「一条朝の四納言」源俊賢、藤原公任、藤原斉信、藤原行成…道長を支えた勝ち組の貴族たち

藤原行成(左)と藤原公任(右)の絵(出典:いずれもwikipedia)
藤原行成(左)と藤原公任(右)の絵(出典:いずれもwikipedia)
 平安時代中期、藤原道長の政権を支えた実力者に源俊賢、藤原公任、藤原斉信、藤原行成がいます。この4人は一条天皇の在位期間(986~1011年)を中心に活躍し、最終的に大納言か権大納言に昇進。「一条朝の四納言」と呼ばれます。

 道長との関係は、もともとライバルだったり、仲の良い従兄弟だったりと違いがありますが、それぞれの経緯を経て道長の腹心に。四納言は道長の栄華の恩恵を受けた勝ち組貴族です。

「源俊賢」父・高明失脚からの復活 道長妻・明子の兄

 源俊賢(みなもとのとしかた、959~1027年)は左大臣・源高明の三男。藤原道長の7歳上で、四納言の中では年長者です。高明は安和2年(969)、安和の変で失脚。兄2人は出家しますが、11歳の俊賢は大宰府に左遷された父に同行しています。

大学寮出身の苦労人

 帰京後、源俊賢は大学寮で学びます。源高明は政界を引退した自分では十分な後ろ盾になれないので、本人の実力で貴族社会を生き残れるよう学問の機会を与えたようです。

 蔵人頭就任は正暦3年(992)、34歳。長徳元年(995)に参議、長和6年(1017)、権大納言に昇進します。天皇の秘書である蔵人頭としては有能で、有識書(儀式などのルールブック)『西宮記』の著者・源高明の子として有職故実に精通し、儀式の実務などに大きな役割を果たしました。参議に就任した頃から藤原道長側近としての姿勢が顕著になり、強力な支持者となっていきます。

 また、異母妹・源明子は道長の側室に。兄妹で道長を支えました。

※参考:四納言と藤原道長の略系図
※参考:四納言と藤原道長の略系図

道長への追従 実資が批判

 源俊賢は藤原道長の長女・彰子が一条天皇の女御として入内した長保元年(999)には、彰子入内の屏風和歌を公卿らに依頼して回ります。応じなかった藤原実資(さねすけ)を非難し、以前は俊賢の能力を評価していた実資も道長への追従ぶりにあきれます。

 実資の日記『小右記』で「貪欲で、謀略が噂される人物」と手厳しく批判されたこともある俊賢ですが、それだけに道長のための秘密交渉や根回しに関わっていたと推測できます。

「藤原公任」出世競争で道長の後塵 当代随一の歌人

 藤原公任(ふじわらのきんとう、966~1041年)は関白・藤原頼忠の長男。藤原道長とは同い年で再従兄弟(またいとこ)の関係。公任の祖父は藤原実頼で、その家系を小野宮流といい、道長の祖父は実頼の弟・藤原師輔で、その家系は九条流です。藤原北家主流の両派は近い親族ながら政界トップを競うライバルでした。

若き道長のライバル心

 藤原公任は漢詩、和歌、管絃などに文芸全般に才能を発揮。『和漢朗詠集』撰者であり、有識書『北山抄』、歌学書『新撰髄脳』などの著者です。その才能は若いときから目立っていて、『大鏡』には藤原兼家(藤原道長の父)が感嘆する場面があります。若き日の道長はライバル心をむき出しに。

兼家:「どうして、公任はいろいろな芸道にずば抜けているのだろう。うちの子供たちがあの男の影法師すら踏めそうもないのは実に残念だ」

道長:「あの男の影法師は踏みませんが、あの面を踏まないでおくものですか」

 実際、出世競争は道長がリード。寛和2年(986)~永延元年(987)の間に従五位下から従三位に昇進し、正四位下の公任を追い抜き、26歳で権大納言、30歳で右大臣と昇進します。

 公任は永延3年(989)、24歳で蔵人頭、正暦3年(992)、参議と進み、寛弘6年(1009)、44歳で権大納言に就任。道長に比べれば遅いペースですが、有能な政務家として活躍しました。

音楽、漢詩、和歌…「三舟の才」

 藤原公任の多才ぶりを象徴する逸話が『古事談』の「三舟の才」です。

 円融法皇が大堰川で遊興した際、管絃、漢詩、和歌の船が用意され、それぞれに得意な人物が乗ります。公任は3艘の船を乗り換え、音楽演奏、漢詩、和歌を次々と披露します。

 なお、『大鏡』では藤原道長の船遊びでの出来事になっていて、公任は見事な和歌を披露。しかし、後日、こんな感想を漏らします。

公任:「あのとき漢詩の船に乗ればよかったな。名声も一層上がっただろうに。それにしても、道長公に『どの船に乗るのか』と注目してもらい、われながら得意にならずにはいられなかったなぁ」

 満足すべき結果を出しながら、もっと良い選択肢があったかもと振り返る贅沢な悩み。後悔というより嫌味な自慢でもありますが……。

兼家邸前での失言

 藤原公任の姉・遵子は天元5年(982)、円融天皇の女御の中から中宮(皇后)に選ばれます。一方、藤原兼家の次女・詮子は第1皇子・懐仁親王(一条天皇)を産んだのに中宮になれず、ショックで実家に帰ってしまいます。

 兼家邸の門前を通った公任は馬を止めて邸内をのぞき込み、放言。

公任:「ここの女御はいつになったら皇后になるだろうか」

 姉・遵子が中宮となり、出世の望みが出て気を良くしていた公任ですが、その後、一条天皇が即位すると、生母の詮子は皇太后となり、立場は逆転。公任はある女房から皮肉を言われます。

女房:「皇子を産まなかったお后さまはどちらにいらっしゃいますか」

公任:「先年の失言を根に持たれたなぁ。あれは自分でもまずかったと後悔した。こんなひどいことを言われるのも、もっともだ」

 また、公任は寛弘5年(1008)、藤原道長邸で「若紫さんはいますか」と軽口をたたき、紫式部に無視されます。『源氏物語』を読んでいるというアピールに紫式部は内心喜びますが、名乗り出るのは厚かましいと思ったようです。

「藤原斉信」道長の従兄弟で親友 清少納言とも交流

 藤原斉信(ふじわらのただのぶ、967~1035年)は太政大臣・藤原為光の次男で、藤原道長より1歳下の従兄弟です。漢詩が得意で、道長の詩会の常連。道長とは公私とも馬が合ったようです。

 斉信は正暦5年(994)、28歳で蔵人頭、長徳2年(996)に参議、寛仁4年(1020)に大納言となります。

清少納言に言い寄る?

 藤原斉信は蔵人頭の頃、天皇の使いとして中宮・定子のもとへ行き、その女房・清少納言とも顔なじみでした。

斉信:「どうして、私と親しくしてくれないのか。それでも私を憎らしいと思っていないことは分かっているから実に不思議だ。今後(参議に昇進し)、常に殿上の間にいるわけではない。いったい何を思い出したらいいのだ」

少納言:「親しくなるのは難しくありませんが、そうなると、あなたを褒められないので残念なのです。天皇の御前で役目のようにあなたを褒めていたのに、どうして親しい仲になれましょうか」

 大っぴらに恋人を褒めるのは恥ずかしいとかわす清少納言。『枕草子』では、このやり取りを「いとおかし」と楽しんでいます。モテ自慢かも……。

出世競争に敗れた兄は憤死

 長保3年(1001)、藤原斉信は兄・誠信(さねのぶ)と参議で並んでいました。先に参議となった誠信は能力、人望に欠け、昇進が停滞したのです。

誠信:「今回、(欠員ができた)中納言の席を望むな。私が昇任を申請するから」

斉信:「どうして兄上より先に中納言になったりしますか。昇任申請などとんでもないことです」

 しかし、藤原道長は斉信の人柄、能力を買っていて、中納言への昇任を勧めます。

斉信:「兄上が昇任申請しています。どうして、私が……」

道長:「いや、誠信はとてもなれまい。そなたが辞退すれば、ほかの人が任じられるが」

斉信:「私が遠慮しても兄が昇任しないならば無駄なこと。どうか私を昇任させてください」

 こうして、斉信が中納言に。

誠信:「斉信め、昇任申請しないと言っておきながら……。斉信と道長にだまされた」

 誠信は絶食して7日後に死去。『大鏡』では、悔しさできつく握りしめた拳は指が手の甲を突き抜けていたというすさまじさでした。

何度も投石被害に遭う

 藤原斉信はよく投石被害に遭いました。

 長徳3年(997)4月、ともに参議だった斉信と藤原公任が乗る牛車が花山法皇の住む花山院の前で法皇の従者たちに投石されます。寛弘6年(1009)1月には、右大臣・藤原顕光邸門前で藤原頼通と共に乗っていた牛車が投石され、万寿4(1027)4月にも賀茂祭見物の外出で中納言・源師房邸門前で投石に遭います。師房邸には藤原道長の妻・源明子が住んでいました。

 この時代、大臣など相当高い身分の貴族の邸宅門前では牛車や馬から降りて通るという習慣があり、投石は素通りされ、面子を潰されたと憤慨した従者たちによる私的制裁です。とはいえ、いき過ぎた暴力行為。従者にこうした行為を禁止する貴族もいました。

 斉信の投石被害は高位の貴族を軽んじたのか、単に面倒臭かったのか、自身のマナー違反に原因の一端がありますが、やはり理不尽。権勢を誇る道長一派への反感の標的だったのかもしれません。

「藤原行成」三蹟の一人の書家 源俊賢の推挙で頭角

 藤原行成(ふじわらのゆきなり、972~1027年)は藤原義孝の長男です。祖父は摂政太政大臣・藤原伊尹で、義孝は藤原道長の従兄弟。行成は道長の6歳下で、血縁の近い親族の一人です。また、行成は当代随一の能書家で、三蹟の一人です。

 幼くして祖父、父を亡くし、母方の祖父・源保光の庇護を受けます。長徳元年(995)、保光も死去しますが、行成は蔵人頭に抜擢され、一条天皇の側近として仕えます。日記『権記』によると、道長の長女・彰子の入内や立后でも調整役を担いました。

蔵人頭推薦の恩義を忘れず

 藤原行成の蔵人頭昇進は前任者・源俊賢の推薦でした。『大鏡』によると、行成が昇殿を許されない地下人である点を懸念する一条天皇に対し、俊賢は「地下人だからと登用を遠慮されることはございません。この人物の能力を見極めなければ、天下のためにも良くありません」と強く推し、「自分こそ任じられるだろう」と思っていた多くの殿上人を驚かせます。

 『古事談』によると、行成がくすぶっていた頃、出家を思いとどまらせたのも俊賢です。

俊賢:「家に代々の宝物があるか」

行成:「宝剣があります」

俊賢:「すぐに売って、その金で祈禱をしなさい。私は君を蔵人頭に推薦しておく」

 行成の運気は開け、その後は順調に出世。俊賢の官位を抜いた時期もありますが、かつての恩義を忘れず、俊賢の上座に座ることはなかったといいます。

清少納言との和歌のやり取り

 藤原行成も清少納言との交流があり、「百人一首」にある清少納言の和歌は行成に贈ったものです。

〈夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ〉

(夜の明けぬうちに鶏の声まねで函谷関の関守をだますとしても、男女が逢う逢坂の関はだまされて許すようなことはしませんよ)
百人一首 62番より

 「話は夜通し尽きなかったが、鶏の声に急き立てられて帰りました」と、あたかも恋人のような手紙を贈ってきた行成に対し、「鶏? 孟嘗君でもあるまいし」と毒づく清少納言。『史記』にある孟嘗君の故事で、敵に追われながらも食客に鶏の鳴きまねをさせ、朝と勘違いした門番に函谷関の関門を開けさせたという話を引用した和歌。2人の教養の高さがあふれ出たやり取りです。

おわりに

 藤原実資は日記『小右記』で4人を「恪勤上達部(かんだちめ)」と書いています。上達部は三位以上と参議の高官で、「よく働く最上級貴族」という意味ですが、「高位高官の者が藤原道長の手下に成り下がって励んでいる」という揶揄です。

 道長が出家した寛仁3年(1019)に源俊賢は政界を引退し、万寿元年(1024)に藤原公任も引退。万寿4年(1027)には俊賢、道長、藤原行成が死去し、長元8年(1025)、藤原斉信も死去。4人とも正二位まで上がりながら、ついに大臣にはなれませんでした。それだけに知名度は高くありませんが、道長政権を動かした実力者たちです。


【主な参考文献】
  • 倉本一宏『公家源氏-王権を支えた名族』(中央公論新社、2019年)中公新書
  • 繁田信一『殴り合う貴族たち 平安朝裏源氏物語』(柏書房、2005年)
  • 保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫
  • 源顕頼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房、2021年)ちくま学芸文庫
  • 松尾聰、永井和子校注・訳『枕草子』(小学館、1997年)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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