「藤原道隆」中関白といわれた藤原道長の長兄 『大鏡』から探るその人物像とは
- 2024/01/04
藤原道隆とは
藤原道隆(ふじわらの みちたか)は、藤原道長の時代に全盛となる摂関家 “藤原氏” の基盤を作った藤原兼家の長男です。道長や超子(三条天皇母)、詮子(一条天皇母)の同母兄にあたります。 一条天皇の時代に、父の兼家から関白を引き継いで実権を握りました。父兼家と弟道長の間の関白だったため、彼はのちに“中関白”といわれるようになります(ゆえに、道隆の一族は中関白家と呼ばれます)。また、娘の定子を一条天皇の后として入内させます。
ちなみに定子の女房があの有名な“清少納言”ですね。ですから、彼女の書いた『枕草子』にも道隆はしばしば登場します。
「藤原道隆ってどんな人?」と聞かれると、摂関家 “藤原氏” の中心人物として活躍したにもかかわらず、スラスラと答えられる人は意外と少ないかもしれません。どうしても先述の有名な3名(道長、超子、詮子)の陰に隠れる少しマイナーな存在です。しかし、道隆から始まる中関白家次第では、のちに訪れる道長の栄華も無かったのでは? と言えるほどに歴史的に重要な人物なのです。
そこで今回も『大鏡』(平安時代後期に成立した歴史物語)の記述から、この藤原道隆を知っていただけたらと思います。
大酒飲み
道隆を紹介するにあたり、絶対に外せないのは “相当な大酒飲み” だったということでしょう。お気に入りの “カラスがとまっている形にした徳利” にお酒を入れて持ち歩き、何かというと直ぐにお酒を飲みだす程に酒好きだったようです。摂関家の定例行事、賀茂詣での話です。下賀茂神社では、土器(かわらけ)に注がれた御神酒を三杯飲むのが通常です。しかし、道隆が関白として詣でたときは、
「禰宜・神主も心得て、大土器をぞまゐらせしに、三度はさらなることにて、七八度など召して」
(禰宜も神主も分かっていて、大土器をさしあげたところ、3杯は言うまでもなく、7、8杯召し上がりました)
「上社にまゐりたまふ道にては、やがてのけざまに、後の方を御枕にて、不覚にも御殿籠りぬ。」
(上賀茂神社へ参拝される道中では、仰向けになられ、車の後ろの方を御枕にして、不覚にも寝てしまった。)
と書かれています。
酒をいっぱい飲んで車に揺られながら寝る…。贅沢な話にしか聞こえませんね。ちなみにこの後、上賀茂神社に着いた道隆は寝込んでいてなかなか起きません。同行していた道長に袴の裾を引っ張られてようやく起きるのですが、その時の様子は
「御櫛・笄具したまへりける取り出でて、つくろひなどして、おりさせたまひけるに、いささかさりげなくて、清らかにてぞおはしましし。」
(ご持参の櫛・笄を取り出して、しっかりと身づくろいなどなさり、車からお降りになりました。酔って寝込んでいた様子には見えず、実におきれいでいらっしゃいました。)
とのことです。さらに
「この殿の御上戸は、よくおはしましける。」
(道隆の飲みっぷりは立派でいらっしゃいました。)
と評価されています。酒飲みにとっては最高の褒め言葉ですね。
酒仲間の存在
酒飲みといったら大抵、酒仲間がいます。道隆にも酒仲間はいたようです。藤原済時と藤原朝光です。・藤原済時…道隆父(兼家)の兄である兼通の息子
・藤原朝光…道隆祖父(師輔)の弟である師尹の息子
ある年の賀茂祭のご帰還の儀(斎院が上社から帰ってくる儀式)を道隆は済時、朝光と一緒に牛車に乗って見に行きます。そのときも3人は車中で酒盛りしたそうで、その様子を
「もてはやさせたまふほどに、やうやう過ぎさせたまひて後は、御車の後・前の簾皆上げて、三所ながら御髻はなちておはしましけるは、いとみぐるしかりけれ。」
(ご機嫌で盛んに飲んでいるうちに、しだいに深く酔っぱらってしまい、お車の前後の簾を全て巻き上げて、3人とも冠を脱いで髻まる見え状態でいたのは、本当に見苦しいものでした。)
と、ここは冷やかに書かれていました。飲みすぎて羽目を外して大失敗し評判を落とす… 飲み会ではよくあることですので、みなさんも気を付けましょう。
この他、道隆は済時と朝光が自分の家に来ても、”しらふ”のまま(お酒を飲まずに)帰ることを残念がったそうです。
「いと本意なく口惜しきことに思し召したりけり。」
(たいそう不本意で残念なこととお思いになった。)
「どれだけ一緒に酒が飲みたいんだよ!」と、ツッコミを入れたくなるくらい仲が良いですね。
死因もやっぱり酒だった?
一般的に道隆は病死と言われています。彼が亡くなったとされる長徳元年(995年)は、悪性の流行病が猛威をふるった年でした。実際に都でも、中納言以上の死亡者が8人にものぼったとされます。彼の息子である道頼も、同年に病によって25歳の若さで亡くなっています。しかし、道隆の場合はこの流行病では無いようです。
「大疫癘の年こそ失せたまひけれ。されど、その御病にてはあらで、御酒のみだれさせたまひにしなり。」
(大疫癘の年にお亡くなりになりました。しかし、その病気ではなく、お酒を飲みすぎたためでした。)
と、断定の助動詞 “なり” で言い切られています。実際の死因(深酒による糖尿病?)は正直わかりませんが、はたから見て「酒の飲みすぎだろ?」と思われるくらいの呑兵衛だったのでしょうね。
死ぬ間際まで頭の中はお酒のこと?
そんな道隆が亡くなるときに、おそばの者が西方に道隆を向かせ「念仏をお唱え下さいませ」と勧めると、以下のように言ったそうです。「済時・朝光なんどもや極楽にはあらんずらん」
(済時・朝光なども極楽にいるのだろうか)
※極楽浄土は西方にあるとされ、西方に向かって“南無阿弥陀仏”と唱えるのが臨終の作法でした。
死ぬ間際まで酒仲間のことを考え、死んだ後も一緒に酒を飲むことを望む道隆は、酒と友情に熱い良い男だったことが分かる?お話です。
実は容姿端麗なイケメンだった
道隆は容姿端麗だったようですね。「御かたちぞいと清らかにおはしましし。」
(ご容貌はとてもおきれいでいらっしゃいました。)
また、勅使として来た源俊賢は、病中で正装になることができない平服姿の道隆に会うのですが、この時の様子を
「ことの人のいとさばかるたらむは、ことやうなるべきを、なほいとかはらかにあてにおはせしかば、病づきてもこそかたちはいるべかりけれ、となむ見えし」
(もしほかの人がこれほど重態だったら、気味の悪い感じがするかもしれないのに、やはりふだんと変わらず、とてもさっぱりと高貴な気品を備えていらっしゃったので、病気になったときこそ美貌というのは必要なものだと感じた)
といつも話していたそうです。
病気になっても弱ってもカッコいい。つい人に話したくなるほどのイケメンだったのでしょう。
息子の代で実権を奪われる
実際に道隆が関白となって権力を握っていたのは6年ほどです。自分の父・兼家がそうしたように、道隆も存命のうちに息子の伊周を内大臣にして、さらに関白を譲り中関白家の地位を強大なものにしようとしました。自身の病気が重くなった時、道隆は内裏へ参内して
「おのれかくまかりなりにてさぶらふほど、この内大臣伊周の大臣に、百官幷に天下執行の宣旨賜ぶべき」
(私がこのように病気が重くなってしまいましたので、この内大臣伊周に、百官を統べ天下の大政を執行すべき宣旨を賜りたく存じます)
とお願いをします。
しかし、一条天皇はこれを認めず、関白の座を道隆の弟である道兼へ、道兼死後(なんと関白就任後10日ほどで亡くなってしまった)はもう一人の弟、道長へ与えました。
そのときの伊周の落胆ぶりは、
「手に据ゑたる鷹をそらいたらむようにて」
(まるで手に据えた鷹を逃がしてしまわれたような有様)
だったと書かれています。
“鷹を逃がす”と表現するあたり、時代を感じますね。以降、道隆の子供たち(伊周、隆家)は道長によって政治の中心から排除されていきます。“長徳の変”については、伊周の自業自得感も否めませんが・・・。
なお、伊周は37歳で亡くなりますが、弟の隆家は太宰権帥だった時に起きた“刀伊の入寇”で女真族を撃退する活躍をみせ、中関白家と呼ばれた道隆一家は摂関家ではなくなった後も隆家が発展させます。
(北条時政の妻や源実朝の妻は隆家の子孫にあたります)
おわりに
今回は藤原道隆について、彼が行なった政治的内容ではなく、“人物像”がわかるようなエピソードを紹介しました。最後に、冒頭でも紹介した彼の娘定子の女房である清少納言が書いた『枕草子』における道隆の姿もご紹介いたします。
「道の程も殿の御猿楽言にいみじう笑ひて、ほとほと打橋よりも落ちぬべし。」
(道中も、道隆のおどけた冗談にみんな大笑いして、もう少しで打橋から落ちてしまいそうであった。)
このように冗談を言って人を笑わせる描写が何か所か出てきます。
“友達想いで酒好きで面白い容姿端麗なイケメン”。それが中関白と呼ばれた藤原道隆の素顔だったのでしょう。
<注>
- ※本文中に登場する古文は『枕草子』以外は全て『大鏡』の原文です。
- ※原文の現代語訳は筆者訳で、直訳すると難しい表現の所は意訳にしてあります。
- 『大鏡 下』海野泰男 校注・訳(ほるぶ出版、1986年)
- 『道長と宮廷社会』大津透 著(講談社、2001年)
- 『摂関政治』古瀬奈津子 著(岩波書店、2011年)
- 『源氏物語の時代~一条天皇の后たちのものがたり~』山本淳子 著(朝日新聞社、2007年)
- 『枕草子 一』松尾聰、永井和子 校注・訳(小学館、1984年)
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