山下財宝は存在する?(後編)…山下財宝の出所、正体とは
- 2023/06/23
本記事は、「山下財宝は存在する?」の続編にあたります。前編をまだご覧になってない方は 山下財宝は存在する?(前編) をご参照ください。
前編でご紹介したように、フィリピンでは実際に色々な財宝が発見されているのですが、財宝に「山下将軍の埋めた物」と書いてあるはずもありません。ですので、こういった財宝が全て、いわゆる「山下財宝である」とは断言できません。
では、これらの財宝は一体、どこから来て、何故そこに埋蔵されたのでしょうか?
実は、ある程度まで合理的な説明がつけられます。そして、その説明が合理的である理由を納得して頂くためにはフィリピン防衛戦(1944~45年)当時のフィリピンの状況と、それ以前のフィリピンの状況についてご説明しなければなりません。
【目次】
フィリピン防衛戦当時のフィリピンの状況
当時のフィリピンでは支配国である米軍と日本軍が熾烈な戦いをしており、双方とも物資は現地調達でした。米軍はニセ札の混じったドル紙幣で支払っていたので、物資の値段は高騰し、完全なインフレ状態になっていました。これは米軍が意図的に行なっていたことであり、日本軍の調達を難しくする狙いがあったのです。このため、日本軍は物資調達に際し、確実な交換物資として金、銀などの貴金属を必要としました。それも細かい単位で払える大きさの方が好都合でした。1kgのインゴットでは大きすぎて調達には不向きです。むしろ小さい塊の方が調達に向いていたのです。
ロハス氏がM老人から聞いた話を元に見つけた金塊は「マッチ箱くらいの大きさ」でした。マッチ箱にも色々あるので一概に大きさは決められませんが、5gから50g位であったと思われます。後に日本から物資調達用として送られてきた「マル福金貨」は31gでした。つまり、ロハス氏が最初に見つけた金塊は日本軍の物資調達用の金塊であったと考えるのが合理的なのです。
このような物資調達用の金、銀は日本で「供出貴金属」と言う形で民間から接収した貴金属が原材料となり、フィリピンに送られたようです。つまり、小さな金塊は「物資調達用」であり、フィリピン駐在の部隊には必ず常備されていたものだったのです。それが今日まで残されている「財宝の相当部分を占める」ことは、ほぼ確実と言って良いでしょう。つまり、略奪された財宝ではなく、日本から持ち込まれた貴金属なのです。
日本国内で「供出貴金属」として接収された金の総量は100トンである事が記録から分かっています。そして、一部は「マル福金貨」というコインに加工され、フィリピンに送られましたが、それは1トンにも満たない量でした。残りの99トンの金に関しては、終戦後に東京湾越中島の旧陸軍の保管庫から大量の金塊が見つかり、GHQが押収した、などの記録がありますが、それらを計算に入れても100トンには遠く及びません。つまり、残りの金はどこに行ったのか全く分からないのです。
明確な記録はありませんが、行方不明の金のうち「小さなインゴットにされ、フィリピンに物資現地調達用資金として送られた物があった」のは、ほぼ確実と考えられます。そして、それが「山下財宝」の相当部分を占めていると思われるのです。
山下大将就任以前のフィリピンの状況
山下奉文大将がフィリピン防衛隊の指揮官に任ぜられたのは昭和19年(1944)9月26日であった、ということは大きな意味を持ちます。先に「フシュガミの訪問」により、ロハス氏がゴールデンブッダという桁違いの大物財宝を手に入れたことを書きましたが、地図を持ってきた「フシュガミ」と称する元日本軍人が、それを埋蔵した本人であることは間違いありません。では、フシュガミは、どこで財宝を手に入れたのでしょうか? フィリピン国内では「ブッダ像」など作ってはいません。実はこの手のブッダ像を作っているのは主にカンボジアです。昭和19年(1944)9月では、もうマッカーサーの部隊が真近に迫っている状況ですので、戦闘指揮能力の高い山下奉文大将が指揮官に任命されました。この時期にカンボジアからブッダ像を略奪することなど到底、不可能です。つまり「フシュガミ」は前の総指揮官である黒田重徳中将の部下であった可能性が極めて高いのです。
黒田重徳中将は大東亜共栄圏におけるフィリピンである「フィリピン第二共和国」を作り上げた人物で、独立にあたり、フィリピンの有力者の協力を得ることに成功していました。その一方、「フィリピン第二共和国」に反対するフィリピン人を容赦なく虐殺したため、戦後はフィリピン共和国に連行され、マニラ軍事裁判で終身刑の判決を受けています。(1951年10月23日、エルピディオ・キリノ大統領の特赦をもらい仮釈放)
こうした背景から、フシュガミは有力な協力者からの資金援助、あるいは反対派を弾圧した結果の財産没収、という形で財宝を獲得したものと思われます。これらの財宝は黒田中将の部下達が私物化した、と見た方が合理的なのです。
なぜなら私的に集められた財宝は、自分が帰国する際に一緒に持ち帰ることができないからです。ゴールデンブッダの例でも分かるように、財宝は重量物もあり、全体量は相当なものと考えられるので、後で「ほとぼりがさめたら取りに来よう」と考え、わからないように埋蔵し、地図を作っておいた、と考えた方が自然でしょう。
つまり、一部の財宝については、黒田中将支配下のフィリピンで黒田中将の部下達が私的に集めたものである可能性も十分にあるのです。
山下財宝の正体と、プラチナの巨大な塊の謎
- 現地(フィリピン)での物資調達用に、日本から持ち込まれた貴金属
- 黒田中将の部下達が私的に集めたもの
話をまとめますと、上記2つの貴金属類が現在、フィリピンに埋蔵されているとされる「山下財宝」と呼ばれる埋蔵金の大部分であると思われます。
実際のところ、山下奉文大将とは全く無関係なのですが、スターリング・シーグレーヴの小説のおかげで「山下トレジャー」と言われるようになってしまった、というのが実態であると見て間違いないでしょう。そしてこの財宝はまだどこかに眠っているかも知れないのです。
以上が旧日本陸軍が残した「山下財宝」と言われるものの正体と思われます。しかし謎はまだ残っています。それはF・高木が旧帝国海軍の軍人から聞いたという「プラチナの巨大な塊」についてです。このプラチナがどこからやって来たのかは全く不明です。
プラチナというレアメタルは産出国が異常に偏っており、東南アジアも含めアジア圏では、ほとんど産出されません。南アフリカが68%、ロシアが14%、ジンバブエが9%で、後は米国とカナダで6%という具合であり、いずれの国も旧日本海軍とは縁遠いと思われる国ばかりです。
そんなものを何故、旧日本海軍の軍人が「大量に沈めてある」と知っていたのでしょうか? この謎だけは全く手掛かりもなく、詳細は不明です。フィリピンと言う国は、そこそこ政情が安定している一方、入出国や警察が十分に機能していない、など「後進国特有の緩さ」がある国です。しかし政情が安定しているのは「何かを隠し、後で取りに来るには都合が良い条件」と言えるでしょう。
また、支配国がスペイン→アメリカ→戦争→独立という少々、複雑な道筋をたどったことで「色々な機会」があった可能性があり得ることも事実です。つまり、どさくにまぎれて何が起こっていても不思議ではない、という歴史もあるのです。財宝の存在する可能性について2つの理由を挙げましたが、それ以外に何があっても不思議ではない国、といって良いのです。
この記事で取り上げた内容も「全体像から見たら、ほんの一部」でしか無いのかも知れません。しかし、こういった伝説的な内容は逆に「不明な部分」もあった方が面白いとは言えるでしょう。プラチナの謎は追及してみる価値があります。ですので、我こそは、と思われる方は是非とも研究してみて下さい。プラチナというレアメタルはヨーロッパでは長らく知られておらず、「にせものの銀」と呼ばれた特殊な歴史を持っており、それが関係している可能性もあり得ると思います。
発見された財宝がルソン島北部に集中している理由
フィリピンは日本と同じ島国ですので、沢山の島々から成っています。その中で、財宝が見つかったのはルソン島北部に集中しています。この理由は山下奉文大将と堀参謀の考えた作戦によるものだと推測されます。山下大将がフィリピン防衛司令官に着任して間もなく、参謀本部から堀情報参謀がフィリピンにやってきました。本来の目的は「敵軍戦法早わかり」という方法を伝授するためだったのですが、フィリピンにやってくる途中、鹿屋海軍飛行場で台湾における対米戦の戦果報告の状況を目の当たりにして堀参謀は「これでは駄目だ」と痛感しました。そこでは次々に入電されてくる内容を確認もせず鵜呑みにしていたからです。
堀参謀はパイロット達に次々と質問を出して確認をしました。
- 「どうして撃沈だとわかったか?」
- 「どうしてアリゾナとわかったか?」
- 「アリゾナはどんな艦型をしているか?」
- 「暗い夜の海の上だ、どうして自分の爆弾でやったと確信して言えるか?」
- 「雲量は?」
- 「友軍機や僚機はどうした?」
- 「戦果確認機のパイロットは誰だ?」
パイロット達の答えは曖昧なもので、最後には黙ってしまいました。つまり入電されてくる戦果はいい加減なものだったのです。ちなみに米軍では必ず戦果確認機というものを飛ばし、具体的な戦果を写真撮影して報告しているのです。
参謀本部は、入ってくる戦果情報を元に次の作戦を立てるのですから、その戦果情報がいい加減なものでは、うまく行くはずがありません。「どうも戦果情報が怪しい」と考えていた堀参謀の勘は当たっていたのです。そしてフィリピンに着くと、ちょうど「台湾戦大勝利」の祝賀会をこれからやろうとしていた所でした。
堀参謀は山下大将に自分が鹿屋飛行場で見た「戦果情報」を報告したところ、山下大将は「祝賀会は取りやめだ」と言いました。そして堀参謀は山下大将の参謀としてフィリピン防衛作戦に参加することになるのです。
そうしているうちに、ついに米軍艦隊がレイテ湾に入ってきました。山下大将は堀参謀を呼び、対応策を話し合います。そして出た結論は「現在のフィリピン駐在部隊では勝ち目は無い。急いでルソン島北部に塹壕を作り、そこで出来る限り米軍を足止めし、日本本土が迎撃準備を整える時間を少しでも稼ごう」という作戦となりました。
山下奉文大将は実戦経験から「大本営のいうことはあてにならん」と言うことを良く知っていたからこそ、堀参謀を信じたのです。そこでルソン島北部に急いで塹壕を作りました。塹壕と言っても大きなトンネルでしっかりとした作りにして中に坑道も作り、すぐに移動が出来るようにしました。そしてこの塹壕の中にフィリピン駐在の部隊の相当数を入れ、米軍を待ち受けたのです。つまり「物資調達用の金塊」も、その時に一緒に塹壕に運ばれていった訳です。
しかし参謀本部からは「レイテで米軍を阻止せよ」という指令が来ました。やむなくレイテで対戦したものの、米軍の強さは予想以上であっという間にレイテは占領され、米軍はルソン島北部へと侵攻してきました。そして山下大将は準備しておいたルソン島北部のトンネル要塞で、米軍足止め持久作戦にかかるのです。
山下大将は米軍との戦闘が始まる直前、堀参謀を飛行機でフィリピンから脱出させ、日本に帰らせました。この戦が負け戦と分かっていたからです。何とか持ちこたえていたルソン島塹壕部隊もついに米軍の猛攻撃で陥落。山下大将は降伏を宣言して米軍に投降します。しかし、その前にトンネル要塞の出入口を爆破させ、出来るだけ米軍に物資が渡らないようにしておいたようです。その結果、「トンネル要塞の中に物資調達用の金塊」が残される結果となり、かつ「トンネル要塞への出入り口が分からない」と言う状態になったのです。
通称、山下財宝と呼ばれるものの大部分が「現地での物資調達用金塊」であったらしいことを考えると、ルソン島北部に集中しているのは、こういった成り行きから見たら当然と言えるでしょう。もちろん、フシュガミのような黒田司令官時代に集められたと思われる財宝はルソン島北部とは限りません。しかしルソン島は首都マニラがあるフィリピンで最も中心となる島です。そしてルソン島の北部は「発展が遅れていた地域」で住人も少なかったのです。
何かを隠す場合、あまり人気の無い場所に隠すのは当然と言えますし、後で取りに来ることを考えるとルソン島内の方が都合が良かったであろう、とも想像されるのです。
スターリング・シーグレーヴの虚構と現実
スターリング・シーグレーヴの小説の「虚構部分」を明らかにしておくため、まずは山下奉文大将と昭和天皇の関係を説明しておきたいと思います。戦前から日本陸軍には「統制派」と「皇道派」という2つの軍閥があり、主導権を争っていました。この主導権争いは、昭和10年(1935)に相沢中佐が統制派のドンである永田鉄山少将を白昼、陸軍省で斬殺するという事件(相沢事件)を起こし、いったんは皇道派が主導権を取りました。しかし皇道派の青年将校が二・二六事件を起こして昭和天皇を激怒させたことで、皇道派青年将校の理論的指導者であった北一輝も銃殺刑となります。最終的には統制派が主導権を握ることとなり、東条英機が陸軍のドンとして君臨することになります。
山下奉文中将は皇道派でした。二・二六事件が発生して昭和天皇の御聖断が下ると、山下は現場に行き、主謀者3名に自決せよと迫りました。3名はそれを受け入れたので山下中将は侍従長を通じ、昭和天皇に「主謀者3名が自決をするので見届け人を出して欲しい」と上奏します。それに対し、昭和天皇は「背いた者に検死をする事などできない」とはねつけ、「以ってのほかである」と怒りをあらわにしたのです。
昭和天皇にしてみれば、大事な重臣を殺された直後のことでもあり、反乱軍を絶対に許せなかったのでしょう。のちに語ったところでは「検死というのは何等かの正当たる理由により死んだ場合に行うものと思う。だから反乱軍の検死をする、というのは反乱軍に何らかの正当たる理由があることを認めることになる」と語っています。
後日のことですが、陸軍の大将昇進者の候補リストに山下奉文氏の名があると、昭和天皇は裁可せず「見直すように」と突き返したそうです。そのため、山下奉文氏は長らく中将のままでした。彼が大将に任ぜられたのは実に1943年、つまり終戦の前々年という遅さで既に58歳という年齢でした。
マレー・シンガポールの早期攻略で国民から大喝采を浴び、「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文氏でしたが、昭和天皇からは疎まれてしまっていたのです。山下奉文氏自身も自分が昭和天皇から疎んじられていることを理解しており「陛下に申し訳ないことをした。つぐないをしなければならぬ」と常々言っていたそうです。
山下は軍人としては突出した才能を持っていましたが、政治的なこととなると苦手なタイプだったのでしょう。つまり『Gold Warriors』で昭和天皇が財宝を守るための特殊任務を極秘に山下奉文大将に命じた、ということは当時の両者の関係を考えると、あり得ないでしょう。しかし、当時の陸軍の中で山下奉文氏の力量は非常に高く認められており、国民の人気も高く、敗戦直前にフィリピン防衛司令官であったことからスターリング・シーグレーヴは山下奉文氏が主人公に相応しいと考えたのではないでしょうか。
おわりに
山下は皇道派ということで東条英機から忌み嫌われ、常に外地勤務であり、陸軍の中では恵まれない存在として不遇な日々を送っていました。しかし「シンガポール攻略戦(1942)」「フィリピン防衛戦( 1944~1945)」などの、重要かつ能力を必要とする戦線が発生すると、山下奉文氏に白羽の矢が立ちました。如何に忌み嫌っていても「ここは山下の力が必要」と言う場面においては、東条英機もしぶしぶながら、山下奉文氏を指名したのです。つまり「好かん奴だが、実力は認めざるを得ない」という所でしょうか。一見、いかつい容貌であり、いかにも武闘派という印象の山下大将ですが、実は本質を見抜く能力と高度な分析能力と想像力を併せ持った知性溢れる人物だったと思われます。
山下大将がフィリピン防衛司令官に任命されたのは昭和19年(1944)9月26日。終戦まで1年も残っていませんでした。既にマッカーサーはすぐそこまで来ており、山下大将が10月初旬にフィリピンに到着した時点で、既にフィリピンは米軍の空爆を受けていました。
到着して間もない10月19日に米軍のレイテ湾侵攻が始まり、戦端が開かれます。一部では「山下財宝は山下奉文が現地の財宝を略奪して築いたものだ」という説がありますが、そんなことをしている時間は山下大将にはなかったのです。また、そんな事実があれば開戦前に一緒に作戦を練っていた堀参謀が気づかないはずがありません。堀参謀は山下大将に強い尊敬の念を抱いていたことを手記で語っています。
通称「マッカーサー参謀」とまで言われ、参謀本部きっての名参謀と言われた堀参謀は常に「冷静沈着、確実な情報のみを詳細に分析し、次の一手を考える」人で、いい加減に物事を判断処理するような人を常に苦々しく思っていました。敵が目前に迫っているのに、現地で略奪行為を行なう人を尊敬などするはずがないのです。
つまり、時間的にも周囲の評価をみても、山下大将が略奪行為をしたとは、とても考えられないのです。埋蔵金伝説には常に「いい加減な情報」がつきまとうものですが、この説だけは山下大将の名誉のためにも否定しておきたいと思います。
【主な参考文献】
- 堀栄三『情報なき国家の悲劇 大本営参謀の情報戦記』(文春文庫、1996年)
- 稲村光郎『昭和戦時下の資源回収 --全体像とその仕組み』
- 寺崎英成(著)、M・テラサキ・ミラー(編集) 『昭和天皇独白録』( 文春文庫、1995年)
- 松本清張『昭和史発掘 第5巻~第9巻 2.2.6事件』(文芸春秋社)
- 山岡荘八『小説太平洋戦争(6)』(講談社、1987年)
- 質の蔵HP プラチナの産出国ランキングベスト7
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