紫式部の友人関係 親しかった宮仕えの同僚は?

『紫式部日記絵巻(模本)』に描かれた女房ら(出典:<a href="https://colbase.nich.go.jp">ColBase</a>)
『紫式部日記絵巻(模本)』に描かれた女房ら(出典:ColBase
 紫式部は人づき合いが得意な方ではありませんが、それでも何人か大切な友人がいました。はっきりした記録があるのは、一条天皇の中宮・藤原彰子(藤原道長の長女)の女房として宮仕えをしていた頃に限られますが、『紫式部日記』での回想や歌集『紫式部集』から若いころの交友関係も垣間見られます。紫式部の親しい友人にはどんな女性がいたのでしょうか。

「姉君」と慕う若き日の親友

 紫式部には「姉君」と慕う幼なじみがいました。

 紫式部は実の姉を亡くし、この女性は妹を亡くしたため、互いを「姉君」「中の君」と呼び合いました。「中の君」は次女のことで、ここでは妹を意味します。そう呼び合うようになったのは再会後のことで、その間に互いに姉妹を亡くしたようです。姉妹の代わりと思うほど強い絆で結ばれた親友です。

「雲隠れの月」百人一首の和歌

 2人は長徳元年(995)、数年ぶりに再会。紫式部は20歳前後か20代前半の頃です。歌集『紫式部集』巻頭でこの再会を歌っています。

〈めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に 雲隠れにし夜半(よは)の月かな〉

(久しぶりの再会でしたが、見たのは月だったかどうかも分からないうちに雲隠れする月のように、幼なじみのあなただったのかどうかも見分けられないうちに行ってしまい、つかの間の再会でしたね)

 この和歌は『新古今和歌集』に収録され、「百人一首」にも選ばれています。

遠距離文通と「姉君」の死

 2人は再会を喜び、少女時代のように交流しますが、その期間は短く、「姉君」は筑紫に移ります。夫、あるいは親族が受領(地方官)として筑紫に赴任したのでしょう。長徳2年(996)には父・藤原為時の越前守任官に伴い、紫式部も京を離れます。

 『紫式部集』に「姉君」への返歌があります。

〈西へ行く月のたよりにたまづさの 書き絶えめやは雲の通ひ路〉

(毎日、天空を西へと行く月に託して手紙を書きます。絶対に絶やさず、雲の中の月の通り路を使って届けます)

 紫式部は「姉君」と手紙を交換。越前と九州の遠距離文通です。しかし、「姉君」の手紙はいつしか跡絶え、その後、筑紫で亡くなったことを知らされます。紫式部は大事な親友を失いました。姉も早くに亡くしていますが、母に関する記述もないので幼くして亡くしているようです。

『源氏物語』誕生へ 同好の仲間

 長保3年(1001)4月、紫式部の夫・藤原宣孝が死去。幼少期から若いころにかけて母や姉、親友を相次いで亡くし、続けて夫との死別を経験し、紫式部は大きな喪失感、世のはかなさを感じたはずです。

夫との死別の悲しみを救う

 『紫式部日記』では夫と死別した頃を振り返っています。涙に暮れて日を送り、季節の移り変わりにも心が動かず、将来への心細さもあったと当時の心情を吐露。一方で物語について語り合える友人がいたことも回想しています。物語の世界に没頭することで大きな悲しみから心が救われ、『源氏物語』の創作へと踏み出します。

 『源氏物語』は仲間同士の趣味、小さな同人誌サークルのような環境から誕生し、紫式部の才能を開花させました。名の分かる人物はいませんが、『紫式部日記』では、物語について共感でき、隠し事なく話し合える仲間と手紙を交わしたことを回想しています。紫式部の作品を批評してくれる刺激的な同好の士だったのです。

 ただ、宮仕えを始めた後、紫式部は仲間との交際を遠慮し、疎遠になります。働かない階級の貴族の女性にとって、宮仕えの女房は世間ずれして慎みに欠けるという社会通念があり、紫式部は引け目に感じてしまったようです。

宮仕えの同僚 小少将の君、弁の内侍…

 紫式部は寛弘2年(1005)12月から、中宮・彰子に仕える女房として勤め始めます。しかし、女房たちの人間関係になじめず、年明けから5月の半年近くも出勤拒否。そんな中、紫式部が不安を訴えた同僚がいました。

「弁の内侍」出社拒否時に助け船

 『紫式部集』によると、3月にも女房仲間の弁のおもとから優しく出仕を促され、和歌をやり取りします。最初に紫式部が不安を訴えた同僚もこの女性かもしれません。

 弁のおもとは『紫式部日記』に登場する弁の内侍とみられます。

 弁の内侍は左大弁・源扶義の妻で、夫の死後、長保2年(1000)ごろから彰子に仕えています。宮中で強盗事件があった寛弘5年(1008)の大みそかも紫式部と一緒にいました。紫式部の局(つぼね)にやってきて話し込み、そのまま寝てしまい、事件があったときもすぐには起きず、紫式部にたたき起こされます。

 また、このとき、内匠の君(内匠の蔵人)という女房も一緒。局の一段下座で童女に縫物を教えていたところでした。叫び声に驚いた紫式部が様子を確認するため局の外に出るとき、無理やり先頭に立たせたのが内匠の君です。

 紫式部、内匠の君、弁の内侍の3人はぶるぶる震え、うろたえながら彰子のもとへ参上しました。

「宰相の君」寝起きドッキリ?!

 宰相の君も仲の良い同僚です。

 讃岐守・大江清通の妻。藤原道綱(藤原道長の同母兄)の娘で実名・豊子。彰子とは従姉妹(いとこ)の関係で、彰子が産んだ敦成親王(後一条天皇)の乳母となります。「宰相の君讃岐」とか「弁の宰相の君」とも呼ばれます。

 『紫式部日記』にはこんな場面があります。

 寛弘5年(1008)8月26日、紫式部が自分の局に戻る途中、宰相の君の局をのぞくと昼寝中でした。紫式部はそのかわいらしさに感動するあまり、局に侵入して寝ている宰相の君の袖を引きのけて声を掛けます。

式部:「物語の中の女君のような風情をしていらっしゃるわね」

宰相:「本当に驚くようななさりかた。寝ている人を思いやりもなく起こすなんて」

 何とも大胆な行動で友人を驚かせた紫式部の意外な一面です。

「小少将の君」ルームメイト

 同僚の中で第一の親友は小少将の君です。

 紫式部は「どことなく上品で優雅。容姿はかわいく、奥ゆかしいのですが、遠慮がちで、人づき合いを恥かしがるところは子供のよう。かよわくてどうしようもないところが気にかかります」と評しています。

 宮中では同室。隣り合った局の仕切りを取り払って一つの局のように使います。どちらかが自宅に帰っているときは一方がその局を自由に使い、2人とも宮中にいるときは几帳だけで仕切りました。そんな仲の良い2人を藤原道長がからかいます。

道長:「相手が知らない男が密会にやってきたら、どうするのだ」

式部:「互いに秘密で恋人を作るような水臭いことはないから安心です」

 『紫式部集』には小少将の君の死を悼む和歌がいくつもあります。時期や死因は不明。紫式部は無二の親友の死を深く悲しみ、哀悼しました。

「大納言の君」小少将の君の姉

 小少将の君には姉がいました。

 大納言の君、実名・源廉子。中宮・彰子の従姉妹(いとこ)で、姉妹と彰子は近い血縁ながら主従関係なのです。彰子の母は藤原道長の正妻・源倫子で、倫子の同母弟・源時通が姉妹の父です。時通は永延元年(987)に出家。姉妹は後ろ盾を失い、自立のため宮仕えを始めます。大納言の君は夫の足が遠のいたことも自立が必要だった理由のようです。また、大納言の君は道長の愛人でもありました。

 『紫式部日記』によると、顔立ちは上品で、物腰はしとやか。小柄でふくよか、見た目は背が高いとやや矛盾した説明もありますが、髪も身長よりも長く、端整とし、生え際や毛先の感じまで褒めています。紫式部は大納言の君、小少将の君とは和歌をやり取りしたり、行動を共にしたりしており、この姉妹とは気が合ったようです。

おわりに

 紫式部は無二の親友といえる小少将の君のほか、気心の知れた同僚は何人かいました。また、『紫式部日記』では若い女房たちの容姿を褒めることが多く、同性への関心はかなり高いようです。特に宰相の君へのいたずらは同性愛者なのかと、想像を飛躍させたくなります。

 一方、幼なじみの「姉君」は実名も人物像も不明。『源氏物語』誕生につながる同好の士は人数さえも不明ですが、大切な友人の存在が紫式部の人生に大きな影響を与えたことは確かです。


【主な参考文献】
  • 山本淳子『紫式部ひとり語り』(KADOKAWA、2020年)角川ソフィア文庫
  • 紫式部、山本淳子訳注『紫式部日記 現代語訳付き』(KADOKAWA、2010年)角川ソフィア文庫
  • 植田恭代『コレクション日本歌人選044紫式部』(笠間書院、2012年)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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