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【史跡散策】京都本能寺…戦国最大のミステリーの舞台へ

本能寺の表門
本能寺の表門

 京都市中京区の市街地にある本能寺は、地下鉄東西線 「市役所前駅」からすぐ南側、商店街の中にある。宗派は法華宗。法華宗は法華経を本経としお参りには「南無妙法蓮華経」を唱える。

 天正10年・1582年に起きた本能寺の変に伴う織田信長自刃の地としてあまりにも有名なお寺だ。もちろん現在の建物は再建されたもので、場所も移転されている。門の入り口に立つ石柱や札には、本能寺の「能」という字の右側に「去る」の「去」を縦並びに使用しているが、これは過去に五度も火災に遭遇したので匕(火)を避けて充てたものだという。

 本能寺の変の数年後に豊臣秀吉によって移転した時は、御池通りから京都市役所も含む広大な境内地だったという。

 山門を入っていくと、正面に本堂が現れる。昭和のはじめ、1928年に建てられたもので、国指定の有形文化財、100年近く建っている。入母屋造りの向拝つき、勾配が緩めで本瓦葺き、屋根ぞりが美しい建物だ。

 大寶殿宝物館には、織田信長ゆかりの茶道具類や書状、信長に危険を知らせたという有名な「三足の蛙」、重要文化財の梅樹雉雀文様銅鏡(ばいじゅきじすずめもんようどうきょう)、華やかな一対の花瓶で重要文化財の五彩龍鳳花卉文大瓶(ごさいりゅうほうかきおおかめ)などの名品が見学できる。

 境内の奥へ進んでいくと、織田信長の廟所「信長公御廟所 」がある。信長の三男織田信孝によって建立されたとされ、国登録有形文化財。焼け跡から信長の首が出なかったのは、駆けつけた・あるいは滞在していた僧侶が持ち去ったから、という説が強いという。

 明智光秀が起こしたクーデターの理由はミステリーとなっている。四国の政策をめぐるものか、他に黒幕がいたのか。または光秀が秘かに通じていたという甲斐・武田の穴山梅雪に関わっているという話も出ている。

 専門家の解釈では、少なくとも個人的な恨みでこんなことを起こすことはなく、なんらかの政治的な理由があるというのが多い。たしかにメインの動機はそうなのかもしれない。それでも人間というのは感情で動くことも多いことは忘れてはいけない気がする。

 信長が炎に消えていった現場(戦国時代当時の本能寺)は、今の場所から西へおよそ1キロ、駅でいうと阪急京都線の「烏丸」と「大宮」とのあいだにある。マンションなどの建物が建ち並び、当時の痕跡はないが、記念碑のようなものがひとつ残されている。

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  この記事を書いた人
かのまお さん
小説家&ライター。 神社仏閣やパワースポットが好き。 社寺系のゼネコンに勤務歴あり。 小説家は別名義で活動、芥川賞ノミネート。

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