「藤原伊周」藤原摂関家の若き星 伊周の野望と藤原道長との対立

 いま、2024年の大河ドラマ「光る君へ」が放送されていますね。平安時代が大河ドラマとして取り上げられるのは、平成24年(2012)に放送された「平清盛」以来なので10年以上も前になるようです。ストーリーはもちろん、豪華絢爛な十二単や寝殿造りなどの日本独特の文化、平安貴族や庶民の人々の描かれ方など、毎回楽しみですね。

 さて、今回紹介するのは、「光る君へ」に登場する藤原伊周(ふじわらのこれちか)という人物についてです。ドラマでは三浦翔平さんが演じます。藤原道長の甥であり、最大の宿敵と言われた伊周は、どのような人生を歩んだのでしょうか? 時代に翻弄され、権力争いに破れた若き青年の生涯を紐解いていきます。

藤原摂関家嫡流として誕生

 伊周は、天延2年(974)に藤原道隆と高階貴子(たかしなのきし)の間に誕生しました。

 この当時、伊周の祖父にあたる藤原兼家(藤原道長の父)が兄弟間で権力争いを繰り広げていました。祖父と言っても、このとき兼家は45歳程度ですので、まだまだ政治に関しては現役だったことと思います。

 藤原摂関家の三男として生まれた兼家は、次兄・兼通(かねみち)との確執を抱えながらも数多の困難を乗り越え、摂関家嫡流としての地位を確立していきます。兼家は、当時7歳であった外孫の一条天皇を即位させ、天皇の外戚となって摂政に就任します。

 摂政とは、天皇が女性や子供のとき、代わって政治を務める役職のことを言います。天皇が成人すると、そのまま関白となり、天皇を補佐するのです。当時は、補佐という役職を飛び越え、摂政と関白が政治の中核を担っていました。

※参考:藤原兼家・道隆・道長らの略系図
※参考:藤原兼家・道隆・道長らの略系図

父・道隆の強引な後押しで、異例のスピード出世

 伊周の父・道隆は、兼家からの恩恵を受けて次々と出世し、永祚元年(989)には当時の天皇である円融天皇の反対を押し切り、内大臣に任命されます。

 内大臣とは左大臣・右大臣に次ぐ官職です。すべては兼家の後押しによる昇進でした。藤原摂関家が政治において、どれほどの権力を持っていたか計り知れないですよね。

 正暦元年(990)、兼家の死後は道隆が跡を継いで、摂政となります。そこから道隆による伊周の強い後押しが始まるのです。

 自分の息子の地位を上げたいと思う気持ちは分かりますが、伊周の昇進は異例のスピードでした。正暦2年(991)蔵人頭在任4ヶ月で参議となり、7月には従三位、正暦3年(992)には正三位・権大納言に…。

 官位について分かりやすく説明すると、大納言は現在の国務大臣に相当します。当時、伊周は18歳だったので、現代の感覚からすると、こんなに若い国務大臣がいるなんて信じられませんよね!?

 それからも道隆の強引な後押しは止まりません。正暦5年(994)、21歳の伊周は内大臣に昇進します。8歳年上の叔父・道長を飛び越えての昇進でした。甥っ子に官位を越された道長も、良い気はしなかったでしょう。この強引な昇進により、道隆・伊周の周囲では、彼らに不満を持つ者が増えていったのでした。

父という最大の後ろ盾を失う

 父・道隆は糖尿病を患っていました。病状が悪化すると、自分が病で伏せている間の公務を、伊周に任せることにします。

 伊周は、内覧(天皇に奉る文書を先に見て確認すること)の業務にて文書を自分の都合の良いように訂正を迫ったり、厳しすぎる倹約令を公卿たちに課したりと、次第にその行いが驕り高ぶっていると判断され、一条天皇をはじめとする周囲の公卿たちから反感を買うことになります。

 『小右記』には、宮中の儀式や行事に関して、伊周と周囲の公卿たちとの諍いが数多く残されています。そして、長徳元年(995)遂に、伊周最大の後ろ盾であった道隆が死去します。このとき道隆は43歳。わずか5年間の天下人となりました。

 その後、一条天皇は道隆の弟である右大臣・道兼を関白に任じます。当時の兄弟継承の慣習からすると、伊周よりも上の官位で氏長者でもある道兼が選ばれたことは、順当であったと考えられます。

 また、『小右記』によると、道兼は当時としては珍しく周囲の公卿たちとも良好な関係を築いていたと言われています。しかしこのとき、既に道兼も病に侵され、関白に任命されてから僅か7日後に死去してしまうのです。

 その後、誰が関白の座につくのか、伊周と道長の間で政争が繰り広げられることになります。

叔父・道長との確執

 道兼の死去から3日後、一条天皇は道長に内覧の宣旨を下します。つまり、内覧の仕事を道長にお願いしたのです。この業務は、通常摂政や関白が担うものであり、道長はそれに準じる扱いを受けることになったと言えます。

 順当に考えると、関白は道隆から弟・道兼に引き継がれ、さらにその弟・道長が務めることが普通だと考えられます。しかし、道隆の嫡男・伊周が道長(権大納言)よりも上の内大臣の位にあったため、話がややこしくなってしまったのです。

 数日後、道長は伊周を飛び越えて右大臣に任命されます。これにより、正式に道長が藤原摂関家の氏長者、太政官首席となりました。道長が関白にならなかった理由は、今となっては分かりません。

 これまで自分よりも格下で見下ろしていた叔父が、自分を抜いて昇進したのですから、伊周の心情は穏やかではなかったでしょう。その証拠に『小右記』には、道長と伊周が仗座(公卿らが座って公事を執り行うところ)において口論・乱闘となり、一族は恐れ慄いたと記載されています。

花山院乱闘事件(長徳の変)と晩年

 摂関家内部で対立している中、長徳2年(996)長徳の変と呼ばれる事件が勃発します。

 『三条西家重書古文書』には、花山法皇と伊周・隆家兄弟が、太政大臣・藤原為光の家で遭遇し、従者同士が乱闘に及び、花山法皇に付き添っていた者が2人殺害されたと残っています。

 これは、伊周が自分の想い人である為光三女のもとに花山法皇も通っていると誤解をして待ち伏せし、仕掛けたものでした(花山法皇は為光四女のものに通っていました)。

 上皇に向けて従者が矢を放ったということは、彼らの地位をも揺るがす政治的事件となりました。法皇相手に矢を向けるほど、恋い焦がれていたのでしょうか。その後、伊周は一条天皇の母であり、道長の姉である藤原詮子(ふじわらのせんし)を呪詛した疑いや、大元帥法という行うことの許されていない方法で道長を呪詛していた罪で太宰府へ左遷されることになります。

 この際、母・高階貴子も同行を願いますが、許されることはありませんでした。この時代に太宰府へ行けば、もう二度とこの世では会うことはできないかもしれません。母として、悲痛な思いだったことでしょう。しかし翌年の冬、恩赦によって、伊周は帰京することになります。

 長保元年(999)、伊周の妹である定子が一条天皇との間に第1皇子である敦康親王を出産します。伊周は、敦康親王が天皇の跡継ぎとなることに望みをかけましたが、翌年道長の娘である中宮・彰子が敦成親王を出産したことにより伊周の最後の希望は絶たれたのでした。

 その後、伊周は従二位に叙せられますが、政界での発言権はないに等しく、寛弘7年(1010)失意のうちに37歳という若さでこの世を去ることになります。

文献から読み解く伊周の姿

 自信家、親の七光りのイメージが強い伊周ですが、実際の伊周はどのような人物だったのでしょうか。『枕草子』『大鏡』に登場する伊周を紹介します。

 清少納言は『枕草子』の中で、伊周のことを服のセンスが良く、外見がおしゃれで美男子として描いています。

 清少納言は、自身が仕えていた定子の兄である伊周を、魅力的な人物として好意的に記していたのかもしれません。しかし、清少納言は、身分が高く若い人や乳幼児、年配者は太っている方が素敵だとも記しているので、おそらく伊周は、恰幅が良い青年だったのでしょう。それを裏付けるものとして『大鏡』には、伊周が太っているため狭い通路で下人たちが避けられず、身動きが取れなくなったという逸話が残っています。

 少し恥ずかしい話ですよね。現在の美の観点とは、大きく異なっていたのだと思います。

 また、漢詩に関しては、ずば抜けた才能があったようです。この才能は歌人であった母譲りのものだったのではないでしょうか。才能が認められ、一条天皇に漢籍の授業を行なっていたり、多くの詩文集・漢詩集に作品が残されていたりと、伊周は周囲からも高く評価されていた歌人の一人でした。

まとめ

 今回は、藤原伊周について紹介しました。「光る君へ」では、伊周がどのように描かれるのか、とても楽しみです。

 伊周について書き終えた今、生まれながらにして政治に巻き込まれ、親の七光りにより昇進して周りから反感を買っていた伊周を少し不憫に思います。誰しも親の決められたレールを行けば、天下人になれると幼少期から教えられていたら謙虚になどなれるのでしょうか。

 伊周や摂関家について、ここでお話したものは、ほんの一部に過ぎません。ぜひ皆さんも「光る君へ」の他の登場人物についても、調べてみて下さいね!


【主な参考文献】

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
mashiro さん
もともと歴史好きでしたが、高橋克彦さんの「火怨」を読んでから東北史にどハマり。大学では日本史を学び東北史を研究しました。 現在は自宅保育の傍ら、自宅で仕事してます。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。