撃ち合い「遠矢合戦」となります。まず、和田義盛が沖に浮かぶ平家の船に向かって矢を放ち、「その矢を返していただきたい」と挑発。すると、敵が射返した矢が和田義盛の後ろに控えていた兵に刺さります。和田義盛の親類である三浦一族が「和田小太郎(義盛)が恥をかいたぞ」と嘲笑。自分より遠くに飛ばせる者はいないと自信満々で放った矢を撃ち返され、味方、しかも親族に笑われるとは、とんだ大恥でした。
そして、義経の船に平家側から矢が撃ち込まれ、「その矢を返していただきたい」と、和田義盛の挑発をまねた仕返しがありました。
挑発した敵兵に矢を命中
義経としても、ここはきっちりやり返さないと面目が立ちません。後藤実基を呼んで尋ねると、実基は即答します。義経:「味方に射返せる者はいるか」
実基:「甲斐源氏の浅利与一義遠殿こそ」
浅利義遠の矢は「矢を返せ」と言った敵兵の胴体に命中しました。コントロールなら那須与一、遠くへ飛ばすパワーなら浅利与一。後藤実基は適材適所を見抜き、再び確かな眼力を示しました。
なお、浅利義遠は建仁元年(1201)に起きた建仁の乱で、捕らえた敵の女武者・板額御前の奮戦ぶりを気に入り、妻に迎えています。また、那須与一、浅利与一、佐奈田与一(佐奈田義忠)を源氏の三与一といいます。〈3人目の与一〉佐奈田義忠は岡崎義実の嫡男で、治承4年(1180)8月の石橋山の戦いで戦死した勇敢な武士です。
頼朝の同母姉妹・坊門姫を養育
後藤実基は名将・藤原秀郷の子孫です。ただ、祖父が藤原利仁の子孫である後藤氏の養子となっており、利仁流の流れもくんでいます。藤原利仁も藤原秀郷に並ぶ平安時代中期の名将です。また、後藤実基の跡継ぎ・後藤基清は佐藤義清(西行)の甥。佐藤氏も秀郷流藤原氏を代表する武家の名門です。後藤実基は生没年不詳ですが、源平合戦のころには養子・後藤基清も従軍しています。既に孫もいました。また、源平合戦の20年以上前、平治元年(1159)の平治の乱にも義経の父・源義朝に従っています。源平合戦のころはベテランの武将だったのです。
屋島の戦いでは養子・基清とともに平家陣営に攻め入り、平家の兵が退却すると、城塞を焼き払い、この戦いでの勝利を決定づけました。
平治の乱敗走中に下命
また、後藤実基は頼朝の同母姉妹である坊門姫を養育します。平治の乱の敗走中、源義朝が後藤実基に命じます。義朝:「お前に預けた姫はどこにいる」
実基:「ひそかに隠してある女に十分世話するよう命じていますので心配はありません」
義朝:「お前はここから都に帰り、姫を育て、義朝の菩提を弔わせろ」
源義朝の言い方は敗走の結末を覚悟しているようでもありました。
実基:「どこまでもお供を致しまして、そのありさまを拝見したうえで都に戻りましょう」
義朝:「考えるところがあるのだ。早く早く」
最後まで行動をともにしたいという後藤実基を急かして京に戻らせました。
後藤実基は義朝の姫を養育します。この姫が坊門姫。六条坊門烏丸の家で育てられ、こう呼ばれました。系図では頼朝と母は同じ。『吾妻鏡』には、建久元年(1190)に46歳で死去したとあり、久安元年(1145)生まれで頼朝の2歳上の姉。一方、『平治物語』諸本の一部に平治の乱のとき6歳とあり、久寿元年(1154)生まれで頼朝の妹となります。どちらかが正しいか分かりません。
平家全盛期、坊門姫は後藤実基の養育で都に隠れ住み、後に一条能保の妻となります。平家滅亡後、一条能保は源氏派有力公家として活躍し、頼朝の信頼も得て公家としても出世します。
おわりに
後藤実基は義経の良き参謀、アドバイザーとして自身の役割をきっちり果たしています。陰に隠れた存在であまり目立ってはいませんが、秀郷流藤原氏という名門武家の流れをくむ武士で、実力はしっかり備わっていたのです。名場面の裏には知られざる脇役の働きもあるのです。【主な参考文献】
- 五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)
- 梶原正昭、山下宏明校注『平家物語』(岩波書店)岩波文庫
- 谷口耕一、小番達『平治物語全訳注』(講談社)講談社学術文庫
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