織田信長と馬 馬を通した諸大名との外交戦略とは

織田信長と馬

 織田信長には、馬にまつわるエピソードが豊富に残っている。『信長公記』によると、青年期の信長は、朝夕を問わず馬を乗りこなすための鍛錬に励んだという。信長は朝から夕方までずっと馬に乗り続け、どんなに馬を荒っぽく乗りこなしても、決して馬の息を切らせて苦しませるようなことはなかった。

 あるとき、信長は家臣・平手政秀の子・久秀の名馬を所望したが、久秀は主君の命にも関わらずに断った。この話も『信長公記』に書かれたものである。

 それゆえ信長は久秀のことを憎むようになり、この一件がのちに政秀が切腹した理由の一つになったともいわれている。武将は合戦に備えて、駿馬を求めたのだから、久秀の判断は正しかったのかもしれない。

 信長が日夜、馬の鍛錬に励んでいた事実は、甲斐の武田信玄も知っていた。いかに信長が馬を乗りこなすことに力を入れていたのかがわかる。

馬を諸大名から贈られた信長

 永禄11年(1568)、武田信玄は信長に馬を10頭贈った。そのうちの1頭は、宇都宮氏から進上された「鬼瓦毛」だった(『甲陽軍鑑』)。勝頼(信玄の子)の妻・龍勝院は、信長の養女だった。龍勝院の死後、信長の嫡男・信忠は、松姫(信玄の六女)を妻とした。両者は婚姻による同盟を築き、さらに馬の贈答によって関係を強化した。

 天正3年(1575)伊達輝宗は信長に対して、名馬の「ガンゼキ黒」、「白石鹿毛」を献上した。「白石鹿毛」は、奥州でも指折りの名馬だった(『信長公記』)。東北は名馬の産地だったので、安東氏、南部氏、大宝寺氏などの諸大名も信長と厚誼を結ぶべく、馬を献上したのである。

 天正7年(1579)、多賀谷朝宗は信長に星河原毛の馬を献上した。馬の丈は4尺8分、という駿馬で、1日に30里(約120km)も走ることができた。大いに喜んだ信長は、朝宗に黄金50両、小袖三重などをお礼として与えた。

 その後、実際に信長が乗ってみると、紛れもない名馬であることを実感し、馬の世話をしていた者に刀の「正宗」を与えたという逸話がある(『總見記』)。

諸大名に馬を贈った信長

 信長は馬を贈られるだけでなく、贈ることもあった。天正4年(1576)、香川元景は香西氏を仲介し、信長の配下になろうとした。香川氏から2名、香西氏から2名の使者の計4名が信長のもとを訪れると、信長は配下に加わることを了承した。その際、信長は4名の使者に馬を贈った。

 贈った馬は、信長が佐竹義宣から献上されたもので、信長が「四国で関東の馬は珍しいだろう。国の人に見せるがよい」と言うほどの自慢の馬だった。馬は精悍な面構えをしており、四国の者が見たこともない名馬だったという(『南海通記』)。信長は秘蔵の馬を与え、彼らに忠誠を誓わせようとしたのだろう。

 天正10年(1582)3月、信長は武田氏を滅ぼすと、滝川一益に関東方面の支配を任せた。その後、信長はさらに支配領域を拡大すべく、下総の千葉邦胤に馬を贈り、配下になるよう迫った。

 ところが、邦胤は関東の名族・千葉氏の流れを汲むこともあり、信長の横柄な内容の書状を受け取って激怒した。そこで、邦胤は信長から贈られた馬の尻尾を切って街道に放すと、使者の頭を剃って返したという逸話が残っている(『関八州古戦録』)。

信長の馬揃え

 天正4年(1576)、信長は安土城(滋賀県近江八幡市)を築城し、城下町も整備した。天正9年(1581)1月1日、信長は安土城にほど近い松原町に馬場を作ると、馬揃を催したのである。

 同月8日にの馬揃では爆竹が鳴らされるなど、盛大なパレードが開催された。信長は黒い南蛮笠をかぶると、珍しい派手な衣装を着用し、葦毛の名馬に乗って姿をあらわした。その噂は、たちまち天下に知れ渡ったという(『信長公記』)。馬揃が挙行された話は、ただちに正親町天皇の耳に入った。

 同年2月28日、信長は正親町天皇を禁裏の東門外に招いて、馬揃を催すことにした(『御湯殿上日記』など)。信長は馬揃えを開催することで、正親町天皇を喜ばせようとしたのである。馬揃の開催は、正親町天皇の要望によるものでもあった。

 馬揃を担当したのは、明智光秀である。参加した武将は約7百名に及び、見物人は約20万人だったという。参加したすべての人々が信長の威勢に驚嘆した。正親町は信長に「大変満足した」と言葉をかけ、大いに喜んだと伝わっている(『信長公記』)。

 これまで、馬揃は信長軍団の軍事力を正親町天皇に誇示し、従わせようとしたと言われてきた。しかし、正親町天皇は喜んだというのだから、この見解は妥当ではない。馬揃は、信長が天皇を戴いてパレードを催し、諸大名に軍事力を誇示することに意味があったのである。

 信長が馬を愛したのは、むろん来るべき合戦に備えてであろう。絶えざる馬の訓練は、合戦の勝利につながったのである。また、馬の贈答は、諸国の大名との同盟関係を深めるための手段でもあった。つまり、信長は馬を一つの武器として、版図の拡大を行ったと考えられるのである。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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