類まれな美しさと聡明さ 稀代の遊女・吉野太夫の生涯
- 2024/09/03
吉野太夫(よしのたゆう)は、夕霧太夫・高尾太夫と共に「寛永の三名妓」と称されている。遊女の頂点である太夫として当時の女性たちのあこがれの的となりながら、廓を出た後は1人の女性として夫と共に静かに暮らした吉野太夫。美しさだけでなく、情け深く、教養も高かった吉野太夫はどのような生涯を送ったのか。
今回は、伝説にまでなった吉野太夫の生涯と逸話を紹介しよう。
今回は、伝説にまでなった吉野太夫の生涯と逸話を紹介しよう。
吉野太夫の生い立ち
吉野太夫は、京都東山の方広寺近くで生まれたとされる。方広寺は、三十三間堂から北へ3分ほど歩いたところにあり、大坂の陣(1614~15)のきっかけになった「国家安康 君臣豊楽」の銘文が刻まれた鐘で有名な寺院である。かつては秀吉が建立した大仏があった。吉野大夫の本名は松田徳子、父は元西国の武士だったと言われている。徳子が6歳の時、父が亡くなる。その後、六条三筋(のち島原に移転)の置屋・林屋に、禿(かむろ)として抱えられ、林弥(りんや)と名乗った。林弥が吉野太夫を襲名したのは14歳、元和5年(1619)のことである。
吉野太夫という名跡
吉野太夫は、京都の太夫として代々伝わる名跡で、十代目まであったと伝わっている。林弥は2代目の吉野太夫であるが、そのほかの吉野太夫については詳細がわかっていない。そのため、「吉野太夫」とは、2代目の吉野太夫を指す。 「太夫」とは、遊女や芸妓の中で最高の位に与えられた称号で、容姿端麗はもちろんのこと、さまざまな芸事に通じ、高い教養を持った者のみが襲名できる。江戸の吉原にも初期には太夫がいたが、次第に太夫の名跡はなくなり、「花魁(おいらん)」が最高位の称号となった。
容姿・諸芸・人格ともに優れた名妓
吉野太夫は、あでやかな美貌はもちろん、琴・琵琶・笙が得意、和歌・連歌・俳諧にも通じ、香道・茶道・華道・書道・囲碁・すごろく・貝合わせまでも極めたという。さらにその人格も情け深く優れていたというのであるから、まさに向かうところ敵なしという感じだ。吉野太夫の名は、当時の明(中国)にまで知れ渡り、「東に林羅山、西の徳子よし野」と聞こえていたという。
寛永の三名妓
寛永年間(1624~1644)には、吉野太夫と共に稀代の名妓と呼ばれた太夫がいた。夕霧太夫(ゆうぎりたゆう)と高尾太夫(たかおだゆう)である。話は少し外れるが、彼女たちについても少し紹介しておく。
夕霧大夫は大坂新町の遊女である。生まれは京であるが、大坂へ移った後、大坂で最初の太夫となっている。美しい容姿だけでなく、芸事にも秀で、歌舞伎や浄瑠璃作品のモデルにもなった。しかし、26歳という若さで亡くなった。
高尾太夫は江戸吉原で代々世襲されていた名跡だが、名妓として知られているのは、2代目である。2代目高尾(仙台高尾)の最も有名な逸話は、仙台藩藩主・伊達綱宗に見初められたにもかかわらず、その意に従わなかったため斬殺されたというものだが、真偽のほどはわからない。彼女も19歳で亡くなっている。
傾城吉野太夫 関白と豪商の身請け争い
吉野太夫のなじみ客には、皇族、文化人、政財界の超一流の人物が多数いた。吉野太夫お披露目の際には、出雲松江藩主・堀尾忠晴が化粧代として千両を用意したという話もある。中でも特筆すべきは、関白・近衛信尋(このえ のぶひろ)と灰屋紹益(はいや じょうえき)が、どちらが太夫を身請けするかで競ったことだ。近衛信尋は、後陽成天皇の皇子であり、後水尾天皇の実弟であり、近衛信尹の養子となった人物だ。一方灰屋紹益は、京を代表する豪商の後継ぎであり、本阿弥光悦の遠戚であり、『にぎはひ草』という随筆を著し、茶の湯にも通じている文化人である。公家と豪商の身請け争いは、京の人々には絶好の噂話だったに違いない。
結局、この競い合いは紹益が千両もの大金で勝利、吉野太夫は落籍後26歳で結婚している。ちなみに紹益は22歳であった。
結婚後の吉野
灰屋紹益は、染色に使用する灰を全国規模で扱う京の豪商の跡取りであったが、遊女と結婚することに父親が大反対し、それを押して吉野太夫と結婚したことで紹益は勘当されている。吉野はそんな紹益を支え、きらびやかな太夫時代とは無縁の質素な暮らしをしていたらしい。愛情豊かな夫とともに、花を愛で、歌を詠み、茶を点てるという風流な暮らしの中で、吉野はささやかながら幸せを感じていただろう。やがて紹益の父親は、吉野の人柄に触れ、勘当を解く。
静かで安らかな暮らしがずっと続くはずだった2人に、思いもよらない別れが訪れる。
吉野を偲ぶ
寛永20年(1643)、吉野は38歳という若さでこの世を去る。死因はわかっていない。紹益との結婚生活はわずか12年であった。紹益は、亡き妻を偲び、吉野の遺灰を酒に入れて、毎日少しずつ飲んだという。吉野を偲んだ紹益の歌がある。
「都をば 花なき里と なしにけり 吉野を死出の 山にうつして」
簡単に意訳すると
「吉野があの世に去ってしまったために、京の都は花(桜)がない里になってしまった(それほど私は悲しくて切ない))」
歌の知識がなくても、彼の悲しみの声が迫ってくるようだ。
吉野は、彼女が赤門(吉野門)を寄進した京都市北区鷹峯の常照寺に葬られた。常照寺では、毎年4月第3日曜日に吉野大夫花供養が行われている。
吉野太夫の人となりがわかる逸話
太夫時代の吉野の美しさ・あでやかさ、そして結婚後の慎ましい暮らしぶりに、吉野は「遊女の鑑」とも言われ、今に伝わる逸話も多い。寝乱れ姿でさえ、凄まじい美しさ
六条三筋の太夫らが豪華絢爛に着飾り、美しさを競う集いでのこと。寝坊した吉野太夫は、寝床から急いで現れた。化粧も施さず寝乱れ姿のままでありながら、吉野の圧倒的な美しさにその場は水を打ったように静まり返ったという。若い職人への慈悲
吉野太夫クラスになると、一般の男性ではとても相手などしてはもらえない。まさに高嶺の花である。そんな吉野太夫を見初め、思いを寄せた若い男性がいた。刀鍛冶職人・駿河守金網の弟子である。彼は必死でお金を集め、妓楼に向かうが、客としての格が合わないと門前払いを食らった。それを聞いた吉野太夫は、密かに彼を招待し、一夜の思い出を作ったという。
井原西鶴の『好色一代男』にも登場?
『好色一代男』とは、大富豪の息子・世之介の自由奔放、好色な人生を描いた小説だが、その中に吉野太夫がモデルとなった話がある。前述の若い職人との話を聞いた世之介が「これぞ女郎のあるべき姿」と絶賛し、彼女を落籍させて妻にしている。また、親族一同から結婚を反対された世之介と太夫の話も出ている。激しい反対をしていた親族が、太夫の優れた人柄や高い教養に魅了され、結婚を認めるという筋だが、これも紹益との結婚を基に描かれたものだと考えられる。
また西鶴は、吉野太夫の情け深さをこのような言葉で誉めている。
「なき跡まで名を残せし太夫。前代未聞の遊女也。いづれをひとつ、あしき(悪しき)ともうすべきところなし。情第一深し」
欠点などひとつもない、前代未聞の遊女。それが吉野太夫だった。
あとがき
苦界に身を置いていた彼女には、多くの遊女のように誰にも分らない苦労もあっただろう。法華経の熱心な信者でもあった吉野は、辛いことや苦しいことも仏にすがり、耐えていたのだろう。しかし吉野は、普通の遊女には到底経験できないあでやかな太夫時代と穏やかな結婚生活の両方をすごすことができた。彼女は多分幸せだった。それは、持って生まれた美しさだけでなく、必死の努力があったからだと思う。史実には決して見えてこないが、彼女の本当のすごさはその努力だったのではないだろうか。
吉野太夫の命日は、吉野忌や吉野太夫忌として、季語にもなっている。吉野が葬られている常照寺には、今も吉野太夫を偲んで訪れる人が見られる。
【主な参考文献】
- 仙道弘『日本をつくった女たち』(水曜社、2004年)
- 『日本史人物辞典』(山川出版社、2000年)
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ)
- 井原西鶴『好色一代男』(国立国会図書館デジタルコレクション)
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