「高階貴子」藤原道隆の妻 キャリアウーマンで情熱家だった?

 高階貴子(たかしなのたかこ、?~996年)は藤原道隆の正室で、一条天皇の中宮・定子や藤原道長のライバル・伊周(これちか)、隆家らの母として中関白家(道隆の家系)の繁栄を支えました。しかし、道隆死後、その弟・道長の政権となり、一家は凋落。左遷される伊周、隆家を案じ、その帰京を迎えることなく病死しました。栄華と悲運が折り重なった貴子の生涯をみていきます。

「儀同三司母」百人一首の歌人 漢詩の才能も

 高階貴子は高階成忠の娘。「高内侍(こうのないし)」「儀同三司母(ぎどうさんしのはは)」とも呼ばれます。

 生まれた年は不明ですが、天暦7年(953)生まれの藤原道隆との年齢差はあまりないとみられます。2人の間に子ができたのは道隆22歳のとき。道隆には既に妻子がいました。

教育ママ? 才媛・定子を仕込んだ

 貴子は苦労して育ったとみられ、宮仕えもしています。円融天皇の時、掌侍(ないしのじょう)を務めました。天皇の女性秘書の役所・内侍司の3等官です。

 「高内侍」は氏族名「高階」の略称「高」と官職「内侍」を合わせた呼び名です。

 和歌や漢詩の文才があり、宮中の詩宴に出席したほど。『大鏡』では男性よりも優れていたといい、仕事のできるキャリアウーマンという感じです。長女・定子の教養や機知に富む快活さも母親譲り、貴子の教育の影響と考えられます。

「今日死んでもいい」熱烈な和歌

 貴子の和歌が「百人一首」に選ばれています。

 54番「儀同三司母」が貴子です。「儀同三司」は三司(太政大臣、左大臣、右大臣)と儀礼的に同格という意味。准大臣として藤原伊周が「儀同三司」を自称しました。

〈忘れじの行く末まではかたければ 今日をかぎりの命ともがな〉

(「いつまでも忘れない」と言われ、今日限りの命であってほしいものです)

 この歌は新婚の頃に詠まれ、永遠の愛を誓う藤原道隆の言葉に「今、このまま死んでもいい」という嬉しさをストレートに表現した情熱的な歌と読めます。しかし、一般的な解釈は、男性は心変わりをするものなので、今が幸せの絶頂であり、将来を悲観する気持ちを読んだ歌とされます。

 「いつまでも忘れないと言われても、ずっとそうなのか怪しいもので、そう言われた今日が最後の命であればいい」と、恋が成就したとたん将来の不安を抱く気分。これは和歌のパターンの一つで、悲恋こそ和歌の主要テーマです。この歌は当時から高い評価を受け、『新古今和歌集』などに取り上げられています。

清少納言『枕草子』にも登場 3男4女の母

 藤原道隆は関白、摂政として栄華を極め、父・兼家と弟・藤原道長の中間に栄えたとして、「中関白」と呼ばれます。

 貴子は道隆との間に3男4女をもうけます。男子は道隆三男・伊周、四男・隆家、僧となった隆円(りゅうえん)。女子は長女・定子、次女・原子(もとこ)、三女・敦道親王妃、四女・御匣殿(みくしげどの)です。

※参考:高階貴子の略系図
※参考:高階貴子の略系図

定子だけじゃない 個性的な子たち

 貴子の最初の子・伊周と末子・御匣殿の年齢差は11歳前後とみられます。

 伊周、隆家は長徳の変で失脚。伊周は正暦5年(994)、21歳の若さで内大臣に任官し、父の死後、関白になるかならないかというところまで来ていながら、道長との政争に敗れました。

 隆家は気骨のある人物で、失脚後、政界に復帰。大宰権帥在任中の寛仁3年(1019)、刀伊(とい)の入寇では外敵、海賊を撃退しました。

 隆円は延暦寺の僧。10代で僧都(権少僧都)に任じられました。

 定子は一条天皇の中宮。3人の皇子皇女を産みますが、24歳の若さで崩御。

 原子は、居貞親王(三条天皇)の妃。『枕草子』では姉・定子がその美貌を認めています。長保4年(1002)8月、定子や妹・御匣殿の後を追うように死去。『大鏡』によると、22~23歳でした。

 三女は実名不詳。敦道親王妃で、『枕草子』によると、姉妹の中では大柄。『大鏡』にはかなりの奇行がみられます。

 四女も実名不詳ですが、姉・定子の御匣殿別当を務め、「御匣殿」と呼ばれます。御匣殿は天皇、皇后の衣装に関わる部署、別当は長官です。定子の遺児を養育し、一条天皇に愛され、懐妊しますが、長保4年(1002)6月、身重のまま死去。10代後半とみられます。『大鏡』はかなり美人だったとしています。

貴子の衣装に気を配る道隆

 中宮・定子に仕えていた清少納言の『枕草子』に、わずかながら貴子が登場します。

 「法興院積善寺供養の段」は正暦5年(994)2月を回想。貴子の衣装に気にする道隆の姿が見えます。

道隆:「絵に描いたようなみなさん(定子の妹たち)のご様子ですね。わが妻は少し軽装のようですが」

 この場面では、正装した中宮・定子の前で、たとえその母でも軽装はいかがなものかという指摘を含んでいます。また、この章段では、貴子は几帳を引き寄せて清少納言ら新参の女房に姿を見せないことが言及され、清少納言とは、それほど親しくなかったようです。

「長徳の変」配流のわが子を案じながら病死

 長徳元年(995)、藤原道隆が43歳で死去し、中関白家の栄華は暗転します。道隆が強引に昇進させてきた三男・伊周は内大臣でしたが、権力は権大納言の道長の手に落ち、長徳2年(996)、花山法皇襲撃事件を契機とした政変「長徳の変」で伊周、隆家は失脚。4月24日、伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守への左遷が決まります。実質的な配流です。

 貴子の兄弟である高階信順(さねのぶ)、道順(みちのぶ)も連座して左遷されました。

出発の車に取り付き、同行嘆願

 出産を控えて内裏を離れ、二条北宮に入っていた定子は兄弟をかばい、伊周、隆家は出頭しなかったので、長徳2年(996)5月1日、二条北宮に大がかりな強制捜査が入ります。女房たちが泣き叫ぶ中、貴子は逃げ隠れず、毅然と立ち会います。

 隆家や高階信順は逮捕されますが、伊周は高階道順とともに愛宕山(京都府京都市右京区)に逃亡。数日後、京に戻ってきて、ようやく九州へ出発します。貴子は牛車に取り付いて同行を嘆願しますが、許されるはずもなく、この後、病床に伏してしまいます。

 一方、定子は天皇の正室・中宮でありながら出家するという異常事態に発展します。

貴子の病状を心配し勝手に帰京

 長徳2年(996)5月15日、病気を理由に伊周は播磨、隆家は但馬にいったん留まることが許されます。10月初め、貴子の病状を心配した伊周が勝手に帰京。隆家も貴子の見舞いなどを理由に京への帰還を願い出ます。兄弟に貴子の病状が伝わり、母に一目会いたいという気持ちがあったようです。
貴子は10月末に病死。伊周、隆家の行く末や身重のまま出家した定子など心配事ばかりを抱えて最期を迎えたのです。年齢不詳ですが、40代だったとみられます。

おわりに

 藤原道隆には側室が何人かいますが、貴子が正室とされているのは実家の家格ではなく、定子のように天皇の后にふさわしい女子を産んだことが大きかったと想像できます。道隆の愛情が長く続いた結果です。

 貴子は自身の経験から女性でも教養は必要と認識し、定子の教育にはかなり力を入れたようです。一方で、長徳の変で事件を引き起こしてライバル・藤原道長に付け入る隙を与え、その後の対応でも醜態を晒している伊周は随分甘やかされて育った気もしますが……。


【主な参考文献】
  • 倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房、2017年)
  • 松尾聰、永井和子校注・訳『枕草子』(小学館、1997年)
  • 保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫
  • 有吉保訳注『百人一首』(講談社、1983年)講談社学術文庫

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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