「最上義光」出羽の驍勇と言われた策略家は涙もろい人情家!?

最上義光のイラスト
最上義光のイラスト

戦国時代には、多くの策略家が存在します。
山形の最上義光(もがみ よしあき)もその一人です。彼は最上郡の支配もおぼつかない小大名の嫡男として生まれました。

義光は伊達家からの独立によって戦国大名となり、周辺勢力との戦いから自国を守ることに生涯の大半を捧げます。
やがて天下人となった豊臣秀吉と渡り合い、徳川家康に接近。山形藩の礎を築き、地代へと繋げていきます。

彼は何を選択し、どう生きたのか。最上義光の生涯を見ていきましょう。


最上家当主として独立に奔走する

斜陽となった最上家の嫡男として生まれる

天文15(1546)年、最上義光は最上家第10代当主・最上義守の長男として生まれました。母は小野少将の娘と伝わります。幼名は白寿丸と名乗りました。


最上家は三管領・斯波家の分家です。斯波兼頼が出羽国最上郡に土着し、最上氏を称したのが始まりでした。代々羽州探題を補任し、奥州探題を補任した大崎家とは同族になります。


永禄元(1558)年、義光は元服して室町幕府将軍・足利義輝から偏諱を賜っています。「義」の一字は、足利将軍家の通字です。最上家がどれほど信任を得ていたかが窺えます。


しかし当時の最上家は、決して盤石ではありませんでした。一族は最上郡や村山郡に散らばって国衆化。「最上八楯(もがみやつだて)」を結成して、事あるごとに団結して歯向かってくる有様でした。


さらには、伊達稙宗(政宗の曽祖父)が最上家の家督に介入。義光の父・義守は長い間、伊達家の傀儡として最上家を統治していました。天文の乱によって、ようやく独立を果たしたばかりの状態だったのです。


伊達家から独立を果たす

永禄3(1560)年、義光は寒河江城攻めにて初陣を飾りますが敗北。父・義守の領土拡張政策は頓挫するに至りました。


永禄6(1563)年、義光は父とともに上洛して将軍・足利義輝に拝謁。御所号で遇されるに至っています。これは最上家の家格を強調する意図があったと考えられています。


永禄7(1564)年には、義昭の妹・義姫(保春院)が伊達輝宗に輿入れしています。義姫は同10(1567)年に長男・梵天丸(後の伊達政宗)を生んでいます。


そして今度は、最上家内部でも対立が生じます。
元亀元(1570)年、義光と父・義守との間で衝突が起きました。同年中に重臣の仲介で和解の上、義光が家督を相続。翌年には、義守は出家しています。


しかし天正2(1574)年、両者の関係が再び悪化します。
義光には、伊達家からの強い独立志向がありました。義守は伊達家との関係強化路線にあり、それが元での対立だった可能性があります。


他の勢力は最上家に対して動きを活発化させます。
米沢城の伊達輝宗は義光を抑え込むべく出兵。義父である義守救援の名目でのことでした。


さらには、天童頼貞や白鳥長久などの最上八楯が動きます。
義光はこれらを撃退の末、同年中に和解を成立させました。結果として伊達家からの完全な独立に成功しています。


これ以後、義守と再び争うことはありませんでした。一連の動きは、義光と義守が仕組んだ独立劇である可能性もあります。


国衆連合に打ち勝つ

最上八楯と戦う

しかしこれで平穏が戻ったわけではありません。国衆の天堂頼貞らはいまだに最上家に逆らったままでした。白鳥長久に至っては、天下人・織田信長に接近し、出羽守の推任を願い出ています。


義光は最上郡の支配すらおぼつかない状況にあったのです。
義光は足場固めに専念する道を選び、家中において法度を整備するなどしています。
さらに正室を大崎家から迎え、盟約を締結。天正3(1575)年には嫡男となる義康が誕生しています。


天正5(1577)年、天童頼貞を盟主とする国衆連合・最上八楯と戦います。しかしここで決着は付かず、和睦に終わります。

戦後、義光は頼貞の娘(天童御前)を側室にするなど、融和路線を取っています。この懐柔策により、むしろ敵を内側に取り込む形となりました。

敵方を叩くことより、むしろ仲間にする。義光の行動の中には、攻撃的なものよりもむしろ他人を大事にする姿勢が見えます。しかし外敵からの侵攻は続きました。


天正6(1578)年、上山満泰が最上領に侵攻。伊達輝宗の支援を受けていました。義光は粘り強く防衛。野戦に持ち込むと、伊達・上山連合に多数の被害を与えています。


しかしこのとき、思いがけない事態が起こりました。妹の義姫が駕籠で戦場に乗り付けます。ここで結局、義光と輝宗は義姫に説得され、和議を結ぶに至りました。


当時の義光に関する逸話が残されています。駆け付けた義姫に義光の幼い子が抱きつき、義光は涙したと伝わります。戦で肉親同士は争いたくない、という思いが垣間見えるエピソードです。


国衆との争いに終止符を打つ

義光は和議を機会に憂いを取り除くことにします。

天正8(1580)年、義光は上山満兼の重臣・里見民部を調略。民部に夜上山城奪取に成功しています。

9(1581)年には村山郡にも出兵。細川直元の小国城を攻略し、鮭延城主の鮭延秀綱を調略します。


天正10(1582)年、天童御前が亡くなりました。三男・義親を産んで間もなくのことでした。結果、天童家との関係は白紙となっています。


天正11(1583)年、庄内の大宝寺家が最上攻めを計画します。
しかし義光は事前に大宝寺家臣・東禅寺義長を内応させます。義長は当主・大宝寺義氏に謀反を起こし、義氏を自刃に追い込みます。


天正12(1584)年、義光は国衆・白鳥長久を山形城に誘き寄せて謀殺。その後谷地城を占領します。さらに寒河江城を攻めて、寒河江高基を自害させています。


次に義光は、標的を天童家に定めます。
天童頼貞の後継・天童頼澄を攻める際、延沢家によって一度は敗北。しかし義光は延沢満延の嫡男に次女を嫁がせて、最上の陣営に加えます。さらに東根家の家老を内応させて東根城を奪取。結果、天童頼澄は逃亡に追い込まれることになりました。


こうして、国衆との長い戦いは義光の勝利で幕を閉じたのです。


中央政界に足場を築く

伊達政宗の援軍として出陣

国衆を降した後も、義光の戦いは続きました。

天正14(1586)年、小野寺義道と有屋峠で戦い、撃退に成功。同15(1587)年には、大宝寺義氏の弟・義興が越後の上杉景勝に接近。義光は義興を攻めて自害させています。


天正16(1588)年、伊達政宗が大崎義隆を攻撃。義光は五千の援軍を義兄である義隆に送ります。

しかしこの時、義姫が最上軍と伊達軍の間に駕籠で乱入。停戦を訴えかけるに至ります。結果、両軍とも和議を結んで兵を引いています。

先年の輝宗との対立の時も、同様にして両軍が退く形を取りました。これは決定的な対立を避けるため、義光が仕組んだ可能性があります。


同年には、義光は豊臣秀吉によって羽州探題に任命されています。出羽国においての豊臣家の名代としての立場が与えられたと言えます。

さらに同年、越後国の上杉景勝が庄内地方に侵攻。庄内地方の旧主・大宝寺義勝が兵を率いての来襲です。
最上軍は十五里ヶ原の戦いの戦いで敗れ、庄内地方は大宝寺家に奪還されてしまいます。
義光は徳川家康を通じて、秀吉との交渉にあたります。しかし結局は、秀吉が上杉領として裁定を下すに至りました。


天正17(1589)年、伊達政宗は摺上原の戦いで会津の蘆名家に勝利し、これを滅亡させました。
このとき義光は援軍を派遣しています。援軍の派遣は、背後に家康の要請があったようです。
この段階で義光は、家康との関係を強めていたようです。


従四位下に任官する

天正18(1590)年、秀吉は小田原征伐を挙行。全国から大軍を動員して北条家を攻めました。
義光は参陣を決意します。しかしその直前,父・義守が没します。結果として,義光は小田原征伐に遅参してしまいました。


伊達政宗も遅参して減封されています。義光の遅参はそれよりもさらに遅いものでした。通常なら領地没収,最低でも減封です。しかし義光は,家康と連絡を取り合い処罰を回避することができました。
義光は何よりも家族を大事にしていたことがここからうかがえます。


天正19(1592)年、義光は上洛。従四位下侍従に任官しています。
義光は中央政界との関わりも強めています。
その一つが、徳川家康との関係をより強化することでした。同年中には,次男・家親を徳川家の小姓として出仕させています。


一方で豊臣家とも関係も無視はしていません。義光の三女・駒姫を豊臣秀次(秀吉の甥)の求めに応じ,側室に出す約束をしています。
さらに最上家の安泰のため、秀吉には三男・義親を出仕させています。


豊臣から徳川の陣営に鞍替えする

豊臣家への敵対姿勢を鮮明にする

天正20(1592)年、朝鮮出兵が始まります。
義光は九州に赴き、肥前国名護屋城に陣を構えました。しかし渡海することはなく、国許に帰還しています。
平穏に見えた最上家ですが、思いがけない悲劇が襲います。


文禄4(1595)年、関白となっていた豊臣秀次が謀反の疑いで切腹。義光の娘・駒姫もわずか十五歳で処刑されました。


義光は命乞いの文を書きますが、処刑には間に合わなかったと伝わります。
義光は憔悴し、数日間食事もままらないほどでした。生母である義光夫人は悲嘆に暮れ、そのまま亡くなっています。


その後、義光は秀次への加担を疑われて謹慎。処分こそすぐに解かれましたが、豊臣秀吉に対する憎しみが増していき、やがて秀吉への敵意をむき出しにします。


慶長伏見自身の際には家康の護衛に駆けつけ、秀吉を無視。秀吉の茶席に招かれた家康を自発的に護衛するなどしています。


義光は反秀吉の立場を示すと同時に、親家康の位置を固めていきました。


慶長3(1598)年、隣国の会津に上杉景勝が入国。上杉領は最上領を挟む形で展開していました。


先年の庄内地方の件からも、両者の対立は必然的でした。
これらの上杉家の転封は、秀吉による対抗措置だった可能性があります。


この時の上杉家の領地は百二十万石、最上家は二十四万石でした。両者の動員兵力からしても、大き過ぎるほどの差があります。地理的に見ても、挟撃される最上家の方が不利です。


秀吉としては、徳川に近い最上家を上杉家によって潰す意図があったとも考えられます。
しかしその秀吉も、同年に病没します。


五十七万石の大名となる

慶長5(1600)年、徳川家康は会津の上杉景勝の戦備えを糾弾。それを契機として、家康による会津征伐が決定します。

奥羽の諸大名は、家康方に参陣。最上領には米沢城攻撃のため軍勢が続々と集まってきました。
しかし上方で石田三成が家康を討つべく挙兵。家康は会津攻撃を中止して、上方に引き返すことになります。


義光は上杉勢と真正面から戦うことになりました。このときの義光のもとには、三千の兵士かいなかったようです。

上杉景勝は、直江兼続に二万の大軍を預けて最上領に侵攻させます。山形城の生命線となる長谷堂城は囲まれ、一千の兵で籠城することになりました。

やがて家康の東軍が関ヶ原で勝ったという知らせが舞い込みます。義光はここで迅速に兵を展開。上杉家が和平交渉に動く間に庄内地方を奪還することに成功しました。


戦後、義光は家康から庄内地方の領有を認められます。
出羽国においては、上杉領の米沢を中心とする置賜郡以外に、現在の山形県にあたる地域と由利郡を獲得。義光は五十七万石の大名となり、山形藩の初代藩主となりました。


初代藩主として山形を整備する

山形を復興・整備する

慶長8(1603)年、徳川家康が征夷大将軍に就任。江戸幕府が成立しました。
義光は最上領の復興に取り組み始めます。


城下町において、地子銭と年貢を免除。さらに土地を与えた上、街道沿いに定期市を設けています。
さらに山形から酒田港への街道を整備。物流を豊かにすることで、財政にも良い影響が生まれています。


治水政策においても、最上川や北楯堰などの疏水開鑿を断行。これにより、農業用水の確保や水運の安全性が高まっています。義光は大宝寺城を鶴ヶ岡城を改めて整備し、自らの隠居場所としています。


内紛の芽を残す

しかし後に禍根を残す事件も起きています。

慶長8(1603)年、廃嫡後の長男・義康が何者かによって暗殺されました。この事件の背景には、次男・家親の存在があるようです。


家親は家康に近侍した経験があり、覚えもめでたい武将でした。義光が廃嫡の上、義康を暗殺させたという説もあります。しかし実際には、豊臣家に内通した里見民部が殺害に関与していた可能性があります。民部はこの後、義光の部下によって殺害されています。


義光は義康の遺品の日記を見ています。そこには父である義光の武運祈願の内容が書かれていました。義光は大いに悲しんだようです。


慶長16(1611)年、義光は従四位上に昇り、左近衛少将ならびに出羽守に任官しました。このときには、義光の身体は病魔に侵されていました。


慶長18(1613)年、義光は病の身体をおして江戸城に登城。2代将軍・徳川秀忠に謁見しています。その後駿府の家康にも謁見の上、薬を賜りました。さらに「天下呑分の杯」を拝領しています。


慶長19(1614)年、義光は山形城に戻ります。そして国許に帰還してすぐ、病によって亡くなりました。享年六十九。墓は光禅寺にあります。


最上家は家親が相続しましたが、次代の義俊のときにお家騒動が勃発。最上家は改易され、旗本として存続していきました。



【主な参考文献】
  • 伊藤清郎『最上義光』吉川弘文館 2016年
  • 山形市史編纂委員会『山形市史・上巻(原始・古代・中世編)』1973年
  • 山形市史編纂委員会『山形市史・史料編1(最上氏関係史料)』1973年
  • 山形市史編纂委員会『山形市史・中巻(近世編)』1971年
  • 最上義光歴史館HP

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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