源義経の遺児が生きていた? 匿ったのは独眼竜政宗の先祖

中村大明神。義経遺児に関する由緒書きもある(栃木県真岡市)
中村大明神。義経遺児に関する由緒書きもある(栃木県真岡市)
平家追討のヒーロー、源義経の末路は悲惨で、兄・源頼朝から追われ、奥州・平泉に逃げ延びましたが、頼朝の圧力に屈した藤原泰衡に襲撃されて自害します。このとき、義経は妻子を殺害していますが、義経の遺児が生存、子孫をつないでいたという伝説があります。

舞台は下野・中村荘。現在の栃木県真岡(もおか)市です。そして、義経遺児を保護し、育てたのは伊達政宗の先祖だといいます。単なる地方の言い伝えにすぎないのでしょうか。義経遺児伝説を検証します。

妻子を殺し、自害した義経

源義経の最期は文治5年(1189)閏4月30日、衣川の戦いです。衣川館(岩手県平泉町)を奥州藤原氏4代目当主・藤原泰衡の差し向けた軍勢に囲まれ、衆寡敵せず、義経の家臣は全滅します。

有名なのは「弁慶の立ち往生」。武蔵坊弁慶は義経の籠もる堂の前に立ち塞がって敵を寄せ付けず、無数の矢を受けながら、それでも堂を守るように立ったまま絶命したという名場面です。

『義経記』ではこのとき男児が一緒に殺害されますが、『吾妻鏡』では違います。義経は持仏堂で22歳の妻と4歳の女児を殺し、自害。ここに男児はいません。

奥州到着時は男児がいた?

『吾妻鏡』に文治3年(1187)2月10日、義経が平泉に到着したときの様子があります。

「妻室男女を相具す」と、妻と男児、女児を伴っていたと読めます。義経の最期をともにしたのは妻と4歳の女児ですから、男児はいつの間にか消えているのです。

義経の男児といえば、義経の愛妾・静御前が文治2年(1186)閏7月、鎌倉で産み、頼朝の命令ですぐに殺された新生児がいますが、それとは別に奥州までの逃避行をともにし、その後の行方が分からない男児がいるのです。

常陸坊海尊が逃した経若丸

奥州から消えた義経の遺児が落ち延びたとされるのが下野・中村荘です。中村荘は摂関家の所領で、近衛基通(もとみち)とその叔父・九条兼実(かねざね)の間で相続をめぐって争いになっています。

ただ、義経遺児伝説には摂関家の事情はあまり関係なく、一帯を実効支配していたのが伊達氏のルーツ、伊佐氏です。常陸・伊佐荘(茨城県筑西市)を本拠としていた一族で、もともとは藤原氏。藤原北家・山蔭流の武家です。同じ藤原北家の家系ながら摂関家とはかなり遠い親戚です。平安時代末期~鎌倉時代初期の当主は藤原時長。出家して常陸入道念西といいました。一族は伊佐荘に近い下野・中村荘も支配下に置いていました。

常陸入道念西には4人の子がいて、文治5年(1189)8月、奥州合戦で活躍。その戦功で奥州の伊達郡、信夫郡(福島県北部)を得ます。長男・為宗は本領・伊佐荘に残り、三男・資綱は中村荘を管理。次男・宗村と四男・為家は奥州の新領へ移ります。伊達氏は朝宗を初代とし、2代目が宗村。一説に、この伊達朝宗が常陸入道念西その人であり、藤原時長ということになります。

『寛政重修諸家譜』を元に作成した伊達氏の家系図
『寛政重修諸家譜』を元に作成した伊達氏の家系図

さらに常陸入道念西には義宗という養子がいて、これが問題の人物です。中村荘を治め、後に中村朝定(ともさだ)と名乗りますが、実は義経の遺児・経若丸(つねわかまる)。義経配下の常陸坊海尊が念西に託したというのです。常陸坊海尊は『義経記』でも活躍がみられますが、衣川の戦いではたまたま居合わせず、義経配下で数少ない生存者となっています。これが伝説を生んでいるのかもしれません。

頼朝と常陸入道念西の意外な関係

しかし、頼朝に従う鎌倉御家人が義経の遺児を匿うのは、あり得る話なのでしょうか。発覚した場合の危険が大きすぎます。

常陸入道念西と頼朝の関係を考えるうえでキーパーソンとなるのが念西の娘・大進局(だいしんのつぼね)です。鎌倉御所の女官でしたが、いつの間にか頼朝の愛人となり、文治2年(1186)2月、男児を出産します。後に僧侶となる貞暁(じょうぎょう)です。愛人の出産は頼朝の妻・北条政子の耳に入り、極めて不愉快に感じたようで、貞暁誕生に関わる儀式は全て省略されます。大進局は鎌倉にいられなくなり、京へ。頼朝は彼女の生活のため、京に近い伊勢の地に所領を与えます。

貞暁が7歳になって養育者を決めようとしても有力御家人が次々と辞退。みな、北条政子に気兼ねしているのです。それでも頼朝は建久3年(1192)5月、京に出発する前夜の貞暁にこっそり会って守り刀を与えています。

鎌倉殿の面目もあったものではありません。常陸入道念西がどこまで関わっているか不明ですが、頼朝の泣き所を握る立場ではあります。だからといって、義経遺児を隠し育てることが許されるものではありませんが、それはそれとして、常陸入道念西が頼朝にとがめられ、疑われることはなかったのです。

中村朝定 戦国まで続く武勇の血筋

中村氏の居城・中村城跡の遍照寺にこの伝説が残されており、境内には代々の中村城主を祀る中村大明神(小太朗神社)があります。神社の由緒書きにも伝説が触れられています。

中村城跡の石碑(栃木県真岡市)
中村城跡の石碑(栃木県真岡市)

そこでは、中村朝宗を中村氏初代とし、2代目の宗村が藤原時長であり、出家して念西と称します。そして、宗村(念西)は子の為宗に中村荘を譲って奥州伊達氏の祖となり、為宗が養子の義宗に中村荘を譲って常陸・伊佐荘に移ったと説明されています。

その義宗が義経遺児・経若丸であり、中村朝定です。常陸入道念西(藤原時長)が朝宗か宗村か、義経遺児・経若丸が朝宗の養子か為宗の養子か、為宗が朝宗の子か宗村の子か、この伝説は関係する史料によって細かな点で違いがありますが、北関東の常陸・伊佐荘、下野・中村荘の一帯を支配した武家が奥州伊達氏のルーツになり、一方で義経遺児を養子とし、中村荘を管理させたという流れは同じです。中村氏が義経の子孫なのです。

義経子孫を誇った猛将・中村玄角

中村朝定はその後、中村荘を離れることになります。承元3年(1209)、伊佐氏の鎌倉屋敷に移り、実質幕府の監視下に置かれたようです。義宗から朝定の改名もこのころです。もしかしたら、義経遺児であることが幕府の知るところとなったのでしょうか。

子孫は鎌倉幕府滅亡後に中村荘を回復。足利尊氏などに仕え、戦国時代は宇都宮氏の配下となります。この地は北関東の戦国大名、宇都宮氏と結城氏の勢力範囲の狭間に位置し、中村氏は両氏の抗争に巻き込まれ、大永3年(1523)8月、宇都宮氏と結城氏が中村十二郷をめぐって争う猿山合戦が起きます。

さらに、天文13年(1544)10月にも両氏の激しい戦闘がありました。奮戦したのは中村玄角(げんかく)。宇都宮氏の配下で五指に入るといわれた猛将で、「結城四天王」の一人・水谷(みずのや)正村を撃退します。

水谷正村もまた負け知らずの猛将で、蟠龍斎(はんりゅうさい)の異名で知られました。難敵を撃退した中村玄角ですが、領民とともに祝杯をあげていたところ、夜襲を受けて討ち死にします。このとき、嫡男に領民の避難と宇都宮への退去を指示。城は敵に渡せないので焼却しました。中村城落城の伝説です。なお、中村城落城は猿山合戦のときとする説もあります。

中村玄角終焉の地の石碑(栃木県真岡市)
中村玄角終焉の地の石碑(栃木県真岡市)

おわりに

中村玄角は中村朝定から数えて15代目の子孫と称していました。義経の子孫という誇りが勇猛さと直結した武将なのです。義経は伝説の多い武将ですが、遺児・中村朝定についてはそれほど荒唐無稽な話ではありません。どんな状況でも男児を残し、子孫につなげたいというのは通常の考え方です。そして、戦国時代に武勇を誇った中村氏が大いに自慢したアピールポイントであり、現在に歴史ロマンを伝えているのです。


【主な参考文献】
  • 五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館、2007~2016年)
  • 梶原正昭校注・訳『日本古典文学全集31義経記』(小学館、1971年)
  • 真岡市史編さん委員会『真岡市史』(栃木県真岡市、1984~1988年)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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