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【史跡散策】増上寺敷地内にある徳川家霊廟…江戸時代から戦後までの経緯を追う
- 2024/08/05
芝公園の徳川家霊廟は、江戸幕府の将軍職を務めた徳川将軍家歴代の墓所で増上寺の敷地内にある。
ここには2代秀忠公、6代家宣公、7代家継公、9代家重公、12代家慶公、14代家茂公の6人の将軍が埋葬されている。また、秀忠公の夫人である崇源院、家茂公の夫人である皇女和宮さまら5人の正室、三代家光公の側室である桂昌院ら5人の側室も埋葬されている。
同じ徳川家の霊廟では、寛永寺と比べると狭くひっそりしている。なぜ、徳川家の芝の墓所は、これほど狭く暗いのか・・・と前から不思議だった。
実は、かつて増上寺の徳川将軍家霊廟は、秀忠とその妻、 お江与の方を祀る南御霊屋、六代家宣らを埋葬した北御霊屋、家光第三子の徳川綱重の霊廟が広大な面積を占めていた。杉の大木に囲まれた壮麗な御霊屋は日光東照宮もしのぐと言われたほどで、戦前は御霊屋全体が国宝指定を受けていた。
その壮麗さは、墓所入り口の元文昭院殿(六代家宣)宝塔前中門(鋳抜門)、ザ・プリンスパークタワー東京敷地内の旧台徳院殿(二代秀忠)霊廟「惣門」(国重要文化財)、東京プリンスホテル敷地内の旧有章院殿(七代家継)霊廟「二天門」(国重要文化財)に見ることができる。
明治維新以降、将軍家霊廟は徳川家が所有することになり、そのほとんどは1945年3月と5月の空襲で焼失してしまった。つまり、明治維新後も1945年までは壮麗な霊廟が芝の地に残っていたのだ。
それらの霊廟を破壊したのは米軍による空襲だった。米軍は昭和天皇のいた皇居の空襲を意図的に避けたが、徳川将軍たちが眠る墓所は避けなかった。それでも石造りの墓は残り、戦後、かつての霊廟を再建することもできたはずだった。
ところが戦後になると北御霊屋部分と南御霊屋部分は西武鉄道に売却され、やがて、東京プリンスホテルが開業する。この売 却に伴い、埋葬されていた徳川将軍たちの墓は掘り起こされ、墓ごと現在の場所にまとめて改葬され、土葬されていた将軍の人骨も学術調査の後、荼毘に付され焼かれてしまった。この墓所には、さりげなく小さな説明板がある。
徳川家霊廟がどれだけ広大であったか、そして失われた霊廟の敷地が今どうなっているのかが地図で示されている。それを見れば、まさに徳川秀忠が眠っていたその場所が掘り返され、丸ごと現在の場所に移転させられ、その跡に超高層のザ・プリン スパークタワー東京や西武鉄道が経営するゴルフ練習場が建設されていったことがわかるだろう。
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