「清少納言」ってどんな人? 平安時代の女流ベストセラー作家の人柄、時代背景や生涯を丸かじり!

清少納言を描いた浮世絵(『 古今名婦伝 』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
清少納言を描いた浮世絵(『 古今名婦伝 』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 「春はあけぼの。」で始まる『枕草子』。“をかし”の世界を書き表した平安時代の代表的な随筆の作者が清少納言。同時期の『源氏物語』の作者である紫式部と並んで、非常に有名な平安時代の女流ベストセラー作家です。

 しかし、『枕草子』は読んだことある(一部でも)けれど、清少納言という人はどんな人?と聞かれるといまいち良くわからない、という人は結構いるのではないでしょか? そこで今回は、

  • ① 清少納言の活躍した時代
  • ② 清少納言の人物像
  • ③ 清少納言の事績・人生

  • について紹介してきたいと思います。

清少納言が活躍した時代について

 先ずは、彼女が活躍した時代について確認しましょう。

清少納言が活躍した”摂関政治”の時代

 清少納言は平安時代中期に活躍した女性です。この平安時代中期というのは、藤原道長をはじめとして摂政・関白が天皇に代わって政治を取り仕切った、いわゆる ”摂関政治” が主流だった頃です。

 摂政・関白は、もっぱら天皇の外戚(妻側の親類)が任じられたため、摂政・関白になるためには “自分の娘を天皇の妻にして、生まれた子供を次の天皇にする” ことが絶対条件となっていました。

 その為に、天皇に嫁いだ娘は天皇に気に入られるため様々な教育を受ける必要があったわけです。

 そういった娘に仕え、教育する役の女性は”女房”と呼ばれました。ですから、できるだけ優秀な女房が必要とされた時代だったわけです。

※藤原摂関家の略系図。清少納言は藤原定子の”女房”として仕えた
※藤原摂関家の略系図。清少納言は藤原定子の”女房”として仕えた

多くの有名な女流作家が女房だった

 今回の主役である清少納言は、藤原摂関家を不動のものとしたとも言える藤原兼家の孫で、一条天皇の后となって中宮と呼ばれた藤原定子の女房です。

 また、紫式部は兼家五男である藤原道長の娘である彰子(定子同様、一条天皇の中宮となった)の女房です。彰子の女房には他にも『和泉式部日記』の著者で有名な歌人だった和泉式部、『栄花物語』の作者といわれる赤染衛門がいました。

 このように、この時代の有名な女流作家が軒並み女房だったのは、彼女たちが非常に優秀だったからですね。

数多くの女流作家を生んだ ”国風文化”

 甚平6年(894年)、遣唐大使に任ぜられた菅原道真は「請令諸公卿議定遣唐使進上状」を提出し、遣唐使派遣について再検討を求めます。そして、延喜7年(907年)に唐が滅亡し遣唐使は終了します。

※一般的には道真が再検討を求めて以降、遣唐使は派遣されずに終了するので、この894年が遣唐使廃止の年とされています(ハクシに戻す遣唐使、て覚えませんでしたか?)

 これによって、大陸文化の影響を受けることなく、日本的な思想や意識が表面にあらわれた日本独自の文化”国風文化”が花開きます。

 国風文化の大きな特徴は、日本的な感情が自由に表現できる表音文字である”ひらがな・カタカナ”が生み出されていったことでしょう。この新しく発明された文字は、恋愛や自然などに関する様々な情景や感情を女性ならではの感性で美しく表現することができました。

 優秀な女性たちはこれを上手く使って様々な文学作品を作ったのです。これが平安時代の中期に数多くの女流作家が生まれた背景でしょう。

清少納言の人物像

 次に、彼女の人物像について紹介していきましょう。

清少納言の“少納言”の謎

 当時の女性は、相当高貴な人でなければ実名は分かりません。通常は「○○の母」とか「△△の女(むすめ)」とよばれます。

 清少納言をはじめとする女流作家たちの呼び名は、父の官職などによって付けられています。

 例えば、

  • 紫式部・・・式部丞藤原為時の娘で、『源氏物語』の紫の上に因む
  • 和泉式部・・・式部丞大江雅致の娘で、夫が和泉守橘道貞
  • 赤染衛門・・・右衛門尉赤染時用の娘

といった具合です。

 では清少納言はというと、清原元輔の娘だから「清」はよし!しかし、元輔は肥後守で少納言ではありません。そこで彼女の夫の方を調べてみました。すると、彼女は3回の結婚歴があることがわかりました(なんとバツ2)。

 有名なのは最初の夫と3番目の夫でしょうか。

 最初の夫である橘則光は陸奥守で少納言ではありません。因みに、彼との間には越中守則長という一人息子がいますが彼も少納言ではありません。

 次に紹介するのは3番目の夫、藤原棟世。彼は摂津守で少納言ではありません。清少納言は定子が亡くなり宮仕えを終了した後は彼の所で暮らしたとされ、一般的には彼が“2人目の夫”と言われています。なお、彼との間には一人娘(小馬命婦)しかいません。

 そして最後に紹介するのが、非常に影の薄い?“真”2番目の夫である藤原信義。「お前、誰だ?」という声も聞こえてきそうですが、彼とは非常に短期間ですが婚姻関係にあったといわれてます。そして、この藤原信義の官職こそが「少納言」だったのです!

 なるほど、それで清少納言なんですね。

 彼女は正暦4年(993年)に定子の女房となったと言われています。ちょうどその時の夫が藤原信義だったのでしょう。

 因みに、彼女の名前はどういうわけか「せいしょう なごん」と呼ぶ人が多いですよね。本当は「せい しょうなごん」なのに…。これも謎ですね。

紫式部が語る清少納言

 紫式部は『紫式部日記』で清少納言のことを評しているのは有名な話です。

「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。」

(清少納言は、実に得意顔をして偉そうにしていた人です。あれほど利口ぶって漢字を書き散らしていますが、よく見れば、まだとても未熟な点がたくさんあります。このように、他人から抜き出ようとばかり考えている人は、かならず見劣りして、先行きは悪くなっていくことばかりですから、思わせぶりな振る舞いが身についてしまった人は、とてもつまらないときも、しみじみとしたおもむきにひたったり、美しきことを見過ごさないようにしているうちに、自然とその適切でない軽薄な振る舞いになるものです。そのように軽薄な人の行く末がどうして良いはずがありましょうか。)
『紫式部日記』より

 因みに、清少納言は紫式部について何も語っていませんが、これは当然のことです。

 清少納言は長保2年(1000年)に定子が亡くなって宮中を離れています。一方、紫式部は寛弘2年(1006年)ごろに彰子に仕え、宮中に来ています。つまり2人は直接面識が無かったハズなのですから…。

 しかし、紫式部は清少納言についてかなり辛辣なことをわざわざ日記に書くくらいですから、相当嫌いだったのか悪い評判を聞いたのでしょうか?

 この件について、

「清少納言より後に宮中に入った紫式部が、宮中でいまだ残る清少納言の良い評判(伝説?武勇伝?)に嫉妬した」

と私は解釈していますが、みなさんはどう思いますか?

清少納言と定子の教養の高さ

 清少納言の書いた『枕草子』を読むと、情報収集力の高さ(話のネタの多さ)と、繊細で豊かな表現力を持ち、それを短文でまとめる文章力があることを感じざるをえません。そして、主人の定子も教養の高い女性だったと思われます。

 ここで一つ、清少納言と定子のやり取りを紹介しましょう。

──
 雪がたいそう高く降り積もっているので、いつもと違い格子を下げて火鉢に火をおこし女房たちで話しながら集まっている時に、

「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ」と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせたまふ。

(「清少納言よ。香炉峰の雪はどんなであろうか」と定子がおっしゃるので、女官に御格子を上げさせて、御簾を高く巻き上げたところ、定子はお笑いになった。)
『枕草子』二八〇より

──

という話です。

 これは中国の詩人である白居易の『香炉峰下新ト山居草堂初成偶題東壁』という漢詩の内容をお互いが知っていることと、それを利用した定子の問いの意図を瞬時に理解し見事な回答(行動)をした清少納言の様子が書かれています。

 彼女の非常に高い才能が良く分かります。そして、定子も清少納言に負けないくらい教養の高い女性であったことが分かります。

現在に伝わる清少納言の人物像

 因みに、先ほどの話(清少納言と定子のやりとり)には続きがあります。

「さる事は知り、歌などにさへうたへど、思ひこそよらざりつれ。なほこの宮の人にはさべきなめり」と言ふ。

(「その詩句は知っており、歌などに詠むことはありますが、そのような行動をとるまでは思いつきませんでした。やはり、この定子にお仕えする人としてふさわしい人でしょう」と周りの女房たちは言う。)
『枕草子』二八〇より

 確かに周りの人たちは感心してそう言ったのでしょうが、「自分で書くなよ…」と思ってしまった私。これ以外にも、さりげなく?自慢話がいろいろ書かれています。だからこそ、清少納言は “博学で気が強く、自分の才能を人前で披露したがり” な性格の女性、という人物像が現在に伝わっているのでしょうか。

 だとしたら、そりゃあ紫式部にも嫌われるわ…。

清少納言の人生

 最後に彼女の人生について紹介しておきましょう。

父は和歌の名人

 清少納言の誕生年月、および没年月はハッキリしていません。また、両親については母は判明していませんが、父は清原元輔です。歴史好き、百人一首で遊んだことがある人なら知っていると思います。

 彼は村上天皇の命によって作られた和歌所の寄人“梨壺の五人”の一人で、『万葉集』の解読や『後撰和歌集』の編集に携わっています。また、藤原公任による『三十六歌仙』にも選ばれ、

ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは

という彼の歌は『小倉百人一首』にも選ばれる歌の名人でした。

 清少納言の文才は父親譲りだったのでしょうか。または、父親から英才教育を受けていたのかもしれません。しかし、生没年や母親の名前(○○の娘レベルも)不明ということは、そこまで裕福な家庭ではなかった(高貴な家柄は比較的しっかりとした系図が残るハズ)のかもしれませんね。

華の “定子の女房” 時代

 先述しましたが、清少納言は正暦4年(993年)ごろから長保4年(1000年)の定子が亡くなるまで、“定子の女房”として宮仕えをしています。彼女の代表作『枕草子』もこのころに書かれたものと言われています。

 『枕草子』は定子に仕えていた時の出来事や生活についての記述も多く、多少自慢話もありますが、非常に読んでいて楽しい内容となっています。

 一方で、宮仕えが終わったのちに詠んだとされる歌には、孤独を嘆く歌があり、宮仕えの時が彼女にとって華の時代で、自分の才能を存分に発揮できていたのでしょう。

晩年の清少納言

 実は晩年の清少納言については詳しいことが分かっていません。宮仕えが終わった後は夫である藤原棟世と摂津で暮らしたのでは・・・、程度しか分かっていないのです。

 しかし、宮中では評判の高かった清少納言ですから、全く記録が残っていないというわけではありません。
幾つか“逸話”のようなものは残っています。鎌倉初期に纏められた説話集の『古事談』は、天皇や貴族、僧の逸話を中心としており、その内容は正史では触れられない秘事が多いものです。ここに晩年の清少納言が登場していますのでご紹介いたします。

その1「零落したる清少納言、秀句の事」

 晩年、没落した清少納言は都の近くのあばら屋に住んでいたそうで、その前を通りかかった若い貴族たちが

「清少納言も落ちぶれたものよ」

と言った途端、さっと簾(すだれ)が巻き上がり、老いて “鬼形の如き” 女法師(清少納言)が顔を突き出し、

清少納言:「駿馬の骨を買わずや」

と言った、という話です。

 これは古代中国の燕王が良馬を求めるために骨まで買ったという中国の故事をふまえたもので、年老いた自分を “駿馬の骨” に例えたあたり、清少納言らしい賢さが出ている逸話です。

その2「清少納言ツビを出す事」

 兄の清原致信が藤原保昌の郎党(源頼親)に討たれた時、清少納言は剃髪した僧侶(尼)姿であったことから、男と間違えられて殺されそうになります。そこで、彼女は服の前をめくって女である証拠(陰部)を見せてかろうじて助かった、という話です。

 鬼形の如き風体ならば、もはや男か女かも分かりにくいですから、巻き添えになってもおかしくなかったでしょう。やり方はどうであれ、ここでも彼女の機転の速さがわかる逸話です。

 なお、タイトルにある “ツビ” とは女性器のことです。

おわりに

 いかがでしたでしょうか?

 清少納言は『枕草子』や『紫式部日記』から非常に華やかな平安貴族の女性というイメージが強く感じられます。一方で、逸話レベルになりますが『古事談』に登場する晩年の清少納言の没落ぶりには切なくなります。

 今回は、清少納言という女性について紹介しました。みなさんがイメージしていた清少納言と一致したでしょうか?少なくとも、“非常に賢かった女性”だったことは間違いなさそうですね。


<注>
  • ※原文の現代語訳に関し、直訳すると難しい表現箇所は筆者による意訳としています。
【主な参考文献】
  • 『枕草子』松尾聡、永井和子 校注・訳(小学館、1997年)
  • 『紫式部日記』中野幸一 校注・訳(小学館、1994年)
  • 『新 もういちど読む山川日本史』五味文彦、鳥海靖 編(山川出版社、2017年)
  • 『日本史こぼれ話 古代・中世』笠原一男、児玉幸多 編(山川出版社、1993年)
  • 『続 日本史こぼれ話 古代・中世』笠原一男、児玉幸多 編(山川出版社、1999年)
  • 『不思議日本史』南條範夫 監修(主婦と生活社、1988年)
  • 『誰も書かなかった日本史』早川純夫 著(日本文芸社、1988年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
まつおか はに さん
はにわといっしょにどこまでも。 週末ゆるゆるロードバイク乗り。静岡県西部を中心に出没。 これまでに神社と城はそれぞれ300箇所、古墳は500箇所以上を巡っています。 漫画、アニメ、ドラマの聖地巡礼も好きです。

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