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【史跡散策】中世末期の博多の街を訪ねました
- 2024/02/19
九州を平定した豊臣秀吉は、戦後の博多を復興するため、「太閤町割(たいこうまちわり)」と呼ばれる区画整理を行いました。幹線道路となる「市小路(現・大博通り)」を中心とした格子状の整然とした町並みだったそうで、その町名は133にのぼったと言われていますが、昭和41年(1966年)の町界町名整理事業によって、24の新町に統合されたということです。
昭和50年台に、旧町名を示す石碑が博多の町のそこここに建てられ、古の博多を思わせるよすがとなっています。今回はその石碑を中心に、中世博多の名残を探しに行きました。
博多の町は14世紀ごろから明、朝鮮、琉球、あるいは南蛮との貿易により大変栄え、豪商たちの活躍が続いていました。
天正15年(1587年)に始まった秀吉の「太閤町割」を始めとする博多復興には、その博多豪商、神屋宗湛(かみや そうたん)や嶋井宗室(しまい そうしつ)らが力を貸したとされています。
その嶋井宗室の屋敷跡の石碑がこちらです。現在はこの小さな碑が残るのみ。あたりには都市高速の入り口があり、まわりはビルが並んでいます。
近くにあった旧町名の石碑が「上竪町」のものです。
「竪町筋」の名前は現在も残ります。
道路を渡って、さらに石碑を探しましょう。
次にあったのが旧「横町」。現在の町名は「下呉服町」です。電信柱にも、旧町名を案内する標識が備えられていました。
次が旧「中浜口町」。
博多豪商「末次家」の屋敷跡は、案内標を残すだけとなっていました。跡地はすっかりビルになってしまっているのですね。
屋敷の趣きや広さの様子など、もっと知りたいと思いました。
神屋宗湛の名前は現在もバス停、交差点名、町名として残っています。
その宗湛の屋敷跡には豊臣秀吉を祀った「豊国神社」が建てられています。神社創建は博多再興三百年を記念した、明治19年(1886年)だそうです。ご神体は「太閤町割」で使われた間杖だったそうですが、戦災で焼失し現存しないということです。
次に見つけたのが「古溪町」の石碑です。
「古溪」とは、秀吉によって、京都大徳寺から追われ九州に流されてきた古渓宗陳(こけい そうちん)のこと。流刑にあった古溪和尚に、神屋宗湛や嶋井宗室らが住居を建て、これを迎えたそうです。
古渓和尚はのちに大徳寺に帰山する際、恩返しとして井戸を掘り、その水が火難除けとされ大事にされたということです。
その住居「大同庵(だいどうあん)」の跡が、町に残っていました。そこには古溪和尚が掘ったとされる井戸「古溪水」の跡もありました。
この日最後に見つけた石碑、旧「行町」。
石碑のうち、グーグルマップに載っていたものも、工事現場になっていたり、どうしても見つからなかったりして、全部を実際に見ることができなかったのはちょっと残念でした。
町は日々変わっていくものですね。今回訪ねた豪商たちの屋敷跡はごく近い位置に建っていました。
中世博多では、豪商の屋敷がそこここにたくさん並んでいたのでしょうか。今は小さな会社や人家などが並ぶ静かな町並みとなっていますが、当時の繁栄ぶりを想像すると、とてもわくわくしてきます。
この町の歴史について、もっと知りたいと、改めて思った町歩きでした。
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