「藤原詮子」末弟・道長びいき 政権発足をアシストした藤原道長の姉

東三条院(藤原詮子の院号)の肖像(真正極楽寺蔵、出典:wikipedia)
東三条院(藤原詮子の院号)の肖像(真正極楽寺蔵、出典:wikipedia)
 藤原詮子(ふじわらのあきこ、962~1001年)は藤原道長の姉で、道長政権誕生に大きな役割を果たした女性です。円融天皇の女御となって一条天皇を産み、この一条天皇の25年の治世が実家の隆盛と道長の繁栄をもたらします。一条天皇に道長登用を進言したのも詮子。天皇の母として影響力を発揮し、実弟・道長の政権発足をアシストし、後々まで道長に感謝されました。道長の姉の生涯をみていきます。

円融天皇の女御、一条天皇の生母

 藤原詮子は、摂政・関白・太政大臣の藤原兼家の三女。同母兄弟に、いずれも摂政か関白に就いた兼家長男の道隆、三男・道兼、五男・道長がおり、同母姉は冷泉天皇の女御で三条天皇の生母となった兼家長女・超子(とおこ)です。

 詮子は天元元年(978)、17歳で円融天皇の女御となり、天元3年(980)6月1日、実家・東三条第で懐仁親王(一条天皇)を出産。父の栄達に貢献します。

藤原詮子の略系図
藤原詮子の略系図

「あきこ」?「せんし」? 女性の名の読み方

「詮子」を「あきこ」と読むのはあくまで推定。専門書などは「せんし」と読んでいます。これは、読み方が確定していない以上、適当な読み方を当てず、漢字本来の音を当てる暫定措置です。

 実際には訓読みされ、『古今和歌集』には「慧子」を「あきらけいこ」と読む例があります。また、「明子」、「高子」は「あきらけいこ」、「たかいこ」と読まれたと推定され、平安時代中期頃から「あきこ」「たかこ」と現在のような読み方になります。

 「詮子」を「せんし」と読むのは、不確定部分に予断を挟まないという厳格さでは正しいのです。ただ、実際にそう読まれていたわけではありません。

ライバルが皇后に「実家に帰ります」

 円融天皇の一粒種である皇子を産んだ詮子でしたが、その2年後の天元5年(982)、円融天皇の中宮(皇后)となったのは関白・藤原頼忠の次女・遵子(のぶこ)でした。兼家、詮子の父娘はショックで東三条第に引きこもったといわれます。

 『大鏡』には、遵子の弟・藤原公任によるこの邸宅門前での放言の逸話があります。

公任:「ここの女御はいつになったら皇后になるだろうか」

 皇子を産みながら皇后になれなかった詮子への皮肉。公任はかなり調子に乗っていました。ところが、懐仁親王(一条天皇)が即位すると、詮子は皇太后となり、立場は逆転。

 ある時、公任は詮子に仕える女房から辛辣にやり返されます。

女房:「皇子を産まなかったお后さまはどちらにいらっしゃいますか」

公任:「先年の失言を根に持たれたなぁ。あれは自分でもまずかったと後悔した。こんなひどいことを言われるのも、もっともだ」

実は以前から円融天皇とギクシャク?

 ただ、詮子は出産のための里帰りから内裏に戻った形跡がなく、天元3年(980)11月や天元5年(982)11月の内裏の火事では、遵子らが避難したという記録はあっても、詮子の行動は不明。詮子の引きこもりは遵子が中宮となる前からだった可能性があります。円融天皇と詮子との関係は冷え切っていたのか、和歌の交換も残っていません。

 もちろん、遵子が中宮となったことで円融天皇と詮子、藤原兼家の関係は、いっそう険悪化します。

初の女院「東三条院」出家後は上皇待遇

 正暦2年(991)、詮子30歳のとき、円融法皇が33歳で崩御。詮子は9月に内裏を退出し、出家。「東三条院」という院号が与えられます。これが女院の初めての例。上皇並みの待遇です。庶務を担当する機関「院庁」が置かれ、別当(長官)をはじめとする職員が仕えました。

道長と明子の結婚を仲立ち

 詮子は出家前、源高明の娘・明子を引き取り養育しました。明子の父・源高明は醍醐天皇の第10皇子で、臣籍降下し、左大臣まで昇進しますが、安和2年(969)、安和の変で失脚。後ろ盾を失った源明子は叔父・盛明親王(醍醐天皇第15皇子)に養育されますが、親王も寛和2年(986)に他界。その後は詮子のもとで暮らします。

 年齢差は3歳で、詮子による養育期間は長くないのですが、『大鏡』によると、かなり大切に扱ったようです。そして、詮子の同母兄弟である道隆、道兼、道長がいずれも明子にラブレターを送って求婚。詮子のお眼鏡にかなったのは道長でした。

 永延2年(988)頃、明子は道長の側室となります。

道長登用訴え一条天皇の寝所で直談判

 長徳元年(995)、詮子の同母兄弟で、ともに関白の地位に就いた道隆、道兼が相次いで死去。このとき、道隆の嫡男で22歳の伊周(これちか)は右大臣、30歳の道長は権大納言。詮子にとって甥と弟が政権をめぐって争います。

「兄弟順なら道長」道理を説く詮子

 一条天皇の意向は伊周の関白就任。伊周は中宮・定子の兄だからです。

 これに「待った」をかけたのが詮子です。

詮子:「道長が伊周に大臣を先んじられたことも気の毒なのに、道兼は関白にしておいて、その弟の道長はしないというのは気の毒というより、陛下ご自身のために不都合なことだと世間の人も噂するでしょう」

 詮子の主張のポイントは次の通りです。

・伊周の出世人事は、道隆が強引に行ったもの。
・道隆、道兼の兄弟順に従えば、次は道長というのが道理。
・道理に合わない決定をすると世間に悪い噂が流れる。

 すっかり気を重くした一条天皇が会わなくなると、詮子は天皇の寝所に押しかけて涙ながらに訴えました。

 道兼の死から3日後の5月11日、道長は関白に近い権限のある内覧に就きました。6月には権大納言から右大臣、長徳2年(996)には左大臣と昇進します。

批判もあった詮子の政治介入

 内裏の清涼殿夜御殿での直談判は『大鏡』の創作の可能性がありますが、道長が内覧に就いた後の5月18日、6月20日、一条天皇は詮子のもとを訪れており、母子の間で何らかの意見調整はあったようです。詮子は天皇の母として強い発言権を持っており、藤原実資は『小右記』で詮子の政治介入を批判しています。

 また、詮子は出家後、道長の邸宅・土御門第に移っており、詮子が道長の後ろ盾ということは、政権交代前から衆目の一致するところでした。

詮子の葬送で遺骨を首にかけた道長

 長保3年(1001)、閏12月22日、詮子は40歳で死去。23日、京郊外の鳥辺野で葬儀があり、25日には父母の墓がある木幡(京都府宇治市)に遺骨が移葬されました。

 『大鏡』や『栄花物語』には、道長が詮子の遺骨を首に掛け、葬送したとありますが、実際は遺骨を抱えて葬送したのは甥の藤原兼隆(道兼の次男)です。

「四十の賀」道長の子息が舞楽披露

 その年の10月、詮子の「四十の賀」があり、『大鏡』や『栄花物語』には、道長の長男・頼通が「陵王」を、次男・頼宗が「納蘇利」という舞楽を舞ったという記事があります。

 「四十の賀」は長寿の祝いで、当時は40歳から10年ごとに長寿を祝う風習がありました。後の関白・頼通もこのときは10歳、頼宗は9歳。2人は詮子の甥で、頼通は道長正室・倫子の子、頼宗は側室・明子の子です。2人の舞は絶賛されますが、詮子は頼宗の舞の師匠に従五位下の位階を授けるなど、頼宗の方をかわいがっていたようです。倫子が少し機嫌を損ね、頼通の舞の師匠にも後から位が授けられました。

定子の残した孫娘を養女に

 詮子は一条天皇の皇后・定子が崩御した後、残された媄子内親王を養女として引き取りました。媄子内親王は一条天皇の第2皇女。詮子の孫に当たります。

 詮子が養育したのは死の間際の1年。病気に苦しむ詮子の姿に気付いて幼い媄子内親王が落ち着きなく騒ぎ、懐から離れようとしない涙誘う姿が『栄花物語』にあります。手元で養育した幼い媄子内親王は死を目前にした詮子の心を慰める存在でしたが、詮子のもとを離れることになります。

 媄子内親王は、定子の遺児が預けられている定子の妹・御匣(みくしげ)殿のもとに移りますが、御匣殿は2年後に亡くなり、媄子内親王も9歳で夭逝しました。

側近の報告に言葉のない一条天皇

 『栄花物語』では、一条天皇の行幸があり、病床の母・詮子を見舞います。感動的な最後の母子対面です。一方、道長の側近・藤原行成の日記『権記』では、詮子の葬送について報告する行成に対し、一条天皇からは他事に関する言及はあっても、母に関する言葉は記録されていません。不思議な沈黙から一条天皇の背後の複雑さが垣間見えます。

おわりに

 詮子は一条天皇の母、道長の姉として、際立った決断力、行動力を発揮した女性です。

 中宮になれなかったときは円融天皇に強烈な意趣返しをし、初の女院として院政は敷かないまでも、それなりの政治力を駆使。長徳元年(995)の政権交代では、若くして出世し、周囲の貴族から妬まれている伊周より、実力本位で道長を選んだのは、わが子・一条天皇の治世の安定を願ってのこと。

 結果的には、伊周に同情的だった一条天皇とは溝ができたかもしれません。一方で道長には終生、感謝されました。

【主な参考文献】
・倉本一宏『一条天皇』(吉川弘文館、2003年)
・倉本一宏『藤原道長の権力と欲望』(文藝春秋、2013年)文春新書
・保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫
・山中裕、秋山虔、池田尚隆、福長進校注・訳『栄花物語』(小学館、1995~1998年)
・大津透、池田尚隆編『藤原道長事典』(思文閣出版、2017)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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