東久邇宮稔彦王 陸軍軍人、総理大臣(第43代)、臣籍降下、新興宗教の教祖… ”やんちゃ”な皇族の数奇な人生とは

東久邇宮稔彦王の肖像(出典:国立国会図書館 近代日本人の肖像)
東久邇宮稔彦王の肖像(出典:国立国会図書館 近代日本人の肖像)
 小学校の社会の授業で「戦後の総理大臣一覧」というのが、よく載っています。その中で異彩を放つのが第43代総理大臣・東久邇宮稔彦王(ひがしくのみや なるひこおう)です。

 名前から明らかに皇族だと分かります。また、終戦直後であることから臨時処置的な役割だったんだろうと想像がつくと思います。しかし東久邇宮稔彦王という人物について知っている方は、あまり多くはいらっしゃいません。皇室の中でも相当に問題児であった彼の経歴や総理退任後もご存じない方が多いでしょう。

 そこで今回は皇族でありながら唯一、内閣総理大臣となった東久邇宮稔彦王について語ってみましょう。

生い立ちと結婚

 東久邇宮稔彦王は明治20年(1887)、久邇宮朝彦親王の9番目の末っ子として生まれました。父親の久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう)は昭和天皇の御后である香淳皇后の祖父に当たります。戦前はたくさんの宮家が存在し、かつ、子だくさんでもありました。

 宮家は皇室維持のために必要ですが、あまりにも人数が多すぎるのも困ります。そこで大正9年(1930)に「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定されます。要するに、現天皇から見て5親等以上離れている皇族男子は成人したら賜姓降下し、皇室から離れて華族になる、という決まりです。東久邇宮稔彦王もこれに該当し、成人を迎えたら皇室を離れて華族として伯爵になる予定だったのです。

 ところが、彼については「特例」が適用されることになりました。それというのも明治天皇の第九皇女である聡子内親王のお相手が見つからずに困っており、ちょうど年齢の合う東久邇宮稔彦王に白羽の矢が立ったからです。

 成人したら「東久邇宮家」という新しい宮家を作り、そこの当主になることに決まったのです。父親と宮家の名前が違うのはこういった経緯があるからでした。この時点で、彼には既に「数奇な運命を辿る」人生が始まっていたのです。

稔彦王(写真左)と聡子内親王(写真右)。(『皇族御写真帖』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
稔彦王(写真左)と聡子内親王(写真右)。(『皇族御写真帖』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 戦前、皇室の男子は軍人になるのが規定路線でした。東久邇宮稔彦王も陸軍士官学校を経て陸軍大学に進み、陸軍の軍人として歩み始めます。そして陸軍大学卒業の翌年、大正4年(1915)に予定通り、聡子内親王と結婚します。

 しかし、陸軍士官学校時代にはトルストイの『復活』を読んでいたことが発覚し、問題となりました。現代の感覚では理解しづらいのですが、当時、皇族が外国の小説家の書いた小説を読むことはタブーだったのです。

明治天皇:「知的好奇心が旺盛なのだろう」

 この問題は明治天皇の耳にまで入りましたが、明治天皇は、東久邇宮稔彦王が将来娘の旦那様になる予定の人でもあり、不問に付しています。

 また、陸軍大学時代には明治天皇から陪食(一緒に夕食を取ること)を命じられたにもかかわらず、「腹の具合が悪い」といって断っています。

 当時、絶対権力者であった天皇陛下のご命令を断るというのは ”言語道断のふるまい” です。皇太子殿下(後の大正天皇)から強い叱責を受けた彼は、明治天皇に臣籍降下(皇族がその身分を失って臣籍に入ること)を願い出る、といった行動にでます。

明治天皇:「あまり年寄りを困らせるものではない」

 彼がいなくなったら聡子内親王の嫁ぎ先がなくなってしまいます。明治天皇は全く取り合いませんでした。一応、皇族男子の規定路線ですので、陸軍に進みましたが、彼は軍人に向いているとは言い難い性格の持ち主だったのです。

フランス留学

 皇族の場合、一般庶民出身の軍人とは違い、結構、自由に振舞えました。もちろん実際に軍隊に配属されることを望む人もいた一方で、外国に留学するという選択をする皇族もおり、東久邇宮稔彦王も大正9年(1920)にフランスに留学します。

 サン・シール陸軍士官学校で学び、卒業後にはエコール・ポリテクニークで、政治・外交をはじめ、幅広く勉強をしていました。その一方で、画家の藤田嗣治やクロード・モネと知り合い、元々好きだった絵画にさらに興味を持ち、ついにはモネについて絵筆を取るようにもなっており、将来は画家になるという夢を持ち始めてもいました。

フランス留学時代の東久邇宮(『皇室画報』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
フランス留学時代の東久邇宮(『皇室画報』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 また、モネから第一次世界大戦でフランス軍の指揮を取り、勝利に導いたジョルジュ・クレマンソーを紹介されました。稔彦王はクレマンソーに会うと、いきなり言われたそうです。

クレマンソー:「日本人は嫌いだ」

稔彦王:「私もフランスは好きではないが、その自由と文化、特に芸術には学ぶべきものが多い」

 稔彦王がそう言い返すと、クレマンソーは握手を求めてきました。

 クレマンソーは第一次世界大戦で首相として断固たる戦争指導を行い「虎」と異名を取った政治家ですが、その後、稔彦王はクレマンソーと親しくなります。そしてクレマンソーは繰り返し言ったそうです。

クレマンソー:「アメリカは必ず日本に戦争を仕掛けてくる。だが日本はアメリカには絶対に勝てない。だから我慢しなければならない」

 稔彦王は、このクレマンソーの言葉を忘れませんでした。さらにフィリップ・ペタン元帥を紹介され「アメリカは日本を討つ用意を既に整えている」とも聞かされます。

 ある日のこと、面白半分に手相見の婆さんに手相を見てもらったのだそうです。すると老婆は言いました。

老婆:「あなたは日本のプライムミニスター(総理大臣)になる」

 稔彦王は一笑に付して返答しました。

稔彦王:「私は皇族だ。日本では皇族が総理大臣になることはない」

 それでも老婆は次のように言われたそうです。

老婆:「いや、将来、日本では大動乱か大革命が起きる。その時に、あなたはプライムミニスターになる」

 後日、本当に総理大臣を下命された時には、そのことを思い出し、日記に記しています。

「老婆の予言が当たったので、薄気味悪く感じた。私は迷信が大嫌いだったが、占いもバカにならぬと思った」

 実は稔彦王のフランス留学期間は3年間と決められていました。さらに「軍事の勉強に行かせたのであって、絵の勉強をさせに行かせたのではない」という理由で再三、帰国命令が出されました。

 稔彦王は帰国命令を拒否してフランスに滞在し続けますが、大正天皇が1926年に崩御されて大葬が行われることになると、ロンドンに留学していた小松輝久侯爵がパリにやって来て直談判し、やっと帰国の途についたのです。

帰国後、軍務に復帰

 何しろ再三の帰国命令を拒否しての帰国です。帰ったら相当に怒られるだろうな、と覚悟していた稔彦王ですが、昭和天皇は意外なことに優しく接してくれました。また、本家にあたる久邇宮家でも叱責等はありませんでした。

 「良かった…」と一息つけた稔彦王は、以前よりの念願であった臣籍降下をするべく、動き始めます。稔彦王の臣籍降下の願望は若い時からのもので、束縛の多い皇族が単純に嫌だったのがその理由です。彼は ”やんちゃ坊主” だったのです。

 しかしそう簡単に願望を叶えられるはずもなく、稔彦王は色々なことをしでかします。天皇陛下の晩餐招待を風邪を理由に断っておきながら新宿御苑のゴルフ場に出かけたり、「運転免許をくれ」と言いだして、大勲位の勲章をつけたまま運転してみせたり、方々に配ったフランス土産を「宮内庁にだけはやらない」と言ってみたり、他の宮家からの晩餐招待も断り続けました。

 まるで子供のようなふるまいに、さすがに宮家の一部からは「臣籍降下させたらどうか」という声も上り始めました。しかし稔彦王の従者である倉富は反対し続けます。その理由として、稔彦王は必ず皇室のためになくてはならない存在になると確信していたからです。

 稔彦王は倉富としょっちゅう言い合いを続けていましたが、それが逆に王と従者という範囲を超えた関係に発展していき、稔彦王も倉富の意見にうなづく事が多くなってきます。そしてついには臣籍降下を一旦は諦め、本来の職務である陸軍で軍務に就く決断をしてくれたのです。

 実は稔彦王が陸軍大学を卒業して聡子内親王と結婚した頃は、仙台の歩兵第29連隊の中隊長をしていました。陸軍では皇族は特別扱いです。昇進も早く、責任重大な任務には付かせないよう配慮もされていたため、中隊長といっても特にするべき任務はなく、たまに訓示を述べる位であったそうです。しかし仙台は皇族に対する警護も緩く、聡子内親王との夫婦仲も良く、稔彦王には楽しい場所だったようです。

 仙台勤務が1年で終わると、今度は東京の「近衛歩兵第三連隊付」という役職に就きます。この「付」という役職は皇族軍人にはよくあることでした。現在でも大失態をしてしまった社員を「総務部付」という役職にしたりしますが、「付」という役職は特にするべきことがない役職です。陸軍としても、皇族の方に万一、なんらかの失態が発生するとまずいため、あまり積極的になってほしくないのが本音だったのです。

 しかし稔彦王は倉富の意見を聞き入れ、軍務に復帰することを決めます。それを聞いた倉富は安心し、一木木徳郎宮内大臣にそれを伝えました。陸軍士官学校付となった稔彦王は、週2日勤務という緩やかさですが、自分で車を運転して士官学校に通い始めます。案外に士官学校での評判はよかったそうです。

 天皇陛下が自ら統監する陸軍特別大演習が濃尾平野で行われた際、稔彦王は自分の車で現地まで赴いて参加、さらに「十分勉励、帝国軍人の面目を発揮することを望む」と訓令し、積極的な所を見せました。

政治への関心

 近衛文麿、木戸幸一、有馬頼寧といった壮年の華族11人が、大正11年(1922)に作った「十一会」というグループがありますが、やがて稔彦王も招かれます。

 当初は単なる仲良しグループでしたが、メンバーがメンバーだったことから、どうしても政治・軍事の話が出ることも多く、段々と政治的影響力も持つグループに変化。そんな中、稔彦王は政治・軍事の話にも興味を示し、自分の意見を述べるようにまでなっていったのです。それまで政治や軍事などにほとんど関心を示さなかった稔彦王の明らかな変化でした。

 フランスで自由主義を学び、クレマンソーに再三の忠告を受けていた稔彦王は、アメリカとの戦争には絶対反対の意見を述べて引き下がりませんでした。十一会のメンバーは稔彦王の意外な一面を見て驚きます。皇族の中に稔彦王のような人物がいるとは全く思っていなかったからです。

 先にも申し述べましたが、皇族は軍隊では特別扱いを受ける一方、責任や危険が伴う実務に就かなかったので、自分の意見というものを積極的に表明する機会がありません。また下手に表明すると、問題になることを怖れたという面もあります。しかし稔彦王は全然違いました。十一会のメンバーは戦争には反対の立場だったので、稔彦王が頼りになることを知り得たのでした。

 倉富の見立ては間違っていませんでした。これをきっかけに稔彦王は和平派から、たびたび首班候補にあげられるようになるのです。

戦争に突入

 昭和12年(1937)に支那事変が起こり、日本は実質的に太平洋戦争に突入していきます。

 稔彦王は第二軍司令官として華北に駐留し、武漢攻略作戦に参加しましたが戦争の長期化、まして対米戦争には批判的な姿勢を貫きました。東条英機陸軍大臣にクレマンソーの忠告を告げ、陸軍も日米交渉に協力すべきだと説きましたが、東条英機大臣は一顧だにしません。日本は既に「戦争やむなし」という風潮に包まれていたのです。

 そんな中の昭和16年(1941)12月、ついに真珠湾攻撃が敢行され、日本は対米戦争へと進出していきます。必死に戦争を回避しようと頑張っていた近衛文麿首相も、陸軍の圧力と世論の前に力尽き、稔彦王に依頼をしてきます。

近衛文麿:「次の首相をお願いしたい」

稔彦王:「私は殺されてしまうかもしれないが、頑張って半年は持ちこたえて見せよう」

 稔彦王は引き受ける意思を見せましたが、木戸内大臣は危険を感じ、昭和天皇に稔彦王を推挙することはしませんでした。それに先立って真珠湾攻撃が敢行される4か月前、稔彦王は昭和天皇に謁見していますが、席上ではこんなやり取りがあったそうです。

昭和天皇:「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。陸軍は作戦、作戦とばかり言って、どうも本当のことを自分にいわない」

稔彦王:「現在の制度(大日本帝国憲法)では、陛下は大元帥で陸海軍を統帥しているのだから、陛下がいけないとお考えになったのなら、お許しにならなければいいと思います。たとえ参謀総長とか陸軍大臣が作戦上必要といっても、陛下が全般の関係上、良くないとお考えになったら、お許しにならないほうがよい」

 当時の日本は英国型の立憲君主制となっていました。つまり君主の権限が憲法により制限されていたのです。ですので、名目上「陸海軍を統帥する」となっていても実質的な運営については内閣や行政機関が行っており、君主である天皇陛下でも、それに直接、口をはさむことは出来なかったのです。

 稔彦王の進言はそういった立憲君主制の建前に反することであり、稔彦王も承知の上でした。ですが、昭和天皇は英国型立憲君主制に強いこだわりを持っており、残念ながら稔彦王の進言が実行されることはありませんでした。

 ただ、このときの稔彦王の強い反戦の意思は昭和天皇にも伝わり、稔彦王は戦争終結後の大変な後始末を任せられることになってしまうのです。

石原莞爾大佐との出会い

 満州事変の仕掛け人であり、満州国建国の立役者であった石原莞爾大佐は非戦主義者でした。

石原莞爾(出典:wikipedia)
石原莞爾(出典:wikipedia)

 石原大佐は陸軍きっての切れ者で、「油のために戦争をする奴があるか」と言っていましたが、当時の陸軍は皇道派と統制派に分かれて争っている状態で石原大佐の言い分は入る余地がありませんでした。そこで石原大佐は満州国建国という策動を独断で始めたのです。

 そして稔彦王は偶然の機会に石原大佐と会い、その主張に同調しました。その結果、一時的にではありますが、稔彦王は過激な発言をするようになります。昭和天皇は満州国建国を決して喜んではおられませんでしたが、それに対する批判をしたり、満州独立守備隊の司令官を希望したりと、倉富の目から見たら君子豹変とも見える言動をするようになるのです。

 稔彦王の豹変とも見える変化は石原莞爾大佐の非戦主義に賛同したものであったと考えられます。確かにやり方は問題ですが、戦争を回避して日本の資源獲得の道を切り開くには石原莞爾大佐の方法は稔彦王からみたら「素晴らしい案」と映ったのでしょう。しかし倉富をはじめ、従者や関係者から諫められ、稔彦王は過激な発言は控えるようになります。

 実は、このエピソードは稔彦王の性格を良く物語っていると言えます。稔彦王には「気分屋」という面があるのです。しかし皇族という環境に生まれ「ねばならない」ことばかりの束縛の中で暮らし続け、一般庶民の生活を全く知らない稔彦王に、大局的な客観性を求めるのは無理である、と言えるのではないでしょうか。それでも「ねばならない」ことに反発し続け、自分の意見を変えなかった稔彦王は、皇族の中では、特殊な存在だったのです。

日本の敗戦と総理大臣就任

 昭和20年(1945)8月15日に玉音放送が流され、太平洋戦争は日本の敗戦で終結しました。そして敗戦を決めた鈴木貫太郎内閣が役目を終えて総辞職をすると、次の総理大臣が問題となりました。

 何しろ敗戦直後です。阿南陸相、米内海相が陸海軍を抑えるだけ抑えてくれてはいましたが、何が起こるかは、まだ予断を許さない状況です。米国から進駐軍がやってきますので、その対応もせねばなりませんが、もし厚木基地でマッカーサー元帥が過激派にでも襲われたら大問題となり、日本はさらに弱い立場に追い込まれてしまいます。事実、そんな動きもあったのです。

 憔悴を極めていた昭和天皇には、もう稔彦王しか総理候補は浮かびませんでした。皇族であれば軍人や一般庶民も一応、敬意を払うであろうし、少しでも不測の事態を抑える効果が期待できることと、平和主義者である稔彦王なら、米軍とも何とかやっていけるであろうとお考えになったのです。

 木戸内大臣、平沼枢密院議長も「稔彦王が適任かと」と上奏してきました。最初は「政治には何の経験もないし、関わる気も無い」と言っていた稔彦王でしたが、昭和天皇の御意思とあれば仕方がありません。戦前から「首班候補」として何度か取りざたされてきた東久邇宮稔彦王内閣が、ついに誕生することになったのです。

1945年8月17日、東久邇宮稔彦王と内閣閣僚ら(出典:wikipedia)
1945年8月17日、東久邇宮稔彦王と内閣閣僚ら(出典:wikipedia)

 周囲からは懸念する声が続々と寄せられましたが、昭和天皇も稔彦王に強力なリーダーシップを発揮することは期待していませんでした。何よりも警戒すべきは陸軍の暴発です。そこで稔彦王は自ら陸軍大臣を兼任します。一応、軍籍も軍歴もある陸軍大将なのですから問題はありません。この効果は抜群で、陸軍は阿南陸相の自決と稔彦王の総理兼陸軍大臣就任で完全に抑えることに成功したのです。

重光外務大臣との確執

 マッカーサー元帥は無事に厚木基地に到着し、戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書に署名調印するという段取りになりました。降伏文書への署名調印ですから日本にとっては屈辱的な物であり、誰がこれを行うかが問題となったのです。

 外務省は当初、近衛文麿氏が適任と考えていましたが、近衛文麿氏はそれを拒否。すると稔彦王は次のように言います。

稔彦王:「終戦を決めたのは天皇陛下なのだから、高松宮あたりをあてたらどうか」

 しかし外務省から高松宮家にそれを直接、頼む訳にはいきません。ただ、稔彦王が動いてくれる訳でもありませんでした。仕方なく重光葵外務大臣が自ら、その役割をやらざるを得なくなります。この辺りから外務省と稔彦王の間に軋轢が生じ始めます。

 また、稔彦王が他の閣僚に相談もせずに、大佛次郎、賀川豊彦、太田輝彦、田村真作、児玉誉士夫の5名を内閣参与としたことにも閣僚から不興を買いました。

 さらに連合国側の外国新聞記者達との記者会見が行われることになったのですが、これも外務省の知らないことだったため、当日の通訳は民間の新聞記者で英語が達者な人物が担当するという異例な事態となったのです。

 この外国新聞記者との記者会見は、稔彦王にとって生涯忘れられないくらいの強い衝撃を与えます。連合国側の新聞記者達は殺気立っており、容赦なく戦争責任を追及してきます。その容赦のなさは物凄いものだったことを稔彦王は語っています。

稔彦王:「私が真ん中にいて、周囲に200人ばかりの新聞記者がきて馬蹄形に集まったが、腰もかけずに私の前におしかけて、拳を挙げて、どうだどうだと言うのでしょう。私はここが我慢のしどころと思って我慢していました。実に酷かった。私の顔の前に原稿を投げ出すやら、卓を叩くやら酷いことをしましたよ」

 この記者会見には日本人は入れませんでしたが、外国人記者から様子を聞いた人達は「総理宮は御引退遊ばすのが日本の為、宮殿下の御為なり」と書き記し、また外国人記者は「総理は昨日の会見でコンプリート・フールを暴露せり」と書きたてました。

マッカーサー元帥との会談

 終戦から一か月半過ぎた9月29日、稔彦王総理はGHQ本部のマッカーサー元帥を訪問し、会談を行います。稔彦王とマッカーサーのやりとりは以下のようなものです。

稔彦王:「封建的遺物である皇族の私が内閣を組織しているのは民主主義の見地から良くないのではないか。良くなければ明日にでも総理大臣を辞めます」

マッカーサー:「あなたが皇族として生まれたことは今更、どうしようもない。あなたの思想や言行は非民主主義であるとは思われない」

稔彦王:「占領政策をする上で、都合の悪い大臣がいたら私の方で代えるので言って下さい。内閣は日本の内閣ですから貴方の命令で代えられては私の面目が立ちません」

マッカーサー:「そういうことはしませんし、いま大臣を変える必要もありません」

 稔彦王はマッカーサーの答えに満足し、GHQ本部を後にします。しかし、このマッカーサーの対応は、いわば稔彦王という日本のロイヤルファミリーに対する一種の計らいだったのです。マッカーサーの本音は、それほど甘いものではありませんでした。

GHQの命令と内閣総辞職

 10月14日に突如として山崎巌内務大臣の罷免命令がGHQから発せられます。

 原因は、かの有名なマッカーサー元帥と昭和天皇の並んだ写真です。山崎内務大臣は写真の公開を差し止めるべく、新聞に写真掲載禁止の命令を出したのです。それを知ったGHQは激怒して罷免命令となった訳です。

稔彦王:「約束が違う!私を通す約束だったはずだ!」

 稔彦王は激怒し、内閣の総辞職を決めます。いわば抗議の意味での総辞職でした。総理大臣在任期間、48日間というのは日本最短記録となりました。

 その後、GHQは色々な政策を打ち出し、昭和22年(1947)10月14日をもって、多数あった宮家も昭和天皇直系だけに整理され、東久邇宮家も臣籍降下となりました。稔彦王の長年の念願がやっと叶った訳です。どういう方法かは分かりませんが、実は稔彦王はフランス留学中に結構な額の資産を築いており、臣籍降下しても生活には全く困らなったようです。

 臣籍降下した稔彦王は「ひがしくに教」という新興宗教の開祖に祭り上げられます。これを聞いた宮内庁は 「”ひがしくに”と言う名称はダメ、それに稔彦王は追放処分中だ」ということで名称を変更するよう通告しました。

 この騒動でまたもや話題となった稔彦王。松本清張氏が文芸春秋の1968年(昭和43)年1月号で稔彦王と対談し、騒動の内容を聞いています。結局、稔彦王は

稔彦王:「あれは小原唯雄という禅宗の坊さんが来て、色々とこれからの日本の事について意見を述べたので賛成したんです。それで、その小原と言う坊さんが勝手に「ひがしくに教」というのを立ち上げてしまったんですよ。何だか、あちこちからお金を集めていたようで、私も相当に取られました。おかげで周りから冷やかされるは、悪口を言われるはで散々でしたよ。今の世の中では坊さんもあてになりませんな」

ということだったようです。

 その後、稔彦王は102歳という長寿をとげ、1990年(平成2年)1月20日に死去しました。なんと昭和天皇の方が先に崩御されてしまったのです。この102歳というのは日本の総理大臣経験者における「最長寿記録」となりました。

 色々と変わった記録を残した東久邇宮稔彦王殿下ですが、大正、昭和という2つの時代を生き抜いた数奇な人生は、やはり皇族ならでは、のものだったのです。


【主な参考文献】
  • 浅見雅男『不思議な宮さま 東久邇宮稔彦王の昭和史』(文芸春秋社、2014年)
  • 東久邇宮稔彦『やんちゃ孤独』(読売新聞社、1955年)
  • 松本清張『やんちゃ皇族の戦争と平和』文芸春秋1968年1月号(文芸春秋社)

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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