「三淵藤英」室町幕府最後の幕臣は悲運の武将でもあった!
- 2020/01/18
現代にまで、その優秀さを伝えられるのが名将というものだが、名将だったからと言って、必ずしもその名を後生にはっきりと残す訳ではない。
そういった武将の中でも、際立ってマイナーなのが三淵藤英(みつぶち ふじひで)であろう。彼が活躍した戦国時代後期はかなりメジャーな時代であり、かなり有能な武将でありながらその名を知る人はかなり少ない。だが、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」に登場してくる人物なので、今後は広く知られることになると思われる。
史料の断片が示唆する彼の人物像はいかなるものだったのであろうか。
そういった武将の中でも、際立ってマイナーなのが三淵藤英(みつぶち ふじひで)であろう。彼が活躍した戦国時代後期はかなりメジャーな時代であり、かなり有能な武将でありながらその名を知る人はかなり少ない。だが、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」に登場してくる人物なので、今後は広く知られることになると思われる。
史料の断片が示唆する彼の人物像はいかなるものだったのであろうか。
父同様に幕臣となる
三淵藤英(みつぶち ふじひで)は室町幕府末期の幕臣である。父・三淵晴員も同じく、室町幕府12代将軍足利義晴に仕えた幕臣であった。また、藤英の弟には細川家の養子となった、あの細川藤孝(幽斎)がいる。
藤英の生年は不明であるが、弟の藤孝が天文3(1534)年の生まれとの記述を確認できることから、それより前の 1530年 前後ではないかと推測できる。
天文9(1540)年頃には既に義晴に仕えていたようで、相国寺鹿苑院へ使者として派遣されたという記録が残されている。この後、幕府では権力闘争による内紛が起こり、将軍義晴は近江坂本への避難を余儀なくされる。
『光源院殿御元服記』によると、天文15(1546)年12月、義晴は亡命先の近江坂本において嫡男の義輝に将軍職を譲る。このときの義輝はわずか11歳であったという。以降、藤英は義輝に仕えることとなる。
そして時代が下った永禄元(1558)年、長らく対立していた三好長慶との和睦が成立し、義輝はようやく京に戻ることができたのである。
覚慶を還俗させたのは藤英
13代将軍としての義輝は、巧みな外交手腕により諸大名の和睦を進めるなど、将軍の直接統治を進めようとしたとされる。しかし、将軍を傀儡として利用しようとしていた三好三人衆らにとっては都合が悪かった。永禄8(1565)年、三好三人衆及び松永久秀が永禄の変を引き起こし、義輝を暗殺。三好三人衆は傀儡将軍として14代将軍足利義栄(よしひで)を擁立するのである。
そんな中、三淵藤英と細川藤孝は興福寺一乗院で出家していた義輝の弟・覚慶(のちの足利義昭)に白羽の矢を立てる。ところが当時は三好三人衆らの画策により、覚慶は一乗院にて幽閉状態にあったので、事はそう簡単ではなかった。
そこで医学に詳しい幕臣・米田求政(こめだ もとまさ)を医者に変装させ、覚慶を一乗院から連れ出すことに成功したと伝えられている。
その後、一色藤長、和田惟政、仁木義政、畠山尚誠らの助けも得て、藤英と藤孝は覚慶をひとまず和田惟政の居城・和田城に預けた。
次いで、近江野洲郡矢島村に居を移した覚慶は、永禄9(1566)年2月に還俗して足利義秋(のちに義昭へと変更)と名乗った。
さらに、若狭武田氏や越前の朝倉義景など、上洛を目指して居を転々としていった義昭は、永禄11(1568)年に明智光秀の仲介もあり、最終的に上洛要請を受け入れてくれた織田信長の本拠・美濃に落ち着いたのである。
15代将軍 義昭の重臣に
同年の9月、信長は足利義昭を奉じて上洛のために進軍を開始し、無事京にたどり着く。10月18日に朝廷から将軍宣下を受け、義昭はついに第15代将軍に就任する。義昭によって幕府再興事業が進められていくが、その中でも幕府の要の地である山城国の御料所を掌握し、奉公衆である藤英を伏見城主としてその地を統治させたというから、その信頼の程がうかがえる。
藤英は吉田兼見の日記『兼見卿記』を除いては、あまり史料に名が出て来ない地味な武将であるが、実務と軍事に優れた名将であった。事実、信長に京を追い出されていた三好三人衆が、義昭の仮御所に攻め込んできた永禄12(1569)年正月の本圀寺の変では、池田勝正・和田惟政・三好義継らとともに、見事にこれを撃退している。
信長に仕えるも、明智光秀預かりに
足利義昭の重臣として幕府運営に関わることになった藤英であるが、御内書を濫発するなど、次第に義昭の専横が目立つようになったという。信長はそれを阻止するため、本圀寺の変の直後にあたる1月14日、殿中御掟を制定する。義昭はこれを承認したが、この殿中御掟を義昭が完全に遵守したかと言えばそうでもなく、これによって信長との関係に軋みが生じるようになったように思われる。
信長の浅井・朝倉との姉川の合戦を挟んで、義昭と信長の関係は微妙なまま推移していたが、独断で行動する癖の抜けない義昭に、信長は元亀3(1572)年10月、17条の意見書を提出。
この意見書はかなり強い口調で義昭を批判しており、もはや両者の対立は不可避となってしまったのである。
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この結果、義昭は挙兵する。元亀4(1573)年正月に信長は義昭との和睦を画策するが、義昭はこれを撥ね付け軍勢を動かし始めた。
しかし、いざ戦になってみると幕府側は終始劣勢であり、信長に寝返る武将も少なからずいたようである。特に、弟の細川藤孝が義昭を見限り信長に寝返ったことは、藤英にとって衝撃だったに違いない。
二条城に籠った藤英は最後まで抵抗を続けようとしたが、柴田勝家の説得により、同年の7月10日遂に降伏する。『兼見卿記』には数日後の7月12日には二条城を退去し、自身の居城伏見城に移ったという記述が見られる。
その後まもなく義昭が籠る槇島城も陥落し、義昭は京を追放されて、三好義継の河内国若江城に移る。これにより、室町幕府は事実上滅亡することとなる。
藤孝が義昭を見限って信長についた時には激怒した藤英であったが、時代の流れには逆らえず、遂に信長に仕えることを決断する。8月2日には、信長の命により、山城国淀城に籠る幕臣岩成友通を藤孝らともに攻撃し、これを撃破したと『信長公記』には記されている。
この戦いによって、岩成友通は討死する。山城国淀城の攻略の後、藤英はとりあえず伏見城を安堵されたようである。ところが、それからいきなりその足取りが途絶える。親友の吉田兼見の日記『兼見卿記』にも、なぜか藤英の記述が見られなくなる。
再び史料に記述がみられるのは天正2(1574)年5月であるが、その内容は驚くものであった。
『年代記抄節』にはこうある。
「藤英、近江坂本城に自害すること、本年7月6日の条に見ゆ」
ことの発端は、この年の5月に信長が急に伏見城の破棄を命じ、藤英と嫡男秋豪(あきひで)が坂本城の明智光秀に預けられたことにある。
謎の切腹
不思議なことに私が調べた限りでは、この所領召し上げに関して詳細な記述のある史料が全く存在しない。そして、2ヶ月後には嫡男ともども自害を命じられるのである。ここで疑問なのは、嫡男秋豪までが自害に追い込まれているということである。この件に関して、いくつか気になる記述が『兼見卿記』に見られる。
まず、元亀4(1573)年の6月29日である。この日兼見は京に戻る途中に、「渡辺宮内少輔(くないしょうゆ)が吉田郷の領有を将軍義昭に強く願い出ている」という内々の情報を秋豪より聞いたという。
渡辺宮内少輔という武将はこの当時藤英同様幕臣であったから、秋豪のこの行動には別段不自然な点はない。ただ、この渡辺宮内少輔という人物には意外な経歴があった。
『兼見卿記』の元亀4(1573)年2月6日にはこうある。
「山城愛宕郡の山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯谷久次、明智(光秀)へ逆心」
なんと渡辺宮内少輔の主は明智光秀だったのである。
この当時、光秀は信長の直臣となったばかりであり、この逆心に対する信長の印象はよいはずがない。しかも、将軍御所にも近い吉田郷の領有を義昭に願いでているとあっては、光秀の面目は丸潰れだろうし、信長の耳に入れば最悪の事態を招く可能性も否定できないと光秀が憂慮しても不思議はない。
この点を加味すると、『兼見卿記』の元亀4(1573)年7月14日の謎が見えてくるのではないか。7月14日、吉田山に信長の居館を築いてはどうかという光秀の進言に基づき、信長は柴田勝家、羽柴秀吉などの重臣たちを兼見のもとに派遣している。
実はこの件、兼見は事前に光秀から何の相談も受けておらず、かなり驚いたと記している。光秀のこの行動の理由は謎とされているが、私は7月14日という日付に注目したい。
藤英・秋豪父子が義昭方として二条城に籠ったのは7月初めのことであるが、おそらく光秀はこの籠城戦で藤英と秋豪が討死すると踏んでいたのではないか。とすると、7月10日に藤英が降伏したことはかなり意外だったに違いない。
討死していれば、光秀の他に吉田郷領有の件を知るものは渡辺宮内少輔しかいないが、彼もすでに信長に服属しており、今更カミングアウトするのは自殺行為に等しい。つまり、藤英・秋豪父子が生き残ってしまっては不都合だったのである。
これを排除するには、もはや吉田郷領有の件の首謀者は藤英であると讒言するしかないのではないか。そのため、急遽信長に進言することで、吉田郷の様子を探らせる必要があったのではないかと私は見ている。
あとがき
三淵藤英・秋豪自害の背景には、信長の苛烈で疑り深い性格があることは確実であろう。仮に光秀が関与していたとすると、近江坂本城を完成させたばかりであり、織田家中の有力者として台頭しつつあった地位を失いたくないという心理があったのではないか。光秀は藤英同様実直な人間であったが出世が絡むと、どうも腹黒さが前面に出てしまう傾向が見られるように思う。ここまで書いてきて、ふと、細川藤孝が本能寺の変後に光秀に味方しなかったことが頭に浮かんだ。ひょっとすると兄・藤英のことが去来したのかもしれない。
【参考文献】
- 金子拓『信長家臣明智光秀』平凡社新書 2019年
- 久野雅司 『足利義昭』戒光祥出版 2015年
- 金子拓・遠藤珠紀『兼見卿記1』中経出版 2014年
- 木下昌規『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年
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