「武蔵坊弁慶」物語によって伝説化された源義経の郎党

東滋実
 2022/04/26
武蔵坊弁慶のイラスト

2005年の大河ドラマ「義経」では主要な登場人物として描かれ、2022年の「鎌倉殿の13人」にも登場する武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい)。義経と五条大橋で運命的な出会いを果たし、その後彼の家来として最期の時まで従い、降り注ぐ矢を受けて立ったまま死んだというのは誰もが知るエピソードです。

しかし、弁慶に関するエピソードのほとんどは『源平盛衰記』『義経記』『弁慶物語』といった物語作品の中に描かれたもので、歴史書にはほとんど描かれていません。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に名前が登場するため、一応実在した人物であったと考えられていますが、弁慶の活躍のほとんどは伝説化、創作されたものであると思われます。

わずかに『吾妻鏡』に名前が登場する程度

歴史書で弁慶がどのように書かれているかというと、信憑性のある資料としては『吾妻鏡』文治元(1185)年11月の記事に少し登場する程度です。

「前備前守行家[櫻威甲]伊豫守義經[赤地錦直垂。萌黄威甲]等赴西海。先進使者於 仙洞。申云。爲遁鎌倉譴責。零落鎭西。最後雖可參拝。行粧異躰之間。已以首途云々。前中將時實。侍從良成[義經同母弟。一條大藏卿長成男]伊豆右衛門尉有綱。堀弥太郎景光。佐藤四郎兵衛尉忠信。伊勢三郎能盛。片岡八郎弘經。弁慶法師已下相從。彼此之勢二百騎歟云々」

『吾妻鏡』文治元(1185)年11月3日条より

文治元(1185)年の11月初めといえば、いよいよ義経と頼朝の対立が決定的なものとなり、頼朝上洛を前に義経・行家(義経の叔父)らが都落ちして九州へ向かおうという時です。この記事によると義経は後白河上皇に別れを告げるため使者を送り、200騎程度の兵を連れて都落ちするところです。その一員に「弁慶法師」の名が見えます。

また数日後の記事にも登場します。

「行家。義經於大物濱乘船之刻。疾風俄起而逆浪覆船之間。慮外止渡海之儀。伴類分散。相從豫州之輩纔四人。所謂伊豆右衛門尉。堀弥太郎。武藏房弁慶并妾女[字靜]一人也。今夜一宿于天王寺邊。自此所逐電云々。今日。可尋進件兩人之旨。被下 院宣於諸國云々」

『吾妻鏡』文治元(1185)年11月6日条より

義経と行家は大物浜(現在の兵庫県尼崎市)で船に乗り西をめざそうとしていましたが、突如暴風が吹いて船が転覆し、一行はバラバラになってしまいました。義経と一緒だったのは源有綱、堀景光、武蔵坊弁慶、静御前の4人だけだったようです。

とまあ弁慶の名が登場するのはこの程度で、よく知られる豪傑らしい戦いぶりなどは見当たりません。

鎌倉時代のかなり早い段階で成立していたという軍記物語『平家物語』を見ても、何度か名が登場し、他の武士と並んで「武蔵坊弁慶なンどいふ一人当千の兵者ども」とあり、力ある武者として紹介されていますが、やはり活躍する様子は描かれていません。

『義経記』に描かれた弁慶

弁慶が詳しく描かれるのは『義経記』『弁慶物語』など、かなり時代が下ってから成立した物語作品です。

一般に知られるように義経と深い絆で結ばれた家来として描かれるのは、おそらく『義経記』が最初です。ここからは室町時代に成立したとされる『義経記』に描かれた弁慶の生涯を見ていきましょう。

巨大な赤子として生まれる

『義経記』巻第三「熊野の別当乱行の事」によると、弁慶は熊野別当「弁せう(扁昭)」という人物の嫡子であるといいます。『義経記』が説明する弁せうのルーツを見ると、天児屋根命(あめのこやねのみこと/中臣氏・藤原氏の祖神とされる)の子孫・藤原道隆(平安中期、一条天皇の皇后・定子の父として知られる)の後裔だとか。弁せうは二位大納言(誰かは不明。架空の人か)の美人の姫君を奪い、弁慶を生ませました。

そうして生まれた弁慶は、

「世の常の二三歳ばかりにて、髪は肩の隠るる程に生ひて、奥歯も向歯も殊に大きに、一口生ひてぞ生まれたる」

巻第三「弁慶生まるる事」より

という様子。「十八月にぞ生まれける」、つまり18か月目になってようやく生まれた赤子は通常の赤子の2、3歳くらいのようで、髪は肩が隠れるほど長く、すでに歯も生えそろっていたというのです。

これは母親のおなかの中に12か月いて5kgオーバーで生まれてきたというジャッキー・チェンを超える記録で、弁慶は誕生の時すら伝説化されていることがわかります。

弁せうは赤子を見て「鬼神に違いない、生かしておくと仏法の敵となるから、殺してしまえ」と言いますが、姫君は殺すことなどできないと嘆き悲しみます。赤子は弁せうの妹がほしいというので、彼女によって京に連れ帰られました。

この弁慶の誕生譚は、鬼子が捨てられる説話や伝説がモチーフになっているようです。

乱暴な弁慶

「鬼若」と名付けられたその子は乳母もつけられて叔母によって大切に育てられました。5、6歳ごろにはふつうの子の12、3歳くらいに見え、疱瘡にかかったため色黒で、頭髪は生まれた時のままで肩から下は伸びませんでした。髪がこんな様子なので元服させられず、叔母は法師にするため比叡山に入らせました。

比叡山の僧正に預けられた鬼若は学問で人並み以上の才能を見せたものの、暴れて悪事を働くことも多々あり、ついに放逐されてしまいます。

山を下りた鬼若は一人で法師になることを決め、自分で髪を剃って「武蔵坊弁慶」と名乗りました。「武蔵坊」というのは無足比叡山にいたという悪行を好む男の名で、61歳で往生を遂げたというその男にあやかってつけたものです。「弁慶」は父「弁せう」と師匠「くわん慶」からとりました。

こうして一人立ちした弁慶は諸国を修行してまわりますが、生来の乱暴さが祟り、播磨の書写山で暴れた末に火事を起こして54か所の建物を焼失させるなど、以前と変わらずあちこちで狼藉を働きました。

牛若丸との運命の出会い

弁慶はある時、「京都で人の太刀を千振り奪い取って重宝にしよう」と思い立ちます。なぜ千かというと、奥州の藤原秀衡は名馬を千疋、筑紫の菊池は鎧を千領、松浦の大夫は矢入れを千腰、弓を千張揃えているから、人は宝を千揃えて持つべきだと考えたのでした。

弁慶は決めた通り都で人から太刀を強奪し、それは999本になりました。残すところあと1本です。6月17日、弁慶は五条の天神に参詣し、

「今夜の御利生に、弁慶によからん太刀与へ給へ」

巻第三「弁慶洛中にて人の太刀を奪ひ取る事」より

と祈りました。

のちの義経、牛若丸と出会うのは、まさにあと1本というその時でした。弁慶はまだ若い人が見事な黄金の太刀をさしているのを見てこれを奪い取ってやろうと飛び掛かりますが、ひらひらと塀から塀へ器用に飛ぶ義経に翻弄されるばかりです。ついにその日は目的を遂げられませんでした。翌18日、今度は清水坂の近くで対峙すると義経に打ち倒され、弁慶は

「これも前世の事にて候ひつらんめ。さらば従ひ参らせ候はん(これも前世からの約束でしょう。それでは降参しましょう)」

巻第三「弁慶義経に君臣の契約申す事」より

と降参し、義経の君臣となる契約を結んで彼の忠実な家来となるのでした。

ふたりの出会いの地は五条大橋が有名ですが、この時代にはまだありませんでした。『義経記』は五条天神と清水観音境内がその舞台です。五条大橋とするのはこれより後の世にできる御伽草子です。

義経と弁慶の五条大橋での戦いを描いた浮世絵(歌川国芳 画)
義経と弁慶の五条大橋での戦いを描いた浮世絵(歌川国芳 画)

立往生伝説

その後、約束を違えず常に義経のそばで仕えた弁慶は、義経最期の地である平泉にもともに入りました。

兄・頼朝と敵対した義経は各地を転々とした末に、藤原秀衡を頼って陸奥国平泉(現在の岩手県)に落ち着きました。しかし庇護者の秀衡は間もなく病死し、義経は頼朝を恐れる泰衡(秀衡の嫡男)に襲撃されて自害に追い込まれました。

追い込まれた義経は、安らかな死を願い法華経の八巻を読経していました。「お互い先に死んだら死出の山、三途の川で待っていよう」と言う弁慶に、義経は「どうしようか。お経を読んでしまいたい」と答えます。これに弁慶は「それならば読み終わるまで弁慶が矢を射て防戦します。たとえ死んでも読経が終わるまでは守ってみせましょう」と言い、御簾を引き上げて義経の顔をよく見て、一度立ってまた引き返すと、

「六道の道の衢に君待ちて弥陀の浄土へすぐに参らん(六道の道のちまたで殿を町、弥陀の浄土へすぐに参りましょう)」

巻第八「衣川合戦の事」より

と約束し、片岡とともに防戦に向かいました。

最期はよく知られるとおりです。向かってくる敵をちぎっては投げちぎっては投げ、正面切って相手できる敵は誰もいないような戦いぶりで、鎧に多数の矢が刺さった弁慶は「武蔵野の尾花の末を秋風の吹き靡かすが如くなり(武蔵ののすすきの穂が風になびくよう)」な姿。死なないのが不思議なほどの弁慶は長刀を逆さまにして杖にし、敵を睨んで仁王立ちし、一声笑いました。

まるで金剛力士のようなその姿に、ある者が「剛勇の武士は立ったまま死ぬことがあるという。みんなぶつかってみろ」と言います。若武者が馬で弁慶のそばまで駆けると、弁慶は馬にぶつかって倒れてしまいました。弁慶はとっくに死んでいたのです。

弁慶の立ち往生のイラスト

『義経記』は弁慶の最期について

「立ちながらすくみける事は、君の御自害の程、敵を御館へ寄せじとて立死にしたりけるかとあはれなり」

巻第八「衣川合戦の事」より

と、立ったまま硬直した弁慶は主君が自害する館に敵を近づけまいと立死にをしたので、人々を感動させた、と締めくくります。

弁慶はさまざまな伝説となり親しまれる

詳しくは取り上げませんが、弁慶に関する伝説は各地に残り、また謡曲、幸若舞、歌舞伎、浄瑠璃などになって人々に親しまれました。弁慶は物語によって人気の英雄となり、「義経の隣には弁慶」というイメージが定着したのです。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 校注・訳:梶原正昭『新編日本古典文学全集(62) 義経記』(小学館、2000年)※本文中の引用はこれに拠る。
  • 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集(46) 平家物語(2)』(小学館、1994年)※本文中の引用はこれに拠る。
  • 安田元久『源義経』(新人物往来社、1993年)
  • 『国史大系 吾妻鏡(新訂増補 普及版)』(吉川弘文館)※本文中の引用はこれに拠る。

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘がありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...

  • このエントリーをはてなブックマークに追加