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【史跡散策】丸岡城…天守建築の初期型を今に伝える

 福井県坂井市丸岡町にある、丸岡城。北陸エリアでは唯一となる現存12天守。福井駅からバスがおよそ30分間隔で出ている。

 丸岡城は天正3年・1575年、柴田勝家が北の庄城主になり、甥の伊賀守勝豊を坂井郡4万石に分封、豊原城を築かせた。

 豊原には豊原寺があり、越前において中世には奥越の平泉寺と並んで多く僧兵を擁し、勢力があったという。しかし天正、1574年の越前一向一揆と結び、本願寺坊官下間頼照が守護代として政務をとった。

 翌1575年、 一揆平定のため越前に入った信長は豊原に入り、数百の坊舎を焼き払った。 そして、勝家を越前に置き、勝家は勝豊を豊原に入れた。 ちなみに豊原には、王城、西宮城、雨乞山城の3城址がある。しかし勝豊は山城の不便さから、平地の丸岡に移城した。

 平山城の丸岡城は、小高い丘の上にある。バスを降りると、登り口の入り口。3分もかからない登り坂で、本丸エリアに着く。

天守
天守

 天守は2重3層の独立式望楼型、国指定重要文化財に指定されている。石垣を登る階段は、シンプルな直線で手摺りも何も付いていない。

天守とシンプルな階段
天守とシンプルな階段

 内部も余計な飾りつけなどはなく、必要な下駄箱以外には後付けされたものがないように見える。階段も狭く急で、創建時とほぼ変わらないのではないかと思える。

階段
階段

 屋根瓦はすべて福井特産の笏谷石(しゃくだにいし)という凝灰岩を用いたのも特徴である。 これだけ屋根が重くても福井地震で倒壊しなかったのだから、かなり頑丈な造りで耐震性も確保されているはずだ。

屋根瓦
屋根瓦

 勝豊は清洲会議の後に近江長浜城に移り、代わって安井家清を城代とした。 柴田氏滅亡後、北の庄城主丹羽氏の城代として青山伊賀守、同修理大夫が居城。慶長5、1600年関ヶ 原の戦いでは西軍に味方して、子の忠元は所領没収された。

 城の完成は本多重能の正保年間といわれるが、天守は柴田勝豊以来のものであると伝えられてきた。二層三階の小規模とはいえ、初期の望楼天守の遺構として貴重なものである。この天守造営年には良材が用いられているのと、上層が長方形をなしている点にあるから論議があったが、近年の材の年代調査で江戸寛永期以降の材であることが判明した。

 関ヶ原の翌年、 徳川家康の二男結城秀康の越前入部とともに、その臣今村掃部盛次が城代として入城した。 盛次は1612年に越前騒動で失脚、 府中本多氏と同族の本多飛騨守成重が4万3千石の城代となったが、1624年秀康の子忠直が豊後に配流されると、諸大名に列して丸岡城主となる。

 丸岡城のふもとにある「歴史民俗資料館」では、本多氏に関する資料などの展示がされている。

歴史民俗資料館
歴史民俗資料館

 その後、重能、重照、重益と続いて1695年の丸岡騒動で所領を没収され、越後糸魚川より有馬清純が5万石で入部、8代160年続いて明治に至った。現存する天守は大入母屋造りの初層に望楼をあげた、天守建築の初期の型を今に伝える貴重な遺構であるといえる。

 福井県と坂井市では現在、丸岡城を国宝にする動きがある。

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  この記事を書いた人
かのまお さん
小説家&ライター。 神社仏閣やパワースポットが好き。 社寺系のゼネコンに勤務歴あり。 小説家は別名義で活動、芥川賞ノミネート。

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