「長徳の変」中関白家の没落、藤原道長の政権確立の出発点

馬上の人物は藤原伊周(『石山寺縁起』[3]より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
馬上の人物は藤原伊周(『石山寺縁起』[3]より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 平安時代中期、長徳2年(996)の長徳の変は藤原道長がトップに上り詰めていく過程で起きた政変です。ライバルの藤原伊周(これちか)、隆家兄弟を不祥事によって失脚させ、道長が一気に権力基盤を固めました。

 どのようなきっかけで政変が起き、道長はどうやってライバルを蹴落としていったのでしょうか。長徳の変の全貌をみていきます。

花山法皇の恋愛相手は藤原伊周の恋人の妹

 長徳2年(996)、31歳の藤原道長は右大臣兼内覧。摂政関白ではなく、政治の実権を掌握したばかりでした。

道長のライバル、中関白家の兄弟

 ライバルは中関白家の藤原伊周、隆家兄弟。藤原道長の甥です。

 道長の父で摂政関白太政大臣だった藤原兼家と全盛期を築いた道長の中間という意味で、その間に摂政関白内大臣となった藤原道隆(道長の兄)の家系を中関白家と呼びます。

 伊周、隆家は道隆の三男、四男の同母兄弟。長徳2年の時点で、伊周は23歳で内大臣、隆家は18歳で中納言。順調に出世コースに乗っていました。

※道長、伊周、隆家ら略系図
※道長、伊周、隆家ら略系図

天皇生母がゴリ押し?道長が権力掌握

 藤原兼家の死後、道隆(兼家長男)、道兼(兼家三男)と関白の地位に就きますが、相次いで死去。兼家五男の藤原道長の出番となります。

 長徳元年(995)、道長は内覧となります。内覧とは、天皇の裁断や天皇への申請など文書を先に見る権限で、その役目です。本来は関白が当然有する権限ですが、道長はこのとき、摂政にも関白にも任命されず、権大納言のまま内覧となります。実質的に権力を手にし、すぐに右大臣に昇進しました。

 『大鏡』によると、一条天皇は中宮・定子の兄である伊周を関白に就けたかったのですが、一条の生母・東三条院(藤原詮子)は弟の道長を推し、一条の寝所まで押しかけて訴えました。

花山法皇、出家の身で愛人通い

 花山法皇は一条天皇の従兄弟であり、先代の天皇で、藤原兼家の策略で出家、退位した経緯があります。

 ところが、法皇は出家後も奔放。長徳2年(996)ごろ、藤原為光の四女を愛人とし、通い始めます。元太政大臣・為光はこのとき故人。藤原兼家の弟です。

 そして、同じ屋敷には為光の三女がいて、こちらは藤原伊周の愛人でした。伊周は花山法皇が自分の愛人に手を出していると勘違いします。

藤原伊周の誤解 花山法皇の袖を射抜く

 花山法皇の横恋慕を疑う藤原伊周。弟の隆家に相談します。

伊周:「この件は穏やかではない。どうしたものか」

隆家:「何もかもこの私にお任せなされ。いとも簡単なことです」

 相談を受けた藤原隆家は安請け合いしますが、その解決方法はとんでもないものでした。

法皇の弱みにつけ込んだ脅し?

 長徳2年(996)1月16日夜半、藤原隆家は家来を2、3人連れ、故藤原為光の邸宅・一条殿からの帰路につく花山法皇に矢を射かけます。脅しのつもりだったようで、法皇の着物の袖を矢が貫きました。法皇はほうほうの体で御所に帰還。被害を訴え出ることもできたのですが、出家の身であり、恋愛事情が世間にばれるのが都合悪かったのか、被害をひた隠しにします。

 法皇は黙っているはずというのが藤原隆家の計算だったのでしょうか。ところが、事件はあっけなく発覚。世間はこの話題で持ち切りとなります。

人々:「法皇が軽はずみでいらっしゃるから、こんなことにもなった。そうは言っても、まったくもって恐ろしい事件で、このまま不問に付されるということはあるまい」

 これが『栄花物語』に書かれた伊周、隆家兄弟による花山法皇襲撃事件のあらましです。

法皇従者の首を持ち去る

 ほかの史料だと、もう少しヤバい事件でした。

 藤原実資の日記『小右記』の欠落部分が確認できる史料や『百練抄』などによると、一条殿で出くわした花山法皇と藤原伊周、隆家兄弟の家来同士が乱闘となり、花山法皇の家来2人が首を取られ、その首を持ち去られました。殺人事件というか、ほとんど合戦です。

 また、藤原実資にこの事実を伝えたのは藤原道長でした。

伊周、隆家兄弟の左遷 道長独裁の完成

 長徳2年(996)2月、藤原伊周の家司(執事)である平致光(むねみつ)、菅原薫宣(ただのぶ)の邸宅が検非違使によって家宅捜索されます。

 その後も伊周に都合の悪い事実が発覚。一条天皇の母・藤原詮子が呪詛(じゅそ)されたという噂が広まり、その寝殿の下から呪いの人形が発見されます。また、天皇以外が行ってはならない「太元帥法」(たいげんのほう)という仏事で藤原道長を呪詛していたとの嫌疑が伊周にかけられます。

伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守

 長徳2年(996)4月24日、藤原伊周、隆家の左遷が決まりました。

 伊周は内大臣から大宰権帥、隆家は中納言から出雲権守に。左遷理由は次の3点。

  • 花山法皇を射たこと
  • 東三条院(藤原詮子)を呪詛したこと
  • 私的に太元帥法を行ったこと

 なお、大宰帥は九州地方を管轄する組織「大宰府」の長官で、外交、防衛にも関わるポスト。出雲守は出雲国の国司長官。権官は仮の官で、権帥、権守は長官待遇といったところ。とはいえ、この場合、権限、職務は一切なく実質的な流罪です。

 流罪は死罪に次ぐ重罰。法皇や天皇の母に対する不敬行為で、本来、死罪に相当しますが、この時代は貴族に対する死刑が跡絶え、罪一等を減ずる措置が慣例化していました。

中宮御所は見物人や強制捜査で大騒ぎ

 藤原伊周は、妹の中宮・定子の住居・二条北宮に隠れ、再三の出頭要請にも応じません。二条大路には見物人が殺到。人々の泣き声やら同情の声やら、かなり騒々しく、『小右記』は「詳しく記すことができない」とはばかるほど。有名人のスキャンダルで世間が大騒ぎするさまは現代とまったく変わりません。

 5月に入って、二条北宮の強制捜査や伊周の愛宕山逃亡があり、出家姿でようやく京市中に戻ってきた伊周が母を同行しようとするなど、さらにひと悶着あり、ようやく九州送還の途につきます。しかし、5月15日、病気を理由に伊周は播磨に、先に出雲に出発していた隆家は但馬に留まることになります。

 10月には、伊周が密かに京に帰還し、また大騒ぎ。出家したはずが、頭を剃ってなかったことも発覚します。隆家も病気療養と老母の見舞いを理由に京への帰還を願い出ています。その奏上には「誤りなくして配流に坐した」となお冤罪を主張していました。

 こうした騒動を経て伊周の大宰府到着は長徳2年(996)12月8日。隆家もそのころ出雲に送られたと思われます。この間、7月には道長が左大臣に昇進。着々と権力基盤を固めていました。

中関白家の政界復帰 政敵に配慮する道長

 長徳3年(997)3月25日、大赦があり、4月5日の会議で藤原伊周、隆家の京召還が決まります。藤原隆家は5月21日に帰京し、10月には兵部卿として官界復帰。藤原伊周は12月に帰京。伊周、隆家は追放翌年、京に戻ってきました。

道長、牛車に招き、隆家に弁解

 『大鏡』によると、あるとき、藤原隆家は藤原道長の賀茂詣でのお供をしていました。行列の後ろの方についていましたが、道長は気の毒に思い、自身の牛車に招きます。

道長:「先年の事件は、私が(伊周、隆家の処罰を)要請したと世間で噂されていますが、そんなことはありません」

 道長はわざわざ隆家に弁解したのです。隆家は道長の態度に困惑。『大鏡』は、道長も伊周にはここまで弁解しないとし、とりわけ隆家には気を遣っていたことを示唆しています。

気を遣う道長に満足した隆家

 『大鏡』は続けて次の逸話を掲げます。

 政界復帰後の藤原隆家は派手な交際を避けていましたが、藤原道長は遊宴を催したとき、「こういう催しに隆家がいないのはやはり物足らない」と使者を走らせ、隆家を招きます。

 隆家が来たときは宴もたけなわ。

道長:「早く、お召し物のひもをお解きなさい。そんなにきちんとされていては、せっかくの宴も興ざめです」

 隆家が恐縮していると、参加者の一人が「では、私がお解き申し上げましょう」といって近づきますが、隆家は不機嫌になります。

隆家:「この隆家、不運の身の上だが、そなたたちにこんな勝手な扱いをされるような身ではない」

 酒宴の席は一気に緊迫。道長シンパの源俊賢は「きっと一波乱起こるだろう。大変なことになったぞ」とあたりを見回します。しかし、道長はにこやかに対応。

道長:「今日はそんなご冗談はなしにしましょう。そのひもは私が解きましょう」

隆家:「これくらいしていただくなら不足はありませんよ」

 隆家は機嫌を直し、杯を重ねました。ここでも道長は隆家に気を遣った様子が描かれています。

 ライバル・伊周、隆家兄弟を左遷した道長ですが、1年ほどで京に戻し、むしろ懐柔を試みました。政敵を失脚させても追い詰めすぎず、慎重にことを進めたのです。

黒幕は道長?伊周兄弟排除の理由

 長徳の変の前にさかのぼると、長徳元年(995)7月24日、藤原道長と藤原伊周は会議で激しい口論をして、『小右記』に「闘乱のごとし」と書かれています。

 その3日後に道長と隆家の家来同士が七条大路で乱闘。8月2日に隆家の家来が道長の家来を殺害する事件も起き、道長と伊周、隆家兄弟は一触即発の状態でした。

 道長が内覧として権力を握る一方、伊周は中宮・定子の兄であり、一条天皇に頼りにされていました。道長には伊周、隆家を排除する理由がありました。花山法皇襲撃事件を利用し、ほかの嫌疑をデッチ上げた可能性もあります。

おわりに

 藤原伊周、隆家兄弟の花山法皇襲撃は勘違いからのとんでもない愚行ですが、藤原道長は事件を利用し、うまくライバルを蹴落としました。伊周、隆家が勝手に転び、往生際の悪さが事態を悪化させた面もあります。また、復権のチャンスを生かせず、政治家として力量は道長に及ばなかったようです。


【主な参考文献】
  • 山中裕、秋山虔、池田尚隆、福長進校注・訳『栄花物語』(小学館、1995~1998年)
  • 山中裕『藤原道長』(吉川弘文館、2008年)
  • 倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房、2017年)
  • 繁田信一『殴り合う貴族たち 平安朝裏源氏物語』(柏書房、2005年)
  • 倉本一宏編『現代語訳小右記』(吉川弘文館、2015~2023年)
  • 保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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