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石田三成の名言・逸話35選

  • 豊臣秀吉
 2017/11/24
長浜駅にある、秀吉公と三成公出逢いの像
長浜駅にある、秀吉公と三成公出逢いの像

皆さんは、戦国時代における「悪役」といえば誰を思い浮かべるでしょう。人によって抱いているイメージや、これまでに鑑賞してきた創作作品の内容によっても答えは大きく変わりそうですが、江戸時代の「悪役」といえば「石田三成」でした。

彼は「能力はあったが、傲慢かつ尊大な人物」であり「無謀な挑戦で関が原を引き起こし、豊臣家を滅亡させた戦犯」と語られたのです。

本記事では、上記のような「三成イメージ」を形成するに至った彼の逸話や名言をできる限り多く挙げていきます。

ただし、彼の人物伝で語っているように、「悪役」的な三成像は近年の研究で否定されつつあります。したがって、以下で述べる内容は必ずしも史実ではないことをご承知ください。

出生から秀吉の家臣として頭角を現すまで

名前の読みは「カズシゲ」?

三成の名前は『ミツナリ』と読むのが定説とされるが、史料によっては『カズシゲ』と断定しているものもある(『甲子夜話』)

人の話を聞かない性格だった

「三成は志を貫かなければ止まらない質で、容易に人の話を聞かない。自らを信じるところの強い人物であった」(『北山遺書記』)

世に名高い「三成茶」の逸話

近江国のある寺院に立ち寄った秀吉は、鷹狩りの疲れを癒すために茶を求めた。そこで彼のもてなしを担当したのが幼き日の三成。彼は最初に大ぶりの茶碗にぬるめの茶を入れて差し出すと、秀吉はそれを一気に飲み干した。

次に差し出したのは、やや小さめの茶碗とややぬるめの茶。そして最後に用意したのが一番小さい茶碗と一番熱い茶であり、秀吉は喉の渇きをいやしつつ、熱い茶を楽しませようとする心意気に感動し、彼を家臣とした(『武将感状記』)

秀吉たっての願いで近侍になった

秀吉が三成の預けられていた寺に参詣したところ、彼の容姿や立ち振る舞いが他に優れているのを見て、住職に請うて自身の近侍とした(『志士清談』)

秀吉の人間性に惚れて仕官した

秀吉が播磨国姫路に在陣していた頃、秀吉の人間性にほれ込んだ三成は自ら彼に申し出て仕官した(『霊牌日鑑』)

賤ケ岳の戦いでは武将としても活動

賤ケ岳の戦いにおいて、三成は『先懸之衆』として最前線で奮闘し、この集団は戦功を挙げた(『一柳家記』)

豊臣政権の中心人物となってから秀吉が死ぬまで

大谷吉継の病気を避けずに茶を飲んだ

秀吉が開いた茶会で、らい病(ハンセン病)を患っていた大谷吉継が飲むふりをした茶には、彼の顔から落ちた膿が入ってしまった。これを見た参加者たちは茶を飲みたがらず次々と飲むふりをしてごまかしたが、三成だけはためらわず茶を飲みほした。結果としてこの二人は終生の友になったという(出典不明)

超高禄で島左近をスカウト

三成が水口城主として4万石へ加増された際の話。秀吉が「加増分で家臣を何人増やしたのか」と問いかけると、彼は「一人だけです」と返した。加増分に対して人数が少ないことを不審がった秀吉が「いったい、誰を家臣にしたのか」と聞いたところ、「島左近です」と答えた。

当時すでに名士として名を馳せていた左近をスカウトしたことに秀吉が驚いていると、三成は「私の領地4万石のうち、1万5千石を与えて召し抱えました」とその理由を告げた。秀吉は「そうでもしなければ左近ほどの者をお前が抱えられるはずはあるまい」と答えたという。(『常山紀談』)

禄の半分を分ける

三成が四万石の水口城主になった翌年にあたる天正14年(1586年)、半分の二万石を島左近に与えて家臣としたという。この後、三成が佐和山城を賜って18万石となったときに左近に加増しようとしたが「もう禄は十分だから他の者に差し上げられよ」と断られたという。(『常山紀談』)

三成に過ぎたるもの

近江で「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謡われたという。(『常山紀談』)

実は友人が多かった三成

三成が親しくしていた武将はかなり多く、小西行長・寺田広高・真田信幸・大谷吉継・斎村政広・直江兼続などと密な関係を築いていたことが確認できる。(「三成発給の各種書状」)

季節外れの桃にはノーサイン

毛利輝元から桃が送られてきたが、時期的にはやや季節外れの品であった。三成は「確かに立派な桃だが、季節外れの桃を殿(秀吉)が食べて何かあっては困る。毛利家としても評判に関わるだろうし、季節の品を送ってください」と返答した。(『翁物語』)

世間の大名も三成には頭が上がらず?

ある日、三成は毛利輝元の家臣が所有する脇差を所望した。輝元にその斡旋を依頼した際、三成は「その脇差については秀次公(秀吉の後継者候補筆頭で、三成にとっては上司)の耳にも入っているので、彼が欲しいと言い出す前に急いで取り次いでください」と言い放ったが、輝元は淡々とこれに従った。(『萩藩閥閲録』)

奉公人としての心構え

「奉公人は主君より受け取ったものを使いすぎるのもよくないし、かといって手元に残すのももっての外だ。使いすぎて借金をしなければならないのは愚かだし、手元に残すのは盗人と同じ」(『老人雑話』)

禄よりも葦への課税

戦の功として秀吉が三成に禄を与えようとした際、三成は「禄よりも、淀川の河原にある葦に課税させてください。そうすれば、必ずや1万石分の軍役を果たします」と返答。秀吉がこれを許可すると、三成は見事にこの言葉を実行して華麗な軍装で秀吉の元へ駆けつけたという。(『名将言行録』)

大雨のため土嚢ではなく米倉を堤防代わりに

大雨のため淀川の堤防が決壊しかかったとき、三成は従来補強に使用される土嚢ではなく大坂城に備蓄されていた米俵を積ませた。雨が上がったのちは、米俵を土嚢に戻す作業をした百姓たちに報酬としてその米俵をそのまま与えたため、工事が素早く終わったという。(『翁物語』)

忍城攻めで堤防の築き方を失敗

小田原征伐に際し、三成には忍城攻略の命が下された。彼はこの城を水攻めにて落とそうと堤防を築き上げたが、大雨によって堤防は決壊してしまい、残念ながら作戦は失敗に終わった。(『関八州古戦録』)

嘘を秀吉に吹き込んで武将たちの失脚を狙った

朝鮮出兵のさなか、三成は加藤清正黒田長政、浅野幸長らと不和になり、彼らに対してはときどき嘘偽りの主張をして秀吉に訴え、人を欺き陥れるところがあった。(『武家時紀』)

黒田官兵衛に尊大な態度を取った

朝鮮からの撤兵が開始したさなか、三成を含む三奉行が拠点にいた黒田官兵衛に対面を申し出た。当時官兵衛は囲碁の最中であったこと、かねてから三成を疎んじていたこともあり、囲碁を打ち終えてから彼らとの対面を受けた。

三奉行は待たされたことに激怒。対面をすることなく引き返してしまい、官兵衛が使者を送っても戻ってくることはなかった。三奉行はこれを恨み、周囲の人々へ「官兵衛は我々の訪問に気づかなかった無礼者」と言いふらした挙句、これを秀吉に訴えた。官兵衛は失脚目前まで追い込まれたという。(『黒田家譜』)

秀吉の死から三成の最期まで

家康に媚びるなどもってのほか

浅野長政が、三成に対し「家康公が登城してくるから、頭の頭巾を外して丁寧に接しろ」と言った。当時大坂城内で暖をとっていた三成は、一向にその指示を聞こうとしない。最終的に、長政は怒って三成の頭巾をとって火中に投げたという。(『寛元聞書』)

家康には礼も言わない

三成と家康がともに大仏の普請(工事)を視察した際、たまたま三成が手に持っていた杖を落とした。家康はすぐにこれを拾って三成に渡したが、彼は礼の一つも言わずに黙って杖を受け取った(『淡海落穂集』)

増田長盛と結託して五大老に不和を持ち込もうとした

秀吉の死後、社会は大きな動揺に包まれていた。そんなさなか、三成と増田長盛は「五大老が結束すれば我々の脅威になる」として、三成は前田利家に、長盛は徳川家康に取り入り、あることないことを吹き込んで不和を起こそうとした。(『武徳大成記』)

個人的な恨みが先行して関が原を引き起こした

秀吉の正室・高台院が、関が原で西軍に味方すると表明していた小早川秀秋に心のうちを尋ねた。

秀秋は「本心から三成に同意しているわけではなく、いま手切れをしてしまうと大事になりますので、表面上従っているだけです」と答え、高台院は「三成はかねてからの個人的な遺恨だけで天下を覆そうとしています。なんとも愚かとしか言いようがなく、あなたが心から三成に従わないのも最もです」と答えた。(『武家事紀』)

三成は島左近や宇喜多秀家の献策を用いなかった

関が原に際して、三成は配下の島左近や宇喜多秀家から献策を受けた。しかしながら三成はこれを実際に用いることはなく、結果として戦いに敗れた。(『常山紀談』)

宇喜多秀家の献策を退ける

関ヶ原の戦いのとき、家康が岡山に着陣した様子をみた宇喜多秀家が夜討ちの意見をしたが、三成は「このような大軍での夜戦は不利だ」といって退けた。秀家は後々までこれを悔やんだという。(『常山紀談』)

敗戦後は各地に匿われたが、最終的に自首した

敗戦後の三成は一人逃走を続け、彼の旧領にあった三珠院という寺社に身を寄せた。しかし、彼をかくまっているという噂が村中に広まってしまい、寺にはいられなくなった。

その時、たまたまかつて三成に世話になっていた土地に住む百姓の与次郎太夫が、彼を近所の山中に住まわせ、食事を運んだ。しかし、与次郎の上司にあたる名主に三成をかくまっていることがバレてしまい、彼を差し出すよう命令された。

当時三成は逃亡中に体調を崩し、下痢を起こして起き上がれないほどであったが、「もはやこれまで」と与次郎の行いに感謝し、自ら所在を徳川方に伝えた。(『常山紀談』)

田中吉政と再会、名物の脇差を与える

村から連絡を受けて三成を捕らえたのは田中吉政という人物であったが、幼い頃より三成と親しい人物であった。そのため、処刑を待つまでの間三成を厚くもてなし、三成も好意を受け入れて薬を飲んで病を治すと、二人は昔のように打ち解けて話したという。

吉政は「戦の勝敗は天運に左右されるところもある」と三成を慰めると、「秀頼公のために持てる力を尽くしたが、天に見放されてこうなってしまった。ただ、何かを恨む気持ちは全くない」と答え、先ほど触れた脇差を吉政に託した。(『常山紀談』)

田中吉政の好意を受け入れる

田中吉政は、三成に饗応役をつけて手厚くもてなしたが、三成は最初は食事に手をつけなかった。
しかし、饗応役から吉政の好意を説かれると、三成は素直に受け入れて韮雑炊を求め、これを快く食べて横たわり、高イビキをかいて寝たという。(『名将言行録』)

本陣に到着した三成を見て、各武将は様々な反応をした

徳川本陣に連れられてきた三成を見て、福島正則は「無益な乱を起こして、そんな有様になっているとは」と大声で叱責した。三成は「武運がなかったばっかりにあなたを生け捕りにできなかったのは残念」と、毅然と言い放ったという。

三成は裏切った小早川秀秋に会うと、「もともと二心を持っているのは知っていたが、太閤の恩を裏切るなど武将として恥ずかしくないのか」と強い言葉をかけ、彼は赤面して場を去った。

一方、黒田長政は、薄汚れた三成の姿を見て「このようなことは不本意であろう」と、馬上を降りて陣羽織を脱ぎ、三成に与えたという。(『武功雑記』)

家康と対面

家康は大津で三成を引見した後、「三成はさすがに大将の道を知るものだ。平宗盛などとは大いに異なる」と言ったという。(『常山紀談』)

本多正純に激怒

家康と対面した後、三成は本多正純に預けられて、挙兵したことや敗戦しても自害しないことを非難された。これに三成は激怒し、武略を知らない正純をののしり、その後は一切口を聞かなかったという。(『名将言行録』ほか)

上様とは誰なのか?

処刑前の三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人に、家康が小袖を与えた際に他の二人は受け取ったが、三成は「この小袖は誰からのものか」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様に成ったのか」と言って受け取らなかったという(『常山紀談』・『武功雑記』)。

処刑直前であっても、柿を口にすることはなかった

三成の処刑が決まり刑場に引かれていくさなか。彼は「のどが渇いた」として湯を所望したが、あいにく警備の人間には湯が用意できなかった。しかし、彼は渋柿を持ち合わせていたので、「これを食べるように」と差し出した。

しかし、三成は「柿には毒が入っているかもしれないから、食べることはできない」と反論。警備の者は「処刑目前なのに、毒を怖がるとは」と笑ったが、三成は「あなたたちがそう感じるのはもっともであるが、私のように大義を抱くものは、最期の瞬間まで命を大切にするものです。それは、何とかして願いをかなえたいという強い思いがあるからです」と答えたという。(『茗話記』)

関ケ原の首謀者として蔑まれた

「三成は罪もなき内府殿(家康)を滅亡させようと天下を乱したが、その天罰に遭ってしまいには捕えられ、処刑された。悪事を重ねてきたのだから、この最期も当然のものである」(『黒田家譜』)

優れた茶器を所有しており、彼の死後家康が探し求めた

三成は中国渡来の優れた肩衝茶入(肩の部分が角ばっている茶入)を所有していた。家康との戦を目前に控えた頃、この茶入れをプレゼントした宗庵という僧が陣中見舞いに来た。

彼は大いに喜び、この茶入れを宗庵に渡してこう述べた。「自分が討ち死にしてこの茶器が失われるのは惜しい。自分が勝てばこれを買い戻すだろうが、負ければこれで茶をたてて仏道に励んでほしい」

結果として三成は敗死したため、宗庵とこの茶器は姿を消した。しかし、噂を聞きつけた家康が黒田長政に命じてこれを探させたところ、宗庵も観念して茶器を長政に渡したという。(『武辺雑話』)


【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 中野等『石田三成伝』(吉川弘文館、2017年)
  • 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館、1961年)


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