生涯で50回以上の戦に明け暮れ、「鬼島津」との異名をとった島津義弘。彼は一流の教養を身に付け、さらに家臣からも絶大な信頼を集めるという名君中の名君でもありました。そんな規格外の猛将、義弘の生涯とはいったいどのようなものだったのでしょうか。
義弘は天文4(1535)年に島津家15代当主・貴久の次男として誕生しました。2歳上の兄・義久と2歳下の歳久、9歳下の家久を弟に持ち、世に名高い島津四兄弟の一人として知られています。
幼少期の義弘は兄義久とともに祖父の忠良の邸宅をしばしば訪れ、中国の兵術書「六韜、三略、孫呉」から用兵、国家経営、人生問題などを学びました。これも島津家の帝王教育の一環だったのでしょう。
そんなある日、義弘は攻撃戦で一番重要な任務について忠良に尋ねました。すると忠良は「たとえ場所により先に敗れても、後の締めくくりが肝要である」と返答。
この時の祖父の教えは、後に義弘の戦場でのふるまいに大きな影響を与えます。
天文23(1554)年岩剣城の戦いで初陣を飾った義弘。父・貴久や兄・義久らが城へ総攻撃をかけている間、敵の救援に駆けつけた2千の兵を迎え撃っています。
戦場で大暴れして敵を撃破した義弘は、この合戦の一番の功労者として岩剣城の城将を命じられました。この戦を皮切りに、義弘は自ら先頭に立って軍を率いる武将として、島津家をけん引していきます。
永禄3(1560)年頃、日向の伊東氏からの攻撃に苦しむ飫肥城の島津忠親は、対抗手段として義弘を養子にしたいと申し出てきました。
義弘は「夏虫が火に入るようなものだが、義を重んじ、難に赴くのが武将の常である」としてこれを受け入れ、3年間、飫肥城を守って戦いました。
その後、伊東氏の攻撃が止んだのを見計らって薩摩に帰国した義弘でしたが、再び攻撃が激化したと聞いて、すぐに出立の準備を始めました。父や兄は必死にとどめようとしましたが、「一旦父子の約を結び、今その危機を知って行かないのは不義であり、人道に背く」と忠親の元へ急行して伊東の兵を退けました。
しかし、今度は義弘不在の薩摩が敵に攻め込まれてしまいます。薩摩からは再三にわたって帰国要請が届きましたが、「今、防御を緩めることはできない」と頑として従いません。しかし、義理の父・忠親が涙を流して帰国を促したため、遂に折れて父の元へ帰りました。
その後も伊東氏との戦いは続きます。
元亀2(1571)年に父・貴久が死亡すると、これにつけこんだ伊藤義祐と相良義陽が手を組んで、島津打倒ののろしを上げました。
伊東軍3000に対して、義弘の率いる将兵は300。兵力差では圧倒的に不利な状況に置かれた義弘は、ぬかりなく戦の準備にあたります。女間者や盲僧、農民たちまで使って情報戦を制し、仕上げに島津家の得意戦法「釣り野伏」を仕掛けるため伏兵を潜ませます。
いよいよ伊東の兵が近づくと「戦の勝敗は数ではない。全員一丸となって勇気を奮って戦えば必ず勝てる。この義弘に命を預けよ!」と兵を激励すると、10時間にも及ぶ激戦の末、伊東の大軍を討ち滅ぼしたのです。
この戦の後、義弘は六地蔵塔を建てて敵味方の区別なく戦死者を供養しています。そんな義弘の姿は家臣だけでなく、領民からの衆望を集めました。
天正6(1578)年、豊後の大友宗麟と島津が激突しましたが、義弘は兄・義久に「家運を開くを得たるは卿一人の努力による」と言わしめるほどの働きをして、大友軍に壊滅的な被害を与えました。
これによって薩摩、大隅、日向3国を得た島津氏は、九州統一まであと一歩と言うところまで来ていました。ところが宗麟は天下統一を目指す豊臣秀吉について、島津に抵抗を続けます。
秀吉は両軍に停戦を求めましたが、義久や義弘は徹底抗戦の姿勢を崩しませんでした。
すると、秀吉が天正15(1587)年に20万の軍を率いて豊後に上陸。
義弘は奮闘を重ねましたが日向根城の戦いで敗退。以降は秀吉に従いました。
秀吉の元に降ってからの義弘は、祖父の「先に敗れても、後の締めくくりが肝要」の言葉を示現するような戦い方をしています。
そのなかでも特に有名なものが、慶長の役における「泗川の戦い」と関ケ原の「島津の退き口」でしょう。いずれも戦国島津家の底力を見せつけるような戦いです。
秀吉による2度目の朝鮮出兵、慶長の役に63歳で従った義弘でしたが、秀吉が死亡するとその遺言に従って日本からの兵は朝鮮から引き上げることになりました。
朝鮮での最後にして最大の戦いとなった泗川城の攻防において、義弘をはじめとする島津軍は攻め寄せてきた20万の大軍と戦い、これを撃破して潰走させました。
明の軍は義弘率いる島津軍を「鬼石曼子(おにしまず)」と呼んで恐怖したといわれています。
戦場では鬼と呼ばれた義弘ですが、帰国後に朝鮮役戦没者供養碑を高野山に立てて、敵味方の区別なく供養する慈悲深い一面もありました。
秀吉の死後、徳川家康と豊臣の石田三成で政権争いが起こり、慶長5(1600)年に関ケ原の戦いが起こります。義弘は西軍の石田方に着きましたが、西軍が敗れると兵の少ない島津隊は敵からの標的となって苦戦に陥りました。
義弘は「家康の陣が近いから、突入攻撃して潔く死にたい」と漏らします。しかし、甥の島津豊久をはじめ重臣らが「義弘様が死んでは島津宗家の存立が危ない。なんとか突破して薩摩へ帰りましょう」と涙ながらに説得したため、義弘も覚悟を新たにしました。
かくして島津隊は全員が心ひとつに、絶望的な脱出作戦を決行することとなったのです。
島津には「繰り抜きの陣法」と呼ばれる伝統戦法がありました。これは一隊を挙げて敵陣に突入し、速度を落とさず一気に突破する高リスク・高リターンな作戦です。これに併せて「捨てがまり」という玉砕を前提とした戦術で命を懸けて義弘を守る作戦に出ました。
激戦に次ぐ激戦で、義弘の身代わりとなった甥の豊久や阿多盛淳らが次々と壮絶な最期を遂げましたが、ついに史上例を見ない退却劇を成し遂げたのです。
しかも、島津軍は退却のさなかに東軍の精鋭である井伊直政や松平忠吉、本田忠勝らを負傷させており、とても敗戦の将とは思えないほどの苛烈な印象を敵味方に残したのでした。
関ケ原の「捨てがまり」で分かるように、義弘の家臣たちは、いざという時には進んで命をささげ、徹底的に義弘を守り抜いています。さらには家臣だけではなく、領民も義弘を慕い、何かあれば島津への協力を惜しみませんでした。
名君の証なのか、家臣・領民たちの絆を示すエピソードには事欠かないのが義弘。いくつか紹介します。
義弘は初お目見えで家臣の子息を紹介されると、「お前は父に血ているのでそれに劣らぬ働きをするだろう」と声をかけ、手柄のなかった者には「お前は父に優るようだから、手柄を立てるだろう」と励ました。
朝鮮出兵中、日本軍の兵には凍死者が続出したが、島津軍だけは凍死者が出なかった。義弘は身分に関係なく、屋内の囲炉裏で暖を取らせ、共にかゆをすすり、起臥を共に寒さをしのいでいた。島津軍の結束の強さに、様子を見に来た加藤清正も感心したとか。
朝鮮からの帰国の折に朝鮮水軍と激戦となり、従士の木脇祐秀が負傷して海中に落ちた。義弘は自らの膝を枕に介抱したため、蘇生した。彼はこの恩を一生忘れず、後に殉死した。
関ヶ原の戦いでは、義弘は当初200余りの兵しか持たなかった。国元へ派兵を要請したが、戦の後始末があり、義弘へ兵を送ることができなかった。すると「惟新様(義弘)が難儀しておられる」と、九州の南端から関ケ原までの長距離を兵の志願者が走りに走って参陣してきた。合戦当日まで志願者が絶えなかったが、義弘は一人一人に慰労の言葉をかけてねぎらった。
関ケ原からの敗走の途中、従士が飯餅を求めてきて義弘に献じた。義弘はこれをいくつにも分け、自分は一片も食べずに部下に分け与えた。「自分は鎧の中に少し乾飯があるので心配するな。それよりお前たちの方が大事だ。もし、お前たちが倒れるようなことがあったら、自分の困難はどうなることか、一口でも食べてくれよ」と食べさせた。従者たちは感激して、ますます奮起した。
このような主従の強い信頼関係こそが島津の強さの秘訣だったのかもしれません。義弘が分け隔てない心で家臣や民を大切にしていたからこそ、それに応えるものも多かったのでしょう。
関ケ原から帰還した義弘は、まず兄・義久に敗戦を詫びると、家康への恭順を示すために桜島に蟄居しました。徳川との和睦交渉は義久が担当していますが、家康は義弘を許しただけでなく、領国も認めたのです。これは異例中の異例の措置でした。
さらに、義弘の子・忠恒が島津家の当主を継ぐことが決定。義弘は当主としての心得を息子に説きました。
「島津家は代々仏心を崇め、先祖を敬い、武略を怠らず、文教に努めて栄えた。唐家を継ぐ者はこの伝統を遵守せよ」
また、「京ことばを使い、他国のまねをするようになったら島津は滅びる」とも言っています。義久が祖父・忠良より影響を受けた島津のあり様を、今度は我が子に薫陶を授けたのです。
慶長12(1608)年頃に加治木に移った義弘は、戦没者の供養を営む日々を過ごしました。しかし元和4(1618)年ごろから体調を崩し、食事もとれないような状態になっていきました。
それでも側近の者が鬨の声をあげて、「敵へお懸かりなさるべし」と叫ぶと、くわっと目を見開いて目の前の食事を平らげたと言います。老いても猛将としての気迫・心意気は少しも衰えないのでした。
元和5(1619)年7月、義弘は85歳にしてその生涯を閉じました。
義弘の死去のにあたっては13人の家臣が後を慕って殉死しています。
桁違いの求心力で家臣たちをまとめ、数々の危機を乗り越えてきた義弘は、島津の武勇を世にとどろかせた立役者でもありました。
しかも、ただ勇猛なだけではなく、情にもあつく領民に慕われ続けた義弘。その生涯は、戦国の世における理想的な武将像を体現していたかのように感じられます。
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