最上氏と北楯利長の遺産 米どころ庄内地方の発展を支えた「北楯大堰」

上空からみた北楯大堰の頭首工の写真(出典:<a href="https://www.gsi.go.jp/" target="_blank">国土地理院ウェブサイト</a>)
上空からみた北楯大堰の頭首工の写真(出典:国土地理院ウェブサイト
 戦国時代の治水事業と聞くと、大半の人は信玄堤(しんげんづつみ。山梨県甲斐市竜王にある堤防)を思い浮かべるのではないでしょうか。武田信玄が作りあげた川の増水に対応する治水の仕組みは現在も機能しており、その先進性は非常に高いものとして知られています。

 次に思い浮かぶとすれば、浄土真宗本願寺派が各地で整備した輪中でしょうか。伊勢長島など、現在も残る川の中州にある居住地域は、人力によって整備されていったというのですから驚きです。

 しかし、戦国大名の最上氏が実はそれらに匹敵する素晴らしい治水事業を行っていたことは知られていません。その名も北楯大堰(きただておおぜき)。この堰ができたことで開発が可能になった山形県庄内地方は、江戸時代に3万石の米どころとなりました。

 ちなみに「堰」とは、”水を他へ引いたり流量を調節したりするため、川水をせきとめる所(出典:コトバンク)” です。今回は北楯大堰について、考察していきたいと思います。

北楯大堰とは

 北楯大堰とは、慶長17年(1612)に狩川城主の北館大学助利長が開削した施設です。具体的には庄内町の最上川水系立谷沢川から取水する頭首工(河川や湖沼から農業用水などを水路に引き入れるための水利施設)と、その農業用水路の総称であり、現在もなお、庄内平野の水田農業を支えています。

+の地点が北楯大堰の頭首工の位置(出典:<a href="https://www.gsi.go.jp/" target="_blank">国土地理院ウェブサイト</a>)
+の地点が北楯大堰の頭首工の位置(出典:国土地理院ウェブサイト

水位が低く、使いにくい最上川

 最上川は山形県の一級河川で、1つの県だけを流れる川としては日本で最も長い川です。そして、日本三大急流の1つに選ばれるほどの流れの速い川になっています。この流れの速さは多数の峡谷を生み、場所によっては毎秒356トンの水が流れる山形県を支える川になっています。

 江戸時代になりますが、松尾芭蕉はこの最上川を見て一句詠んでいます。

 
「五月雨を あつめて早し 最上川」

 流れの速さを芭蕉も実感した、そんな川になっています。

 この最上川の流域沿いに山形県の主要な都市がほぼ固まっており、奈良時代には小規模な稲作が始まっていたと思われます。

 鎌倉時代には、灌漑による農業が始まり、建久元年(1190)頃、幕府重臣・大江広元の息子である大江親広が寒河江庄(現在の山形県寒河江市)の地頭として赴任。その前後より、最上川の上流域にある寒河江川周辺で一ノ堰(後に大江氏傍流高松左門が整備し高松堰とよばれる)と二ノ堰の整備が開始されます。

 しかし、その流れの速さから下流にあたる庄内地方では大きな問題がありました。川の水面が土地より低い低河床の河岸段丘となっているため、灌漑設備が当時の技術では整備できなかったようです。庄内地方は他の地域と違って稲作が進まず、開発が停滞していたことがわかっています。

 室町時代以降、庄内地方は鎌倉時代の地頭だった大宝寺氏が勢力を強め、羽黒山と協調して庄内を支配し続けました。

最上氏の勢力拡大と北楯利長

 戦国時代になると、大宝寺義氏が家臣に討たれたことで、庄内は最上氏の支配下に入ります。その後、天下人となった豊臣秀吉による奥州仕置を経て、上杉氏の所領となりました。

 しかし慶長5年(1600)に関ケ原の戦いが勃発し、「北の関ヶ原」とも呼ばれた慶長出羽合戦で上杉氏が敗戦すると、戦いに勝利した最上氏は徳川家康に認められて再び庄内地方を領有、57万石の大大名となりました。

 当主の最上義光は、庄内地方の田川郡3000石を家臣の1人、北楯利長に与えました。この田川郡は特に河岸段丘による影響が強く、水面が土地より2〜5mも低い低河床と呼ばれる状態だったそうです。そのため、かつて大宝寺氏が治めていた頃の天正18年(1590)には、藤島一揆と呼ばれる一揆も発生し、大宝寺氏は所領を没収されています。

 北楯利長は天文17年(1548)生まれ。「北館」と書く場合もあり、通称は大学と呼ばれます。父は『北館文書』に記されている北楯兵部少輔と推測されています。

 『大堰由来記』によれば、庄内にある狩川の領主が滅ぼされた後、最上義光によって北楯氏が領主に任じられたといいます。関ヶ原以前の史料が少ないため推測もありますが、慶長出羽合戦で上杉軍との激戦地であった庄内地方で活躍したことで3000石を与えられたと考えられます。庄内北部で戦ったことで有名な池田盛周が与えられたのが100石であることを考えると、庄内地方では、庄内地方の上杉追討で総大将を務めた清水義親(最上義光の息子)に次ぐ立場だった可能性もあります。

10年にわたる調査をした北楯利長

 そんな北楯利長ですが、領地を任された慶長6年(1601)から10年間、庄内の開発が進まない理由とその対策を調査し続けました。最上義光からは、「この際新しく開拓した石高は全て北楯利長に与える」と言われていたという説もありますが、当時の史料では定かではありません。

 北楯利長は10年間調査を続けたため、人々からは「水馬鹿」と呼ばれてしまいます。それでも調査を続けた結果、利長は月山の北側にある立谷沢川(当時は清川)から専用の水路を敷くのが一番良いと判断しました。しかし、この川は庄内平野側が森に覆われた山になっており、最上川との合流地点では月山から吹き下ろす強風と急流地帯となっていました。そのため、合流地点の手前に水路を造り、庄内平野に水を流すしかありませんでした。

4カ月で10キロの水路

 人手が必要な難工事計画だったため、北楯利長は義光に直接工事への協力をお願いしたと言われています。その工事に必要な人手は6000人規模。総延長10キロを掘る計画でした。

 慶長16年(1611)に計画を説明された義光は、志村光安の嫡子光惟ら一部家臣の反対を押し切り、藩の支援の下で工事を開始しました。この工事に携わった人夫は6287人、一説には周辺の村からも集めて合計7000人が工事に参加したとも言われています。

 工事は慶長17年(1612)3月5日から7月21日まで、4ヶ月を要しました。工事中に16人が亡くなるなど、難工事が続いたと言われています。また、川の流れが制御できず、最上義光から与えられた青い鞍を沈めることで工事ができたと伝えられている場所もあります。

 これらは現在「殉難十六夫慰霊塔」「青鞍之淵」として石碑などが置かれています。

青鞍之淵遺跡碑(出典:wikipedia)
青鞍之淵遺跡碑(出典:wikipedia)

 義光は完成後、「庄内末世の重宝を致し置き候」と感激し、約束通り新田含む3万石に加え、300石を加増したと言われています。この地域には工事後46の新しい集落がつくられました。特に元和年間(1615〜1624)には13の集落が、寛永年間(1624〜1644)には17の集落が誕生したことが、明治時代の内務省の調査記録によって判明しています。

 利長死後の安永7年(1778)、この地に北館神社が建立されました。彼の功績によって、この地は日本随一の米どころへと成長していくことになるのです。

北楯大堰がもたらした恩恵

 最上氏改易後、庄内に大名として入ったのは酒井氏でした。元和8年(1622)に酒井氏の当主・酒井忠勝はこの地に13万8000石で移封されてきました。さらに翌年の検地では5万1000石の増高が確認され、明治5年(1872)の新政府による検地では総計23万5000石となっていました。

 この北楯大堰の恩恵で生まれた庄内の水田から、明治26年(1893)に誕生した米の品種が「亀の尾」です。農家の阿部亀治氏が発見した「亀の尾」は、冷害に強く食味が良いとして、その後に日本中に普及しました。そして現在のコシヒカリ・ササニシキ・あきたこまち・はえぬき・つや姫といった多くの品種の元になったのです。

 北楯大堰なくして、現在の日本の稲作は語れないといっても過言ではないでしょう。

 現在、庄内地方では年間2万4500トンのお米が収穫されています。これは現在でいえば日本人40万人が1年で食べる分の量のお米になっています。40万人の食を支えつつ、多くの現代品種を生んだ北楯大堰。その偉業は現在、国際かんがい排水委員会(ICID)によって世界かんがい施設遺産に登録されています。

※参考:北楯大堰の紹介動画(【県公式】やまがたChannel)

おわりに

 戦国時代から豊臣家が滅んだ大坂の陣までの時期は、どうしても戦争の歴史に目が向いてしまいますが、各地の特産品が誕生したり土木事業の基礎が行われたりした時代でもありました。

 江戸の町が誕生する際に神田にあったという山を削ったのもこの戦乱の時代と考えると、戦国時代は開拓の時代でもあるといえるでしょう。その中でも、特に現代に大きな影響を与えた北楯大堰。現在にいたるまで北楯利長の堰を改良しながら使い続けていることを考えると、もう少し知名度があってもいいのですが、最上家改易の影響を少なからず感じざるをえません。


【主な参考文献】
  • 梅津泰典「寒河江川下流地区における農業水利施設の整備」『農業土木学会誌』(2001年)
  • 加藤三郎「北楯大堰開削の先覚者,北館大学利長」『農業土木学会誌』(1982年)
  • 『余目町史資料 第2号』(1981年)
  • 『山形市史』(1987年)
  • 『山形県史』(1985年)
  • 山形県公式HP 「北楯大堰」世界かんがい施設遺産登録
  • 庄内町観光情報サイト 庄内町人物伝 阿部亀治

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  この記事を書いた人
つまみライチ さん
大学では日本史学を専攻。中世史(特に鎌倉末期から室町時代末期)で卒業論文を執筆。 その後教員をしながら技術史(近代~戦後医学史、産業革命史、世界大戦期までの兵器史、戦後コンピューター開発史、戦後日本の品種改良史)を調査し、創作活動などで生かしています。

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