足利義輝が ”剣豪将軍” というのはウソ? 本当は剣術よりも馬が好きだった

 「剣豪将軍」のイメージが強い室町幕府13代将軍の足利義輝。しかし、当時の史料を見ると、義輝が宮本武蔵や佐々木小次郎のような「剣豪」として活動をした記録は見当たりません。武家の棟梁である征夷大将軍ですので、武術の嗜みはあったと思いますが、これは歴代の将軍にもいえることでしょう。

 むしろ当時の史料をみると、義輝はなんと ”馬が好きだった” といわれるようになりました。そこで今回は義輝の剣豪イメージと、馬好きについて取り上げたいと思います。

実は剣豪ではなかった義輝

 義輝の剣豪将軍のイメージは「永禄の変」における奮闘ぶりをもとに作られたとみられています。永禄の変とは、永禄8年(1565)に義輝が三好三人衆の軍勢に突然攻められ、殺害された事件です。戦国時代とはいえ、時の将軍が襲撃、殺害されるのは異例のことでした。

 三好三人衆の襲撃を受け、死を覚悟した義輝の最後の抵抗は大変激しいものであったと伝わっています。義輝は近くに剣を何本も立て、剣が使えなくなるとすぐに次の剣を引き抜いてこれを使い、三好の兵を切り伏せました。しかし多勢に無勢のため、最後は三好兵に討ち取られ、壮絶な最期を遂げました。

 このエピソードから義輝が武勇に優れていたことはわかるかと思いますが、これをもって義輝を「剣豪」と呼べるのでしょうか?

 将軍が武術の嗜むのは当然のことで、これは歴代将軍にも同様のことがいえます。しかし足利尊氏や義満などが剣豪と呼ばれることはありません。また、当時は太平の時代ではなく、戦国乱世の時代でした。どの武士も武術の鍛錬をしていたのは言うまでもありませんが、織田信長や上杉謙信、武田信玄などの戦国大名が「剣豪」と考えられることもないでしょう。

 なお、江戸時代の柳生宗矩の書状に、義輝が戦国時代の剣豪塚原卜伝の弟子であったとする記述があります。しかし義輝が亡くなってから、かなり月日が経過した時代の史料であるため、信憑性には疑問がもたれています。

 こうしたことから、義輝は剣豪ではなかったと思われます。

武衛御所(義輝二条城)の造営と厩

 義輝は三好氏との対立によって、京都を離れることが度々ありました。永禄元年(1558)、三好氏との和睦が成立し、ようやく京都に戻れた義輝は妙覚寺を自身の仮御所とすると、翌年には新たに将軍御所を造営することを決めました。

 新しい御所は、かつて管領を務めることが多かった斯波氏の邸宅跡地に造営。斯波氏の呼称が「武衛」(斯波氏の官途左衛門佐の唐名)であったため、新たな将軍御所は「武衛御所」と呼ばれました。

 武衛御所には杉・松・ミカンなどが植えられ、ユリ・薔薇・ヒナギクなど多くの花が栽培されていたそうです。公家の山科言継(やましな ときつぐ)は武衛御所を訪問した際、庭で菊を鑑賞し、その菊の見事さに驚いたといわれています。

 また、御所内には壮麗な庭園があったとする記録も残っています。かつて3代将軍義満が造営した「花の御所」を彷彿される構造だったのかもしれません。

斯波氏の屋敷跡(武衛陣)に建てられたという、足利義輝の二条城の邸宅の遺址(出所:wikipedia)
斯波氏の屋敷跡(武衛陣)に建てられたという、足利義輝の二条城の邸宅の遺址(出所:wikipedia)

 このように義輝は将軍権威を誇示するために、かなりの意気込みで武衛御所を造営したと思います。そして、武衛御所には多数の馬が飼育されていたこと、厩が豪勢であったことが伝わっています。

 当時、来日していたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、武衛御所について次のように記しています。

▼史料1「1565年3月6日付けルイス・フロイス書簡」

公方様の邸は非常に深い堀で周りをことごとく囲い、一つの橋が架けられている。邸の外には三、四百名の高貴な兵士らと多数の馬がいた
(松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス日本史』〈2〉中公文庫)

▼史料2 「1565年4月27日付けルイス・フロイス書簡」
厩は杉材で作られた家屋で、上等な敷物を敷き詰めてあるため、ここで公爵を接待することも十分可能である。馬は一頭ずつ個室に分けられ、そこは下部と側面に板が張られている。敷物を敷いたところはすべて馬の世話をする人たちの居所である
(松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス日本史』〈2〉中公文庫)

 史料1から武衛御所の周囲は深い堀が掘られていたことがわかります。近年の研究によれば、武衛御所は軍事施設としての側面も重視されていたと考えられています。さらに造営後も拡張工事が続いたそうで、御所の敷地面積は拡大していきました。このため、武衛御所は「城」であったと考える研究もあり、義昭の二条城と対比して「義輝二条城」と呼称する見解もあります。

 また、義輝が多数の馬を所有していたこともうかがえます。馬の多さにフロイスは強い印象を覚えたようです。史料2に注目すると、武衛御所には杉材で作られた厩があったことが確認できます。厩には上等な敷物が敷かれている場所があり、ここで貴人との接見が可能であったようです。敷物が敷かれている箇所は、普段は馬を世話する人々の居所として使われていたようです。

 フロイスの記述を見る限り、武衛御所の厩は特別な趣向を凝らしたグレードの高い区画であったことが想像できます。つまり、義輝は馬の管理・世話を重視していたのでしょう。これは義輝が馬好きであった根拠の1つになるかと思います。

 ちなみに前述した山科言継は度々武衛御所を訪れていたようで、ある日訪れたときは、厩で馬の蹄を打っている義輝を目撃しています。

 厩務員ではなく、将軍義輝本人が自ら馬の世話をしていたことがわかります。さすがに義輝1人ですべての馬を世話していたとは思えませんが、自ら馬の世話をする程、義輝は馬が好きだったのでしょう。さらには武衛御所内の馬場で競馬が実施されたという記録も残っており、やはり義輝にとって馬は特別な存在であったと考えられます。

戦国大名に馬を求める義輝

 義輝の馬好きについては、実は幼少期からその傾向がうかがえました。天文9年(1540)、当時数えで5歳の義輝の「乗馬始」という儀式が実施されました。このとき、細川晴元は「義輝が馬好き」ということを聞き、鞍の置かれた小さな青毛の馬を進上したそうです。

 将軍就任後の義輝は、主に東国の戦国大名に馬の献上を求めました。これは東国が馬の主要な産地であったためと考えられます。また、東国の戦国大名のなかには義輝に馬を献上する大名もいました。義輝に馬を献上した、もしくは馬を求められた戦国大名は、伊達輝宗・最上義守・古河公方・北条氏康・由良成繁・今川氏真・松平元康・織田信長等が確認されています。

 特に義輝が求めたのは「早道」という馬でした。早道は「飛脚」という意味だけでなく、単に早い馬という意味も含まれる可能性があるそうです。いずれにせよ、早い馬でしたら素早く情報伝達ができることは言うまでもありません。早道は名馬と呼んでも差し支えないでしょう。

 東北の最上氏は早道を献上したいと申し入れたところ、義輝は越後の長尾景虎(上杉謙信)に、最上氏から献上される馬の移動に協力するように命じました。東北から日本海側のルートを通って馬は献上されたようで、道中問題なく移動できるよう、義輝はわざわざ景虎に馬の移動に協力するよう命じたと思われます。

 ちなみに景虎も義輝に馬を献上したことがあり、この馬を義輝は大変気に入ったそうです。永禄元年(1558)の帰洛の際には、景虎からの献上された馬に乗り、入京したといわれています。

 このように義輝は東国各地から馬を求めていたのでした。当時の武家社会では太刀と馬が一般的な贈答品でした。そのため、日常的に馬の献上や下賜などは行われていましたが、義輝の場合はあえて現地に使者を遣わして、馬の献上を求める傾向にありました。先代の義晴(義輝の父)は馬を家臣に下賜することはありましたが、馬の献上をわざわざ求めたことはなかったといわれています。

 以上のことから、義輝の馬好きの趣向が読み取れます。

おわりに

 本記事では義輝は剣豪ではなかったことと、実は義輝が馬好きであったことについて取り上げました。

 古代から馬は軍事面においても、農業や商業などの産業面においても、人間にとって欠かせない存在でした。昔の人々は生活のなかで馬と接する機会は多かったと思います。しかし、義輝の場合は、新築の御所に立派な厩を拵え、将軍でありながら自身で馬の蹄を打ち、東国の戦国大名にわざわざ馬を求めるなど、個人的な趣味・嗜好として馬が好きだったと思われます。

 以上、本記事では将軍義輝の意外な一面を紹介しました。


【主な参考文献】
  • 山田康弘『足利義輝・義昭』(ミネルヴァ書房、2019年)
  • 木下昌規『足利義輝と三好一族』(戎光祥出版、2021年)
  • 黒嶋敏『天下人二人の将軍』(平凡社、2020年)

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  この記事を書いた人
yujirekishima さん
大学・大学院で日本史を専攻。専門は日本中世史。主に政治史・公武関係について研究。 現在は本業の傍らで歴史ライターとして活動中。

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