山下財宝は存在する?(前編)…単なる都市伝説でなく、財宝は本当にあった!

皆さんも一度は「山下財宝」という、山下奉文大将(軍歴は1905~1945年)率いる旧日本軍がフィリピンに埋めた莫大な埋蔵金の話をお聞きになったことがあると思います。そして、どこまで信頼して良い統計なのか分かりませんが、日本人で山下財宝の存在を信じている人は5%程度だそうです。つまり95%の人はガセネタだと思っている訳です。しかし、フィリピンで統計を取ると逆に95%の人は山下財宝の存在を信じているそうです。

この違いは国民性というものもあると思いますが、山下財宝の舞台であるフィリピンでは色々な事実が知られている一方、日本ではそれらの事実はほとんど報道されることがないから、とも言えそうです。

ご存じでしょうか? 実際に財宝を見つけた人がいることを。また前のフィリピン大統領であったマルコス氏の夫人、イメルダ・マルコスが「私の夫は山下トレジャーで財を築いた」と明言していることを。それでも皆さんはおっしゃるかもしれません。「言葉ではなんとでも言える。実際に実物を見せてもらわなければ信じられない」と。

昔から「火の無いところに煙は立たない」と言います。そこで山下財宝は本当なのか、それとも、ただの都市伝説なのかを徹底的に検証してみました。そして色々な事実を突き止めることが出来ました。それらの事実を総合的に考えてみれば、山下財宝の正体は何なのかが、おのずと分かってくるのではないかと思います。

ヒストリーチャンネルの「山下将軍の消えた財宝」

歴史を題材にしたヒストリーチャンネルという番組を放送しているCS放送で『山下将軍の消えた財宝』という番組が放送されたことがあります。ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。この番組は実際にフィリピンで山下財宝を捜索しているグループの活動を描いたものです。

ご覧になった方達はグループのメンバーが、やけに「岩に刻まれたサイン」にこだわっていることに気づかれたと思います。また「金のユリ」という言葉が良く出て来ることにも気づかれたと思います。現在、フィリピン国内で山下財宝を捜索しているグループは200を超えるそうですが、ほとんどの方は「英語圏の方」です。彼らが、こだわっている「サイン」「金のユリ」というのは実は、歴史を題材とした小説を書いているアメリカの作家、スターリング・シーグレーヴが書いた小説『The Yamato Dynasty』や『Gold Warriors』に由来しているのです。

スターリング・シーグレーヴは、いわば米国の司馬遼太郎さんみたいな方です。実は司馬遼太郎さんもそうですが、歴史を題材とした小説というのは、「歴史を題材にとったフィクション」なのです。つまり、本当の史実とフィクションとが、ごちゃまぜになっている娯楽作品なのです。

事実、司馬遼太郎さんの小説を読んでいると「本当の史実」と「面白くするための創作フィクション」がうまく組み合わされており、読んだ人の中には「そうだったんだ」と書いてあることが全て本当の史実のように思ってしまう方も少なくありません。司馬遼太郎さんもスターリング・シーグレーヴも非常に巧みなストーリー構成と展開で読者を楽しませてくれますが、「半分は事実、半分は作り話」なのです。

『The Yamato Dynasty』と『Gold Warriors』は日本語訳が出ていません。読んでみれば分かりますが、日本人であれば、その内容に違和感を強く感じる内容だからです。

ごく簡単に内容を書きますと

  • 日本の皇室は19世紀から第二次世界大戦の終戦時まで世界各地の財宝を集めまくっていた。
  • そして第二次世界大戦の終戦直前、敗戦を覚悟した皇室は秩父宮雍仁親王を総責任者として、それらの財宝の一部をフィリピンに隠しておくことにした。
  • それらの「隠匿された財宝」は暗号名で「金のユリ」と呼ばれ、後日に隠匿場所がわかるように「日本の皇室関係者だけが分る独特のサイン」を岩等に残した。
  • そして、それらの隠匿作業の実行責任者は山下奉文大将であった

というものです。

内容的に皇室に対する不敬とも取られかねませんし、日本人の持っている「皇室のイメージ」とは相容れない物なので日本語訳は出ていないのです。下手に日本語訳を出すと批判が続出してしまいかねません。ですがアマゾンのkindleで原文を読むことが出来ます。

しかし『The Yamato Dynasty』にしても、参考文献として実に55ページもの長きにわたり、延々と色々な本や資料を挙げており、書くにあたり相当量の資料を参考にしていることが分かります。つまり「事実である部分」も相当に多いのです。それだけに「書かれていることは全て事実だ」と信じ込んでしまう人が沢山出てしまったのです。

ですが私達はそれを笑うことはできません。多分、司馬遼太郎さんの小説を読んで、それが全て「れっきとした歴史的事実である」と信じて疑わない日本の方も結構、沢山いらっしゃることも事実だからです。しかしスターリング・シーグレーヴも罪なことをしたものです。彼の作品のおかげで山下トレジャーの捜索に人生を賭けてみようという人達が沢山、出てしまったのですから。

では、山下財宝はすべてスターリング・シーグレーヴの創作なのか? と言うと、そうとも言いきれないのです。というのも、実際に財宝を発見した実例があるからです。

P・A・スマック氏のケース

1986年2月、ノルウェーのビジネスマンであるP・A・スマック氏は金の商談のためにフィリピンに滞在していました。すると彼のホテルの部屋に突然、3人の屈強な男がやってきました。そして言うのです。「大統領(フェルディナンド・マルコス氏のこと)があなたにお会いしたいと言っている」と。それは有無を言わさぬ物であり、スマック氏は彼らに半ば強引に連れ出されました。そして実際にマルコス大統領と1対1で話すことになったのだそうです。

実際には「話す」というより「命令を受ける」という内容でした。要は「まず香港に行ってアタッシュケースを受け取り、それをロンドンまで運んで欲しい」というもので「相応の礼は出す」とのことでした。当時、マルコス大統領の権力は絶対で、恐怖政治を敷いていたこともあり、断れば殺されかねない危険を感じたそうです。

仕方なく「イエス」と答え、スマック氏は言われた通りの行動を取りました。香港で受け取ったアタッシュケースは大きく、分厚く重く、運ぶのに苦労したそうです。そしてロンドンのヒースロー空港に到着し、入国審査の場所へ向かっていたスマック氏は偶然、テレビでやっていたニュースを目にして呆然とします。そのニュースはマルコス大統領がフィリピンからハワイへ亡命したことを伝えていたからです。その瞬間に金のディーラーであるスマック氏は自分が運んでいるアタッシュケースの中身が何なのか、わかったそうです。

金には透明なフィルムで出来ており、コピーにかけると文字が印刷されてくる「特別な証書」があって、金市場ではそれが取引されています。ロンドンは金取引のメッカでした。つまり、アタッシュケースの中身は「マルコス氏の所有している大量の金の証書」であるに違いない、と思ったのです。

しかし依頼主が亡命してしまった以上(つまり権力の座から追われてしまった以上)もはや、受けた命令を守る意味があるのかどうか。よっぽど「このままノルウェーに行ってしまおうか」とも思ったそうです。飛行機に乗っている間にも「見張りが付いているのではないか?」と思うほどに常に視線を感じていた彼は、命令通りにアタッシュケースを指定された場所へ運び、「相応の礼」を受け取ったのだそうです。

ちなみに彼は今日に至るまで「運んだ場所がどこなのか」は黙して語りません。ただ、その時にスマック氏は運んだ「金の証書」の量から推察するに「尋常では無い量の金」がマルコス氏の手元にあったことを知り、イメルダ夫人の「主人の資産は山下トレジャーで築き上げたものだ」との言葉に信憑性を感じたのだそうです。そして彼自身が「相応の礼」を資金にして山下トレジャーの捜索に乗り出し、ルソン島のタルラックと言う場所にある製氷工場の跡地から6.5kgの金塊、7つを見つけ出します。

一体どうやってその場所を特定したのかは決して語りません。ただ明かされたのは「45.5kgもの金塊を見つけた」という事実だけでした。この発見は大きな話題となり、彼の地元、ノルウェーでも大きく報じられ、スマック氏は一躍「トレジャーハンター」として、その名を知られることになります。

その後もスマック氏はルソン島内を探索し、いくつかの財宝を発見したと明言していますが、その量と場所は明かされていません。現在、彼はトレジャーハントをやめてフィリピン人の妻とともにコペンハーゲンで暮らしているそうです。

フィリピンの第10代大統領、フェルディナンド・マルコス。任期は1965~1986年。(出典:wikipedia)
フィリピンの第10代大統領、フェルディナンド・マルコス。任期は1965~1986年。(出典:wikipedia)

R・ロハス氏のケース M老人

1965年にフェルディナンド・マルコス氏がフィリピンの大統領になってから、国民の間に「マルコス大統領自身が山下トレジャーの発掘オペレーションに取り組んでいる」という噂が絶えなかったそうです。それを知ったR・ロハス氏は自らも山下トレジャーのハンティングを始めることを決意します。

まず彼は「フィリピン財宝探査協会」というものを立ち上げ、自ら初代会長職に付きます。なぜこんな組織を立ち上げたのか、というとマルコス大統領自身がトレジャーハンティングをしている以上、フィリピン内のトレジャーハンティングは常にマルコス大統領と対立することになるので個人では敵わないとみたから、だそうです。実際、ロハス氏の発掘作業現場には常に「何等かの影」が付きまとい、身の危険を感じたことも多々あったそうです。

そんなある日、彼はMという65歳の盲目の老人の話を聞きます。M老人の話は日本人である私達にとってはショッキングな内容ですが、あえて、ほぼ原文のままご紹介してみましょう。戦争、占領という行為がいかに人を狂わせるかを如実に物語るものであるからです。

「私を含め、14人が日本兵の捕虜となり、地下壕を作らされた。特徴のある 二つの頂を持つ山が見えたので、そこがクロンダイク地区であることは分かった。そして忘れもしない1945年2月27日、ふたりの捕虜と私、突然、日本人の将校に起こされ、暗い森を1時間半ほど歩かされ、洞窟に連れていかれた。そして奥の床に穴を掘るよう命じられた。

穴が出来ると将校は二つの黒い金属製の箱を指さし、それを穴に入れるよう命じたが、箱は非常に重く、とても3人では無理であったので日本兵3人が加勢し、何とか2つの箱を穴に入れた。そして土砂を元通りにシャベルでもどし た。そして洞窟を出ると、暗闇の中を歩かされ、小さな滝の下の離石が沢山ある小川まで来た。そこで我々は兵隊たちに取り囲まれ、砂利の土手にひざまずかされ た。3人の兵隊が銃口から剣をはずし我々に舌を出せと命じた。我々の舌を切るつもりなのだ。目を突き刺そうとしていることもわかった。

2人は逃げようとして撃ち殺されてしまった。私は懸命に憐みを乞い、何とか目を潰されることだけで解放された。もし、あの箱が武器や弾薬であれば、あそこまでする必要はなかったはずだ。あれは財宝であったに違いない。だから、あそこまでしたのだ。もう私には、あの場所まで行くことはできない。君達が守備よく財宝を見つけたら私のことを思い出して欲しい」

M老人の話を信じたロハス氏はルソン島のクロンダイク地区内で老人の話に該当する場所を探し回り、遂に、その洞窟の場所を突き止めます。しかし40年の間に洞窟は完全に土砂に埋まってしまっており、それを発掘するのは大変な難作業でした。しかし、ついに「2つの箱」の発掘に成功したのです。

その箱の中には「マッチ箱大の金塊」が詰まっていました。それは大量とは言えませんでしたがロハス氏には十分な成果でした。その時、M老人は既に亡くなっていたそうです。ロハス氏は発見した金塊を換金し、発掘のために借りた借金を全て返済しました。これが話題となり、「ロハスは発掘に成功したらしい」という噂が飛び交います。

金塊はメンバーで分け合い、発見に成功したことはメンバーだけの秘密としていたのですが、「借金を全て返済した」ことがアダとなり、ロハス氏は一躍、トレジャーハンターとして名を上げる結果となってしまうのです。そしてそれがロハス氏に次のチャンスをもたらしました。

R・ロハス氏のケース フシュガミの訪問

ロハス氏が初めての成果を挙げて、暫く経った頃、突然2人の日本人の訪問を受けました。老人と若い男性で老人は自ら「フシュガミ」と名乗りました。

ここでちょっと注釈ですが、フィリピンの方には日本語の発音が非常に難しいらしく、ロハス氏は「フシュガミ」としか表現できなかったようです。このため「フシュガミ」というのは、そのままの本名ではないと考えられます。

フシュガミはロハス氏がフィリピン財宝探査協会の会長であることを聞き、訪ねてきたのだそうです。フシュガミは一枚の地図をロハス氏に手渡し、言いました。「これは私が戦時中に隠しておいた金のありかを示す地図だ。これをあなたに差し上げる。見つけたら恵まれない人達のために使って欲しい」というのです。

ロハス氏はフシュガミに「あなたの取り分は?」と聞くと、フシュガミは「私は既に十分な財産を持っているので、分け前はいらない。マルコス大統領の悪い噂は聞いている。彼が見つけだす前に、あなたに見つけて欲しくて、わざわざやってきたのだ」と言い、地図を示し、若干の説明を付け加えて去っていったそうです。

その場所はルソン島の旧病院施設の跡地でした。しかし、フシュガミの説明にあった「一番奥の場所」は鉄格子がはめられ、さらにコンクリートで塗り固められており、半端でなく強固な壁となっていたそうです。その壁をロハス氏と数人のメンバーは大ハンマーを使って数か月もかけて、やっと穴を開けることに成功します。

そして、そこにはフシュガミの言う通り、大量の金の延べ棒とブッダ像が置いてありました。そのブッダ像は動かそうにもびくともしない位に重く、調べてみると、どうも純金で出来ているようでした。これがのちに「ゴールデンブッダ」と呼ばれるものです。この発見は先のM老人のときとは桁違いの量でした。ロハス氏とメンバーは遂に大成功を納めたのです。

全ては「フシュガミ」のおかげでした。ロハス氏とメンバーはとにかく見つけた財宝を一旦、ロハス氏の家に保管することにしました。ブッダ像は下にローラーを挟んで転がしながら動かしたそうですが、大の男、4人がかりでやっと、端っこを少し持ち上げられる位に重かったそうです。

しかし数日後、突然、警察がロハス氏の家にやってきました。刑事は判事の署名のある裁判所命令を示し、発掘した金塊とブッダ像を全て持ち去ってしまいます。実は判事はマルコス大統領の親類の一人で、そこに書かれている罪状はフィリピンの法律では規定されていないものでした。つまり「全てはマルコス大統領の命令」だったのです。

裁判所命令には「真鍮のインゴット」と記されていました。「真鍮のインゴットは金色をしているので悪用される可能性がある」とし、また、ブッダ像については罰則に触れるというのが押収の理由でした。しかし、その罰則は法律のどこにも明記されていないものです。要するにマルコス大統領がロハス氏の発掘した財宝を横取りしたのです。

ロハス氏は命令書にサインした判事に直談判をします、すると判事は「生きていたかったら、これ以上は何もしないことだ」と言い、会見を打ち切ってきました。あまりにも露骨なやり方でした。

マルコス大統領によると思われる、奇妙な事例

フィリピン国内では、他にも金・銀・プラチナなどが発見されたことが、たびたび新聞で報道されていました。中でも、とびきり凄いのがNBI( フィリピン国家捜査局 マルコス大統領の埋蔵金捜索部隊)がルソン島北部のカガヤンという場所で見つけた、2トン以上もある大きな金属の塊でした。

当時、 共同通信のマニラ支局長であっ た 石山氏にその一報が入り、プレスブリーフ(マスコミに対する説明会)があるので取材してくるよう連絡が入りました。そして、最初の一報によると、その金属とはプラチナらしい、ということでした。

石山氏はフィリピン通のAに連絡を取り、同行させることにしました。Aに「プラチナと他の金属を見分けるにはどうすれば良いのか」を聞いたところ、Aは「フィリピンでプラチナだと言っているものは大概、鉛だ」と一笑に付したのです。そして石山氏はタフト・アベニュー 沿いにあるNBIの本部の建物の前でAと合流し、中に入りました。

中で2人が見た物は、直径80センチ、高さ40センチほどもある半球状の塊で、 表面に黄褐色のサビのようなものが薄く粉をふいていました。Aが表面の粉を触ってみると、その粉は簡単に落ち、中から銀白色に輝く金属が見えました。また、底から30センチほどの所にPで始まるアルファベットが5文字書かれていることも分かりました。

「どうせプラチナまがいの鉛の延べ棒だろう」と思っていたAは驚愕し、「これは鉛ではない」と石山氏に告げます。現場には他のマスコミも来ており、Aを専門家と勘違いしたマスコミはAに「これはプラチナですか?」と質問し、Aは答えました。

「カガヤン地区から持ち込まれるものは、ほとんどが鉛だが、これはそうではない。プラチナである可能性は否定できない」

これを聞いたマスコミは一斉に「プラチナである可能性」を報じました。プラチナはいわゆるレアメタルの中でも希少性が高い金属で地球全体での埋蔵量は推定で1万6千トン。実際に採掘されたプラチナは有史以来、5000トン程度と言われています。もし、この2トン以上の金属の塊がプラチナであるとしたら、それが売却されると市場価格は急落します。事実、マスコミが「プラチナの可能性」を報道したことにより、プラチナの相場は一気に1オンスあたり5ドルも落ちました。それがマルコス大統領の怒りを買い、NBI長官はクビになってしまいます。

実は、この金属の塊はF・高木という有名なトレジャーハンターが見つけたものでした。彼は旧日本帝国海軍の元軍人という人物から「サンタアナ沖に合計4つ、2トン、5トン、7トン、10トンのプラチナ塊が鎖でつなげられて沈められているという事を聞かされ、探索したところ、それを見つけたのです。しかし海底から引き上げることは出来なかったので、パシフィック・シークエストというアメリカ人のトレジャー・ハンター・グループに引き揚げの援助を依頼し、一番小さい2トンの塊だけ、何とか引き揚げに成功。しかし、買い手を探している最中にNBIの察知するところとなり、没収されてしまったのです。

それから、この金属の塊はフィリピンの科学技術省に持ち込まれます。そして「検査の結果、鉄であると判明した」と発表されたのです。公開された写真は石山氏とAが見た物とは全く違う「金属の塊」でした。プラチナの比重は21.4であることを考えると、2トンの金属の塊の大きさは最初に石山氏とAが見た大きさで、ほぼ合致します。しかしフィリピン科学技術省が公開した「金属の塊」は石山氏とAが見た塊よりも遥かに大きく、明らかに別物でした。鉄の塊2トンであれば「それくらいでなければおかしい」からです。つまり、すり替えが行われたことは明白でした。そしてサンタアナ沖に合った、という4つの塊のうち、残された3つも「いつのまにか消え去っていた」のです。

以上、知られている発見を記しましたが、おそらく、この他にも「秘密にされている発見」は結構、あるものと推測されます。ロハス氏は発掘のための資金を借金で調達したため、全額返済したことが発端となり、世間にバレてしまいましたが、自己資金で調査をしている人達が発見した場合、黙っていれば誰にも知られないで済む可能性は十分にあるのです。

フィリピンの入出国の検査は「いくらでも抜け道がある」と言われています。極端な話、入出国管理官にワイロを渡せば「当然のように見逃してくれる」のだそうです。ですので財宝を見つけた場合、密かに国外に持ち出して処分すれば、誰にも知られずに済むことも可能です。そして、こういった「誰にも知られていない発見」は相当あるのではないか、とも想像されるのです。

しかしフィリピンではなぜ、あちこちで財宝が見つかるのでしょうか? 「山下財宝は存在する?(後編) では、山下財宝の出所と正体について考察してみたいと思います。


【主な参考文献】
  • 結城凛『もう一つの戦後史 M資金が動き出す』(ダイアプレス、2018年)
  • 『山下将軍の消えた財宝シーズン1 HISTORY CHANNEL』
  • Peggy Seagrave、Sterling Seagrave『THE YAMATO DYNASTY The Secret History of Japan's Imperial Family』 (Crown、2001年)
  • Peggy Seagrave、Sterling Seagrave『GOLD WARRIORS America's Secret Recovery of Yamashita's Gold』(Verso; New, Revised版、2006年)
  • 笹倉明『ドン欲の坑道』(ヤブ式怪社ヘンテコ・インターナショナル、2014年)

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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