晩年の秀吉は本当に暴君だったのか? ルイス・フロイスの酷評の裏にある南蛮人と秀吉の確執
- 2024/10/25
同時代の宣教師ルイス・フロイスに至っては、秀吉を「暴君」とまで書き残しています。でも、フロイスが秀吉をそう評した裏側には、宣教師だからこその事情がありました。
フロイスに酷評された秀吉
ルイス・フロイスはポルトガルのキリスト教宣教師で、永禄6年(1563)に来日して慶長2年(1597)に長崎で没しています。日本史ファンにとっては、戦国時代を海外視点で分析できる貴重な史料『日本史』を書いた人物として有名ですね。 彼は信長や秀吉にも会見していて、信長については「優秀な司令官で国を治める賢明な人物」と評しているのに、秀吉については「恩知らず、野心家、横暴で残酷、比類なき女好き」とさんざんな評価を下しています。秀吉が天下人となってからは「暴君」を秀吉の代名詞として使っているほどです。
ただ、面白いのはフロイスは信長の部下だった頃の秀吉のことは「勇敢で策略に長けている」「優秀な騎士(ただし気品に欠ける)」と、プラス方向にも評価していることです。つまり、フロイスは秀吉が天下人となってから評価を上げるのではなく、極端に下げたのです。
その理由として、本当に秀吉の性格が天下人になってから変わったから、ということも考えられます。単なる信長の部下と天下の主とでは、考え方も周囲への接し方も変わります。それを尊大だととる人もいたでしょう。
けれど「暴君」とは、「人民を苦しめる暴虐な君主」という意味を持ちます。秀吉の治世下においてそのような苛政は行われていませんでした。太閣検地や刀狩、京枡の制定、通貨単位統一の構築など、江戸幕府にも受け継がれる業績を残し、近世日本の礎を築いたとまで言われているほどです。
外征においては朝鮮出兵という大きなマイナス点がありますが、国内においては良政を敷いていたと言っていいでしょう。ですが、フロイスにとっては秀吉は「暴君」でした。あるいは、暴君でなければならなかったのだと思います。なぜなら、秀吉はバテレン追放令を出していたからです。
「暴君」の意味をフロイスの立場から読み解く
天正15年(1587)6月に発令された秀吉のバテレン追放令は、主にキリスト教の布教を禁止する禁制書で、全部で五箇条から成っています。ものすごく簡単に意訳すると
- 1 日本は神に護られてる国なのにキリスト教なんて邪法をさずけるとは何事か。
- 2 キリスト教信者になった大名とその民が寺社を破壊するとは前代未聞。天下の法度に従わないとはどういうことか。
- 3 自由意志で信者にしてると思ったのに、他宗教弾圧は見過ごせない。キリスト教宣教師は今日から20日以内に帰ること。宣教師なのに宣教師じゃないと嘘をつかないこと。
- 4 南蛮貿易は商売をしに来てるだけだから許可する。
- 5 発布後は、仏法を妨げなければ、商人じゃなくてもキリスト教圏からの往来は許可する。
というものでした。
ちなみに、このバテレン追放令の前日には『天正十五年六月十八日付覚』という11箇条からなる文書が遺されていて、そこには日本人の奴隷貿易や牛馬の肉食など、禁止事項が増えている一方で、下の身分の者はキリスト教を自由に信仰してよいとか、大名でも秀吉の許可があれば信仰してよいなど詳しい条件なども書かれています。
宣教師も布教をしなければ日本での滞在を許されているので、わりと緩いような気もしますが、日本での布教を熱望して来日し、信仰を広げてきたフロイスにとっては到底受け入れられない内容だったのではないかと思います。
もともとフロイスによる人物評は、キリスト教に改宗したり、改宗まではいかなくとも、布教に協力した人物に対しては甘くなりがちで、その反対の立場の人に対しては厳しめでした。キリスト教の布教を禁止した秀吉の評価が地に落ちるのも当然と言えるでしょう。
現代であれば他宗教を尊重する考えも生まれたでしょうが、当時、宣教師にとってはキリスト教こそが唯一無二の教えであり、神道や仏教は悪魔崇拝する「邪教」と同じでした。仏像や寺社の破壊を問題視しないのも、それが正義と信じているからです。
「信じれば救われる」とは、聖書に書かれているキリストの教えです。一般的に宗教は民に救いをもたらすものとして信仰されますし、当時のキリスト教にも当然その考えはあったものと思われます。だとすると布教を禁止する秀吉は「(キリスト教により本来与えられるはずの)救いを民から奪う者」となり、それがフロイスの理屈では「暴君」になるのではないでしょうか。
文禄5年(1596)にはサン=フェリペ号が遭難したことに端を発し、最終的にキリスト教信者二十六人が処刑される「サン=フェリペ号事件」が起きています。キリスト教側から見れば、彼らは秀吉によって虐殺されたと映ったでしょう。
もしかしたらフロイスは天下人となって秀吉は残虐になった、あるいは隠していた残虐な気質を表したのだと、心から信じていたのかも知れません。
秀吉は朝鮮だけでなくフィリピンも狙っていた?
秀吉の晩年の愚行として語られがちな朝鮮出兵について、フロイスは、秀吉の子である鶴松が亡くなり、その死を悲しむあまりに思いついたものだと書いています。ただし、それだと時系列が少し合いません。鶴松が亡くなったのは天正19年(1591)8月。朝鮮出兵自体は天正20年(1592)4月に始まりますが、秀吉が外征への意欲を示したのはそれより前のこと。天正19年(1591)1月に唐(中国)への遠征準備を命じていますし、『日本西教史』には天正14年(1586)に唐入りのために、ポルトガルの大型軍艦を2隻欲しいと依頼したことが書かれています。(ただし断られています)
そもそも情報や兵站不足、制海権が不十分だったなどの問題点はあるものの、朝鮮出兵という発想自体はそれほど突飛なものでもありません。信長も「唐入り」は考えていたといいますし、秀吉が唐入りするための前段階として朝鮮出兵を考えたのは不思議ではないでしょう。
もちろん現代の価値観とモラルであれば侵略は悪いことではありますが、約500年前の戦国時代にそのような考えを持ち込むのはナンセンスというもの。
余談になりますが、秀吉の残虐性を示すものとして、三木城や鳥取城での兵糧攻めが例にあがる場合があります。しかし、これもまた現代の価値観による考えであって、当時は残虐と批判されるような戦法ではなかったことは留意すべきだろうと思います。
話を戻します。
秀吉の前には、アフリカや東南アジアなどを植民地化して利益を得ている南蛮人(スペイン・ポルトガル人)という実例がいるのです。彼らのように領土を広げて国を富ませることを秀吉が考えたとしても、その発想自体は当時としては責められるようなことではありません。
けれど同時に、南蛮人との交流の中で、奴隷にされているアフリカ人やアジア人を目の当たりにして、日本に対する侵略を警戒したことも想像できます。すでに日本人が何百人も奴隷として南蛮船に買い取られるという事例が起きており、『イエズス会日本報告集』には、バテレン追放令が出される前日に、秀吉が日本人奴隷について宣教師ガスパール・コエリョを詰問したという記録が残されています。
ただ、バテレン追放令では日本人奴隷については触れられていませんし(人身売買については別口で禁止令を出しています)、キリスト教は禁じても南蛮人との貿易自体は認めています。日本に対する侵略を警戒しながらも、南蛮人のもたらす技術や利益は無視できないという、秀吉のジレンマが感じられるようです。だからこその朝鮮出兵だったのではないでしょうか。
追放令を出せば南蛮人との関係が悪くなることは予想できたでしょうし、それによって南蛮貿易が縮小して利益が少なくなる可能性もあります。その代わりとして、もともと唐入りを意識していたこともあり、秀吉は朝鮮出兵の意志を固めたのかも知れません。領土を広げて自国の利益を拡大すれば、それはそのまま南蛮人に対抗できる力にもなります。
実は、秀吉が目を向けていたのは朝鮮だけではありませんでした。朝鮮出兵と同時期の天正20年(1592)5月、秀吉は、当時スペインの植民地だったフィリピンに対して降伏と朝貢を要求しています。
誇大妄想ととられることもあるこの発想ですが、征服欲と言うよりも経済圏拡大を狙っていた(それと、侵略に対する少々の威嚇)と考えると、しっくりくるような気がします。
南蛮人到来を秀吉視点で考えてみると……
戦国時代以前、日本にとっての世界はアジア周辺程度のことでした。大海の先にいくつかの島があったり、中国のさらに西に大陸は広がっているという知識はあっても、そこに住む人々が自分たちに関わってくるとは想像もしていなかったに違いありません。けれど、鉄砲伝来と宣教師の到来によって、日本人は「南蛮」という世界を知ります。南蛮人は布教と交易のために日本に来たと言いますが、彼らの植民地政策を知れば、日本側が侵略の危機を感じるのも当然のこと。けれど、遙か遠い国から日本まで到達できる技術力を見れば、国力の差は歴然としています。
秀吉は南蛮人たちの要望を叶え、貿易で利益も得つつ、日本侵略の芽は戦争にならないうちに摘むという難しい舵取りをしなければならなかったのかも知れません。
苦労して日本統一した直後に、今度は世界を相手に薄氷を踏むような外交政策を迫られたと考えると、秀吉には少し同情したくなってしまいますね。
【主な参考文献】
- ルイス・フロイス/松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』(中央公論社、2000年)
- 三浦小太郎『なぜ秀吉はバテレンを追放したのか 世界遺産「潜伏キリシタン」の真実』(ハート出版、2019年)
- 本郷和人『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(宝島社、2022年)
- 呉座勇一『戦国武将、虚像と実像』(角川書店、2022年)
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2024/10/31 15:19