切腹…日本独特の武士にだけ許された意思表現の方法

 今でも「詰め腹を切らされる」という言い方をすることがありますが、日本には平安時代より「切腹」という行為が行われていました。文字通り「腹を刃物で切る」行為であり、切腹=死を意味してもいます。

 しかし、なぜ「腹」なのでしょうか? 腹には脳や心臓のようなダメージを受けたら即死する内臓器官はありません。欧米では自殺するときは「銃で頭を撃つ」のが普通で、これなら即死ですので楽な訳です。一方、腹を刃物で切ると小腸を傷つけますが、これだけでは即死とはなりません。また、腹部には大きな血管も無いので「切った瞬間に大量の出血を起こす」ことがなく、「失血性ショック」も起こりません。失血性ショックが起きれば、即死もあり得るのですが、それも期待できない訳です。

 切腹によって死ぬためには「全血液量の1/2の量を失うと起こる失血死」を待つ必要があり、それは相当な時間がかかり、死ぬまでに長い時間を要します。それまでの間、痛みと苦しみを味わうため、とても苦しい自殺方法といえるのです。

 世界でもこの「切腹」という自殺文化を持つのは日本だけです。この不思議な風習を追ってみたいと思います。

腹を切ることの意味

 まずは切腹の意味について、とても理解しやすいエピソードが残されていますのでご紹介しましょう。

 豊臣秀吉が大坂で「馬揃え」という軍事パレードを行った時のことです。秀吉の目に紅の轡(くつわ)をつけた逞しい黒馬に乗った者が止まりました。その武士は非常に頼もしく見え、立派であったので、秀吉は「あれは誰か」と尋ねました。すると、側にいた徳川家康が「あれは当家の成瀬小吉という者で御座います」と答えました。秀吉は「禄はいかに」と尋ねたので家康は「二千石を与えております」と言うと、秀吉は「豊臣に仕えるならば五万石を与えようぞ」と言いました。

 つまり、引き抜きにかかった訳ですね。

 家康としては、成瀬小吉はさほどの重臣という訳でもないので、別に豊臣家に仕えてもよかろうと考え、成瀬小吉を呼び「秀吉様にお仕えするか?五万石を下さるそうだ」と言います。すると成瀬小吉は「不肖の身にして禄を貪りながら、主君を捨てるような者と思し召されているのを知らなかったのは愚かでした。ただ、早く自害して心を明かしたい」と言いました。

 わかりやすくいうと、「私が禄高に目がくらみ、安易に主君を変えるような人物と見られているとは思いませんでした。このうえは切腹をして私の心をお見せしたいものです」ということです。要するに、切腹は「自分の真の思いを見せること」という解釈なのです。

 そういえば今でも「腹を割って話そう」とか「腹の内が読めない人」とか「腹黒い人」という言い方をします。つまり日本においては「腹=心」という意味なのです。ですので、「腹を切る」とは「自分の真心を見せる」という意味なのです。

 また、冒頭でも述べましたように切腹による死は非常に苦しく辛い物でしたが、武士にとって「武勇を誇る」ことは必須条件であり、もし自殺するならば、あえて最も苦しい方法を取る。首を吊ったり、崖から飛び降りたりする安易な方法の死は「武勇を誇りとする武士の取るべき方法ではない」と考えられてもいたようなのです。誇り有る武士が名誉の死を遂げるのは戦場、あるいは切腹するかしかなかった、と理解すれば成瀬小吉の言った言葉も理解できるのです。

 私のような一般庶民の感覚からすると「給料が25倍も上がるなら移ればいいじゃん。親分もいいと言っているんだしさぁ」と考えてしまいそうですが、それは「武士道」という価値観からすると見苦しい行為だった訳です。切腹は「自分は武士である」ということの証明でもあったのです。

 事実、切腹について一定の作法が整った江戸時代でも「武士以外の者は切腹をしてはならない」という決まりがありました。逆に武士は何等かの落ち度、失策などで自分が責任を取らねばならない時は切腹という手段しか選べなかったのです。ただし、「明確な犯罪行為があった場合」や「著しく見苦しい失敗」であった場合は「切腹」は認められず「斬首」という不名誉な死を命じられました。武士にとって切腹とは「名誉ある死」だったのです。

 切腹であれば子供に家督相続も許されましたが、斬首では「お家断絶」にさせられた、という点から見ても、切腹が「武士として名誉ある死」であったことが分かります。

切腹の作法の変遷

 とはいえ、武士も人の子と言います。江戸時代になると、切腹について一定の作法が設けられるようになります。

 細かい儀式的なことは省略しますが、最も重要なことは「必ず介錯人が付き、介錯人がとどめをさす」という形に固定化されたことです。これは「出来るだけ苦しまずに死なせてあげよう」という計らいにも見えますが、もし介錯人がとどめをささないと、腹を切ってから失血死するまでに非常に時間がかかること、辺り一面が血の海になること、等が不都合であったからという見方もできます。

 しかし、それは好意的な見方であり、江戸時代に入ると、武士といえども実際に戦場で戦う機会もないので、武士道精神は段々と形だけの物になってきていた、という要因もあるようです。つまり「怖くて自分の腹が切れない武士」が続出した結果、介錯人が首を落として、とどめをささざるを得なくなった、というのが実情のようです。

 「武士であるから立派な死を遂げる」から「武士なのだから見苦しくないいように死なせる」という方向に転換せざるを得なかったようなのです。

 事実、江戸時代に入ると「扇子腹」という方法がよく用いられたそうです。切腹という以上、短刀を用意しておくのが当然ですが、「こいつはダメそうだな」と思われた場合、三宝の上に扇子を乗せておき、切腹する人が、その扇子に手を伸ばした瞬間に介錯人が首を落とすことによって絶命させる、ということもよく行われたそうです。

1867年にフランスで出版された、江戸時代末期の切腹の様子を描いたイラスト。中央の裃を着用した人が切腹人。(出典:wikipedia)
1867年にフランスで出版された、江戸時代末期の切腹の様子を描いたイラスト。中央の裃を着用した人が切腹人。(出典:wikipedia)

介錯人について

 「子連れ狼」というドラマの主人公、 拝一刀は「元公儀介錯人」というふれこみで登場しますが、そのような役職は存在しません。江戸城内で切腹が行われる場合、介錯人は「御様御用(おためしごよう)」という新しい刀を買った時に「試し切り」をする担当者がおり、その人が努めました。しかし切腹は必ずしも江戸城内で行われるものではなく、「誰かの屋敷」で行われることの方が多く、実際に「御様御用」が介錯人を努めた例は多くはないようです。

 そして介錯人を努めるには「相当な剣の使い手」であることが必須条件でしたので、「その屋敷内で最も腕が立つ人」が担当しました。何故なら「首を落として切る」には頸椎(けいつい)という首の骨を一刀両断しなければなりませんが、頸椎は7つの骨が積み重なった状態になっており、手足の骨のように「まっすぐ一本」になっていないので、非常に切断しにくいのです。このため、いかに当屋敷一番の使い手であっても失敗することもあったようです。

 有名な赤穂義士は「幕府の決定」に対して不満を持ち、公的に言うと「私怨」で吉良上野介を討った訳ですから、本来なら斬首となるのが妥当でした。しかし当時から赤穂義士への賞賛は高く、斬首にすると幕府に対する批判が出かねない状況でしたので「切腹」ということになったのです。

 しかし大石内蔵助の切腹を担当した介錯人は頸椎を一刀両断できず、仕方なく何回も切り込んで、やっと落としたそうです。そのために大石内蔵助は非常に苦しんで最後を遂げたそうです。これが原因で「大石内蔵助の最後は非常に見苦しかった」という言い伝えが数多く残されています。

明治時代以降

 明治時代になると、切腹は「死刑執行方法の1つ」としてしばらくは存続しますが、明治5年(1872)に死刑執行方法から除外されます。しかし、武士の多くが軍隊に就職したということから想像できるように軍隊の中では「武士道」は生き続けていました。

 軍隊内では切腹をして果てたという例がいくつか見られます。明治以降の切腹では「介錯人」がいませんので、いずれも壮絶な状況となったことが知られています。以下にいくつかご紹介しましょう。

乃木希典大将の切腹

 明治天皇の崩御に伴い、殉死した乃木希典大将の切腹は、相当に凄いものでした。以下、乃木大将の検死記録から推定される切腹の状況です。

 「日本軍刀によって、まず十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経および第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命」

 つまり、介錯人がいないので軍刀を膝に立ててあごの下に切っ先を持ってきて、そのまま首の部分を突き刺した訳です。それも「まず腹を十文字に切ってから」です。へたな江戸時代の武士よりも遥かに壮絶な切腹ですが、腹を十文字に切った時点で「相当な重症状態」ですので、さらにそこから首を刺したというのは、物凄い気力であると言えます。

 実際、武士がいた江戸時代よりも、武士がいなくなり、その精神だけを受け継いだ明治以降の軍隊では、より純粋に武士道精神が伝わっていたと考えて良いのかも知れません。つまり、明治以降の軍人の方が江戸時代の武士よりも、より武士道に忠実であった、と言えるかもしれないのです。

 乃木大将の切腹は、それくらいに凄いものでした。


大西瀧治郎中将の切腹

 太平洋戦争で「特攻の父」と言われた大西瀧治郎中将はポツダム宣言受諾のご聖断が下り、8月15日の玉音放送を聞いた翌8月16日に切腹をしました。

 大西瀧治郎中将は青年達を特攻攻撃に送り出す際に「最後は必ず、俺も行くからな」と常々言っていたのですが、その最後の機会は訪れることなく終戦となってしまったのです。大西中将の切腹は予想されたことでしたが、その切腹は大変なことになったようです。

 まず軍刀で腹を十文字に切り裂き、頸と胸を刺したのですが、まだ死ねず、遂に官舎の使用人に発見され、多田武雄次官が軍医を連れて前田副官、児玉誉士夫、熱海にいた矢次一夫まで駆けつけてきてしまったのです。

 彼は軍医に「生きるようにはしてくれるな」と言い、さらに児玉誉士夫がいることに気づくと、「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木の小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ」と言いました。

 児玉が "自分も自決する" と言うと、「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ」と言って延命処置を拒み、夕刻になって死亡しました。

 大西中将の例でも分かるように、介錯人無しの切腹はそう簡単には死ねないのです。大西中将は「特攻攻撃の案出者」として知られており、一般的な評判は芳しくないのですが自衛隊で初代航空総隊司令を務め、航空自衛隊の育ての親と言われた源田実氏は

「大西とは一年ほどの同勤であったが、数年に匹敵する意義を持ち戦術思想、人生観に大きく影響を与えられた」
「正しいことを正しいと認めることが大切なのであって何が国のためになるかで考え無節操と罵られようとも意に介すなという大西から受けた言葉は人生においてこれほど胸を打つ言葉はなかった」

と言わしめるような人だったのです。ある人は、これを「貴重な愚直さ」と呼びましたが、しかり名言だと思います。

阿南惟幾陸軍大臣の切腹

 阿南陸軍大臣については別の記事にて詳説しておりますので、ご紹介は省略させて頂きます。

 阿南陸相の切腹は「陸軍の過激派分子の決起阻止」を狙ったものであり、まさに「日本のために犠牲になってくれた」といっても過言ではないと思います。しかし阿南大臣の切腹も介錯人なし、の壮絶なものでした。しかし最も「武人らしい死に方」であったと思います。

 8月14日の夜、帰宅すると、まず風呂に入り身を清めました。すると義弟の竹下中佐がやってきたので二人で酒盛りを始めました。阿南大将は酒好きだったのですが、母親の死以来、断酒を続けていたので、実に久しぶりの酒だったのです。竹下中佐は阿南大将が自決する覚悟であることを知っており、「兄貴、あまり飲み過ぎると仕損じるぞ」と注意したところ「なに、血行が良くなって、その分、早く行けるさ」と返しています。

 実は、この時、一部の青年将校が玉音放送阻止のために宮城占拠を行い森師団長を殺害し命令を偽造するという事件が起きていたのです。竹下中佐はそれを知っていたのですが、最初は阿南大将には言いませんでした。自決の妨げになると考えたからです。しかし、遂に耐え切れなくなったのか、阿南大将に宮城占拠事件が起こっていることを告げます。すると阿南大将は「東部軍は立たんだろう」と言っただけでした。

 そこへ宮城事件の一人である井田正孝中佐がやってきて森師団長を殺してしまった旨を伝えます。すると「そうか。森師団長を斬ったのか、お詫びの意味をこめて私は死ぬよ」というと、井田中佐が「私も御伴致します」と言います。

 阿南大将は井田中佐の頬を思いっきり、ぶん殴り「何をバカなことをいうかっ」「おれ1人、死ねばいいのだ。いいか、死んではならんぞ」と大喝します。「君たちは死んではならぬ、苦しいだろうが生き残って、日本の再建に努力してくれたまえ」と言い、夜明けが近づくと昭和天皇から拝領した白いYシャツを着て戦死した惟晟(次男)の遺影を置いて、ひとりで縁側で短刀を使い、割腹をしました。

 腹を十文字に切り裂きましたが、まだ死ねません。次に首筋の頸動脈に短刀をあて、ぐっと切り裂きました。すると、血しぶきが溢れるように出てきて、辺り一帯は血の海になりました。阿南大将の意識はそこで途絶えます。義弟の竹下中佐が顔に耳を近づけると、まだ僅かに息があり、介錯として短刀を反対側の頸部にあて深く刺し、絶命させました。


おわりに

 終戦以来、「切腹」という言葉は残りましたが、実際に切腹で自殺した人は多くありません。有名な三島由紀夫氏は市ヶ谷自衛隊本部籠城事件で切腹自殺しましたが、誰かが介錯人を努めたらしく、長時間苦しんだ様子ではなかったようです。

 言葉や文化、物の考え方、常識と言うのは時代とともに変わってゆきます。ですので「切腹」という言葉も、あと数十年もしたら「それってどういう意味?」ということになるかかもしれませんが、それで良いのでしょう。

 現代に生きる私達は心が腹にあるとは誰も思っていませんし、武士道の美学が好きでも嫌いでも無関心でも何ら問題はありません。ただ、「あえて最も苦しい手段を選ぶことの意味」というのは、簡単な方法を選ぶより困難な道を選ぶほうが、自分を鍛えるために役立つということでもあります。

「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きくその路は広く、これより入る者多し。いのちに至る門は狭く、その路は細く、これを見出す者なし」
『新約聖書』マタイ伝 第7章
 

 なんとなく安易な方法に頼りがちな私たち現代人には、「切腹」という狭き門をくぐることはできないでしょうし、する必要もありません。なぜなら現代には切腹に代わる「狭き門」があるはずだからです。そしてそれはきっと、人それぞれなのではないかと思います。


【主な参考文献】
  • 山本博文『切腹~日本人の責任の取り方~』(光文社新書)
  • 大濱徹也『乃木希典』(講談社)
  • 草柳大蔵『特攻の思想―大西瀧治郎伝』(グラフ社)
  • 源田実『海軍航空隊、発進』(文春文庫)
  • 角田房子『一死、大罪を謝す』(ちくま文庫)

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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