徳川家康の利根川東遷事業…真の目的は関東防衛か?

利根川の実線は現在、点線は東遷以前の流路。
利根川の実線は現在、点線は東遷以前の流路。
 利根川東遷は利根川の流れを東へと移し変えるという、江戸幕府の一大プロジェクトです。

 湿地(水びたしの土地)が広がる関東平野を乾田(農業に適した土地)化するための事業と言われています。 しかし、近い時期に行われた様々な事業を併せ見ると、真の目的は関東防衛だったのではないかとも考えられます。

 利根川の流路を変える関東防衛策とは? その一説をご紹介します。

三河の家康、関東へ

 北条征伐の恩賞として豊臣秀吉に関東を与えられ、徳川家康が三河(静岡県)から関東へ移ったのは天正18年(1590)。約140万石(駿河・遠江・三河・甲斐・信濃)から約240万石(武蔵・伊豆・相模・上総・下総・下野と常陸の一部)へ、数字だけみれば大幅な加増ですが、関東には以下のようにいくつかの問題がありました。

  • 京や大坂といった当時の日本の中心地から遠く離れていること。
  • 北条の旧領とはいえ実際に北条が支配していたのは一部であり、土着の国人勢力が強い地域は自力で平定しなければならなかったこと。
  • 湿地帯である関東平野では米が作れなかったこと。

 当時の日本では年貢=米を米市場で売って収入としていたため、米がとれないことは主要な収入の手段がないに等しいとも言えました。

 つまり、三河に比べ関東は価値の低い土地だった、この論功行賞は徳川家に対する嫌がらせである——従来はそういった見方が一般的でした。近年は逆の見方をされることも多くなっていますが、その内容についてはまた別の機会に触れたいと思います。

まずは鷹狩り…

 三河よりも面倒な関東。しかし家康は言い訳を並べて三河に居座るわけでもなく、秀吉に提示された期限内に関東への移転を済ませました。関東に入った家康はすぐに鷹狩に出かけます。

 鷹狩とは猛禽類(タカ、ワシ、ハヤブサなど)に野鳥や小動物を捕えさせる狩猟のこと。御鷹場と呼ばれる鷹狩専用の場所が設定されていましたが、江戸城から五里四方は御拳場(おこぶしば)といって将軍が鷹狩を行う場として特に厳重に管理されていたそうです。

 家康の鷹狩好きは有名で、一説によると生涯に1000回以上も鷹狩に出かけたとか。しかし、純粋な楽しみのために鷹狩を行ったのは駿府に引退してからで、それ以前は別の目的があったのではないかと考えられています。その目的とは一体何だったのでしょうか。

鷹狩の目的

 一般的に鷹狩りの目的は軍事調練ですが、家康の鷹狩の目的は地形調査だったという説があります。この時代、戦に勝つためには有利な地形で戦うことが不可欠でした。そのため、まずは関東の地形調査に乗り出したというわけです。荒れ果てた江戸城の修復もほとんどせず関ヶ原の戦いまで鷹狩に出かけていたといいますから、力の入れようがうかがえますね。

 家康ほどの大大名ともなれば御鷹場までの道のりを豪華な大行列で移動するため鷹狩の費用は膨大です。普通に地形調査をすればよさそうなものですが、それでも鷹狩の形式をとった理由は、ひとつには隣国を牽制するため。戦でもないのに国境付近をうろつけば相手を刺激することになりますが、地形調査をしているとわかっていてもあくまで鷹狩であれば相手は文句がつけられません。無用の争いを避けつつ、目的を果たすのに鷹狩はうってつけでした。

 そしてもうひとつは、戦わずに勝つため。家康の鷹狩は、現在でも鷹狩行列というイベントがあるほど大変豪勢なものだったと伝わっています。関東各地に残る土着の勢力も、彼我の圧倒的な力の差を目の当たりにすれば戦いよりも服従を選んだはず。このように、家康は地形調査と示威行動で敵対する勢力の戦意を削ぎ、戦わずして関東各地を次々に掌握していったと考えられています。

駿府城公園(静岡県静岡市)の駿府城本丸跡にある徳川家康像
駿府城公園(静岡県静岡市)の駿府城本丸跡にある徳川家康像

地形調査で判明した関東の弱点

 三浦半島、秩父、群馬、房総半島などなど、各地に家康の鷹狩が言い伝えとして残っていますが、そうやって関東をくまなく歩き回り地形調査をするうちに、家康は関東防衛の重大な弱点と思われる地点を見つけました。それが、関宿(千葉県野田市)です。

 険しい山地と何本もの河川・大湿原に守られた関東平野。しかし、そんな天然の要害に1カ所だけ抜け穴がありました。それが関宿です。関宿は現在の埼玉、茨城、千葉の3県の県境にあり、関東の東側に位置しています。

 家康が警戒したのは東北の伊達政宗でした。政宗が南下し、関宿から房総半島に入って上総を占拠し、江戸湾を制すれば江戸は危機に陥ってしまうからです。そこで、家康がとった関東防衛策こそ東北から関東への抜け穴を利根川でふさぐ利根川東遷事業ではないかというわけです。

仙台城跡にある伊達政宗の騎馬像
仙台城跡にある伊達政宗の騎馬像

運河・街道の整備と利根川東遷

 関東に入った家康はさまざまな土木工事を行いましたが、1590年代に最優先で着手したのが江戸城から船橋への運河(小名木川と新川)の建設です。これにより、江戸から船橋まで人や物資——つまり軍勢を大量・高速に運ぶことが可能になりました。

 次に、船橋と東金を結ぶ直線の御成街道を建設します。御成街道は鷹狩のための街道であると言われていますが、鷹狩に40キロ近い直線道路は必要ありません。それでは何のための街道かというと、運河を通って江戸から船橋へ運ばれてきた軍勢が迅速に房総半島を移動し、敵(東北から南下してくる伊達政宗)の南進に当たるため。運河を船で移動し直線の街道を進めば、普通に行軍するより相当速く目的地に到達するのは間違いないでしょう。

 そして、文禄3年(1594)、利根川東遷の第一歩と考えられている会の川締切工事が開始されます。その後、元和7年(1621)に開削が始まった赤堀川によって、利根川とそこに合流する渡良瀬川は銚子へ向かう常陸川を通って太平洋へ注ぐようになり、これをもってようやく関宿の抜け穴が利根川で塞がることになりました。

 つまり、東北から関東への抜け穴である関宿に巨大な堀を造り利根川と渡良瀬川を流れ込ませてその穴をふさぎ、有事の際にはここで敵を足止めし、小名木川・新川の運河と御成街道で軍勢を大量・迅速に送り込む——これが利根川東遷による関東防衛策というわけです。

おわりに

 文禄3年(1594)に始まった東遷事業が終わったのはそれから60年後。すでに伊達の脅威は過去のものとなっていました。それでも徳川幕府は利根川の工事を続け、文化6年(1809)、11代将軍家斉の治世には利根川の川幅は73メートルにまで到達し、関東平野を洪水から守り湿地を乾田化することに大きな役割を果たしていました。

 こうして、家康の始めた関東防衛策である利根川東遷は日本一の関東平野を誕生させ、当時、世界で3つしかなかった百万都市のひとつである江戸、そして現在の東京へと発展する基礎をつくることになったのです。



【主な参考文献】

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。