日本の三大遊廓、島原・新町・吉原の誕生

 日本の三代遊郭である京都島原・大坂新町・江戸吉原はどのように始まったのでしょうか。

男一度大門を打つ

 「男一度大門(おおもん)を打つ」 これがお江戸の男の夢だったとか。”大門” とは吉原での唯一の客の出入り口に設けられた門のことです。”大門を打つ” とは、この門を締め切って自分一人のために吉原遊女を総揚げにして遊ぶ事です。現代で例えれば、テーマパークを貸し切るぐらいの意味でしょうか。

 豪商の紀伊国屋文左衛門が生涯に3度これをやって身上を潰したとの話があります。そんな男の夢の国・吉原はどのようにして出来たのでしょうか。

紀伊國屋文左衛門の肖像 (栗原信充 画、出典:wikipedia)
紀伊國屋文左衛門の肖像 (栗原信充 画、出典:wikipedia)

公娼は鎌倉の頃から

 知られているように吉原は幕府公認の遊里です。女性が金や物と引き換えに体を売る行為は、それこそ「この猪肉をやるから抱かせろ」ぐらいの大昔からあったのでしょう。

 これが公娼となると『吾妻鏡』の建久4年(1193)5月の記述に、遊君別当(ゆうくんべっとう)の職名が見えます。別当とは鎌倉幕府の役所の長官を差しますから、遊女を取り締まる役所が設けられていたようです。これがおそらく記録に残る最初の公娼制度に関する記述と思われます。

 続く室町幕府は傾城局(けいせいのつぼね)を造り、遊女に官許の鑑札を与えて年15貫文の税金を取り立てました。これは当時の大工の日当100日分くらいです。当時の室町幕府は、将軍が何度も都を追い出されるなど権威は下がる一方、財政面も厳しく、遊女の上前もはねるようになりました。

秀吉が造った二条柳町遊郭

 天正17年(1589)、豊臣秀吉の肝入りで京都二条柳町に遊郭が造られます。秀吉の馬の口取りをしていた原三郎左衛門という男が京の街を馬を引いて歩いている時、市中に散らばる遊女を集めて遊里を造りたいと申し出ました。

 応仁の乱で荒れ果てた都を、今一度華やかな街にしたいと考えていた秀吉もすぐに乗り気となります。「京中の傾城を集めて着飾らせ、局・格子を飾り、糸竹の調べに歌舞を尽くし、衆人を慰めて京師の賑わいとしたい」と言ったとか。

 王朝文化の雅に憧れていた秀吉としては、遊里は色を売る場所と言うよりも、美しく着飾った女性が音曲を奏で、舞を舞い、平安王朝の華やかさを再現する場所だったようです。

 秀吉の後押しを得た三郎左衛門は、林又一郎という男と共に遊郭建設に取り掛かり、1年もしないうちに柳並木に囲まれた廓を造り上げます。その華やかさをみて、秀吉は「国家安泰の瑞相なり」と喜び、お忍びで出かけては扇で顔を隠しながら美しい傾城たちを見て悦に入っていたとか。

これに先立って大坂の道頓堀川の北にも遊郭が造られ、後に新町へ移って新町遊郭となります。柳町遊郭は島原へ移って島原遊郭となり、この2ヶ所が江戸の吉原とともに日本三大遊郭に数えられます。

女日照りの江戸にわらわらと押し寄せる傾城屋

 最後に登場し、日本最大の遊郭にのし上がったのが吉原です。慶長8年(1603)、征夷大将軍となった徳川家康が江戸に幕府を開くと、江戸では土木建築工事が大々的に行われ、職人や人足が大勢集まって来ます。

 また戦乱の世が終わり、働き口を無くした浪人たちも仕官の口を求めて全国からやって来て、江戸の人口は爆発的に増えますが、集まってきたのは男ばかり。江戸はみるみる女日照りの街となりました。一時は男女比が7対3にまで近づいたとか。

 これを聞いて願ってもないビジネスチャンスとばかりに、駿河や上方の傾城屋が江戸に移転して来ます。当時は遊女を置く店を傾城屋と呼びました。彼らは麹町(現東京都千代田区麹町)や鎌倉河岸(現東京都千代田区神田あたり)、京橋角町(現東京都中央区京橋あたり)などに店を開き、大いに繁盛します。

 斎藤月岑が記した江戸の地誌『武江年表』によると、「麹町八丁目に十六、七軒、京六条より来る」とありますから京都からもやって来ました。

 これらの傾城屋は大いに繁盛し、遊女の数も増え、慶長10年(1605)には幕府が100人余りの遊女を箱根の西へ追放するまでになります。

吉原惣名主庄司甚右衛門

 江戸幕府は江戸の街を整備するため町人を強制的に移転させます。また傾城屋などは軽く扱われたのでしょう。たびたび移転を求められます。これに音を上げた傾城屋の楼主たちは、庄司甚右衛門(当時は甚内)と言う男を代表に立てて幕府と交渉を始めます。

 甚右衛門は京橋柳町で傾城屋を営んで居ましたが、元誓願寺前へ移転を命じられたのをきっかけに、江戸の各所に散らばっていた傾城屋を一ヶ所にまとめ幕府の公認を得た遊女町を造りたいと申し出ました。

 甚右衛門は町奉行米津勘兵衛に、駿府や京・大坂にはすでに遊女町が造られており、日ごとに繁栄して行く江戸の街にも遊女町を造るべきだとの設立要望書を提出します。

 当時、幕府は大坂の陣で滅ぼした豊臣家の後始末に大忙しで、甚右衛門の申し出など放って置かれましたが、その後の元和3年(1617)、ようやく甚右衛門を惣名主として公認遊郭設立を許可します。

吉原誕生

 元和3年(1617)3月、町奉行嶋田利政は甚右衛門を評定所に呼び出し、江戸の一ヶ所に限って遊郭を設置する許可を与えます。場所は葺屋町東(現東京都中央区日本橋堀留町)の2町四方、約5875平方メートルです。当時は湿地帯で葭(よし)が生い茂るばかりの江戸のはずれでした。

 営業開始は翌年の元和4年(1618)からで、営業も昼間のみと条件がつけられます。ここは元吉原と呼ばれ、この後の明暦の大火に追われるようにして新吉原へ移転するのですが、ともかく公営遊郭が誕生しました。

新吉原(1872年頃、出典:wikipedia)
新吉原(1872年頃、出典:wikipedia)

おわりに

 現在「吉原」と聞いて思い浮かべる独特のしきたりや華やかな花魁道中は、新吉原へ移ってからのことがほとんどです。新吉原へ移転の時もドタバタ騒動が起こりました。機会があればご紹介したいと思います。


【主な参考文献】
  • 安藤優一郎『江戸の色町遊女と吉原の歴史』(株式会社カンゼン、2016年)
  • 堀江宏樹『三大遊郭』(幻冬舎、2015年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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